永久に来ない春を歩く
ある朝、通勤路の桜がふと「引退の準備」を始めていることに気づいた。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
夏には定年を迎える。 この春は、もう二度と同じ形では訪れない。
だからこそ、今の自分の足元にある小さな変化を、丁寧に拾い上げてみたくなった。
冬の朝、まだ星が凍りついたように残っていた通勤路は、いつの間にか新しい光に満たされている。
見上げれば、あれほど派手に空を占拠していた桜も、今は静かに引退の準備を始めていた。昨日まで死んでいたような茶色の枝が、一晩で命の熱を帯びてきた。頬を撫でるのは、春特有のあの生暖かい風だ。どこか遠くの知らない街の匂いを運んでくるような、少しだけ落ち着かない風。
これまでは、季節が巡っても景色が変わっても、僕のやるべきことは決まっていた。凍える冬も、湿った春も、そしてアスファルトが溶け出しそうな夏も、ただ同じリズムでここを歩くだけのことだった。
助走路を走ったような一年が、もうすぐ終わる。
ふと足を止めると、見落としていたものが意外に多いことに気づく。
視線の角度を数度変えるだけで、世界はこれほどまでに表情を変えていた。
夏には、定年退職という、人生における大きな変化の季節が来る。
嵐なのか平穏なのかはまだわからない。
しかし、もう決まった時間にここを通る必要はなくなるのだろう。
この時期、この時間の春はもう永久に来ない。
それは自由であると同時に、長年慣れ親しんだ重力から解放されるような、妙な浮遊感を伴っている。
それに気が付いたとき、ネクタイを締め直す指先が少し震えた。
だから、もうしばらくの間は、この贅沢な春の時間を、ただの通過点としてではなく、ひとつの目的地として楽しんでみようと思う。
セミの声が耳に障る夏が来ても、あるいはその先の季節になっても、自分の足元にある小さな変化を、丁寧に見つけられる自分でいたい。
いなければならない気がする。
そして、今の春を感じるために、まず明日も少しだけ早起きをしよう。
春の風を体にしみ込ませるために
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