OB会という名の異世界転生
会社を離れた先に広がる世界は、必ずしも穏やかでも合理的でもない。
先日、午後の廊下ですれ違った一人の先輩との会話から、僕は「OB会」という名の異世界の存在を知ることになる。
いや、知ってはいたが見ないふりをしていた。
そこでは時間も役職も、そして常識さえも、別の法則で動いているらしい。
午後のオフィス、廊下で一人の紳士とすれ違った。
年齢は知っている。高齢者と呼ばれるグループに入ってはいるものの、「老人」と呼ぶのをためらうほど、その背筋はすんなりと伸び、身にまとった空気には淀みがない。
そして、服装もスポーツウェアに身を包み、スニーカーを履いている。
それだけでも、周囲の会社員の中でも、その若さは際立って見える。
かつての職場の先輩であり、今はすでにOB会の住人となっている人だ。
「お元気そうですね」 「君も変わりないようで」
そんな、どこにでも転がっている記号のような挨拶を交わす。
彼は七十歳を目前にしているはずだが、その若々しさは、
まるで時間の流れを個人的に少しだけ調整しているかのようだった。
話題は僕の異世界転生(定年)の時期、そして彼が頭を悩ませているOB会の運営へと流れていった。
彼が言うには、今どき古代の巻物を郵送するのはコストがかかりすぎるので、魔法通信網に切り替えたいという。
それが長老たち(上層部)の切実な要望なのだそうだ。
きっと元上司の理事が、暗い室の端でロッキングチェアーに座り、紅茶を飲みながら、一言で依頼し、OB会における若手(先輩)が動く事になったのだろうと思われた。
彼のその口ぶりには、誰かがどこかで軽く放った一言が、静かに波紋を広げている気配があり、また誰かに任せたいという願望も薄くにじんでいた。
僕と言えば、口に出して答えたわけではないが、「方法はいくらでもある」と心の中でそうつぶやいた。
けれど、それを思った瞬間に小さな違和感が胸に刺さる。
すべてのOBが、滑らかにネットの海を渡る事はできない。
溺れている人もいるのだろう。
画面の向こう側にたどり着けない人々をどう扱ったらいいのだろう。
かつては、ただ待っていれば届いた知らせが、 いまは自分で取りに行く情報へと姿を変えた。老いも若きも、スマホをのぞき込んでいる時代。
その事は、もはやハードルなどではないのかもしれないが、老化や失念によって、記憶があいまいになった呪文を忘れてしまうという絶望に、誰が手を差し伸べるのか。という別の救済方法も必要なのだ。
そして、その不安はすぐに形を変えて、自分自身へと跳ね返ってくるのだろう。
OB会という異世界は、会社という合理的な組織とはまた別の、奇妙な磁場を持っている。
そこでは現在の社長ですら、「後輩」に過ぎない。
OB会では、一般社員のほうが役員より早く入会する。
時間も実績も、そこで一度ひっくり返る。
かつての役職や功績が、重力とは別の法則で積み重なっている場所なのだ。そして、これまでのステータスは初期化され、すべてのクエストは手作業でこなす。
OB会の会員という存在意義は、もしかしたら、無償奉仕の量なのかもしれない。 そこには、効率化や人件費という概念さえない。
現在の僕は、会社というシステムの中で年齢相応の「大人」として扱われているけれど、一歩あちらへ踏み出せば、僕はただの「一番の下っ端」に逆戻りする。
これまで覚えた魔法の呪文は、使えない世界。
効率という魔法の届かない世界。
近い将来、僕もまたその異世界へ足を踏み入れることになる。
そして六十歳を過ぎてから、新入社員のような瑞々しい(あるいは痛々しい)謙虚さを求められ、もう慣れてもいない手作業を続けるというのは、考えようによっては非常にシュールな体験だ。
まるで異世界転生時に、神様から若返った体に戻してもらったような感覚。
多くの先輩たちが、この謎めいた組織の中でどのように振る舞い、どのような顔をして過ごしているのか。
その全容は、午後の廊下の静寂の中に溶け込んだまま、今も深い闇に包まれている。
その扉の前に立つ自分の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。
異世界への転生は突如としてやってくる。
準備はいらない。ただ放り込まれるのだ。
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