忘れられる前に。 #04 初めての問責
第3幕 崩れていくもの
第4話 初めての問責
2007年4月に初当選したとき、私が最初に抱いた感想が「よくもまあ、こんなシステムで私たちの生活に関わることを決めてきてくれたな」であったことは、前述した通りだ。
議員になって最初に突き当たった壁、それが「会派」という奇妙な組織だった。
桐生市議会には当時、「愛・桐生」「クラブ21」「日本共産党」「公明クラブ」「友和会」、そして私一人の「薫風会」が存在した。
出馬表明の段階から「当選したらうちの会派へ」と誘われ、当選後も手招きされたが、私はすべて断った。中身も理念も分からない集団に、軽々と身を寄せる気にはなれなかったからだ。
新人だけで会派を作る話も持ち上がったが、しがらみを理由に一人抜け、二人抜け、最後は「最大会派に入らないとキャスティングボートが握れない」という訳の分からない理屈で消えていった(もちろん、その議員がのちにキャスティングボートを握る場面など一度もなかった)。
結果として、私だけが一人残った。
「薫風会」と名乗った一人会派の私を待っていたのは、徹底的な排除だった。
議会運営委員会や各派代表者会議はもちろん、全議員の半数でしか行わないあの形骸化した予算決算審議の委員からすら除外された。傍聴に行っても、委員外発言すらまともに認められない。
長年最大会派にいる他市の議員に「会派の存在意義」を尋ねると、悪びれもせずこう返ってきた。
「役職取りのために決まってるだろ。飲みながらやってんだよ」
また別の議員は言った。「自分で考えなくていい」「何かあっても会派のせいにできる」「異論を事前に潰せる」「ボスさえ抱き込めばどうにでもなる」。
要するに、自ら考える思考を放棄し、無責任に威張り散らすための集団――それが会派の正体だった。もし会派で意見を一元化しているというのなら、議員定数など会派の数だけで十分ではないか。機微に富んだ個々の議員の意見を押し潰すシステムに、何の意味があるというのか。
役職取りの醜さも絶句ものだった。
二年交代で行われる議長、副議長、そして手当のつく監査委員や農業委員の椅子をめぐり、目を血走らせた醜い争いが繰り広げられる。ある元議員に「なぜそこまで役職に執着するのか」と聞くと、呆れた答えが返ってきた。
「冥土の土産にほしい奴もいる」「名刺が百枚タダでもらえる」「葬式の時に立派な肩書で言ってもらえる」
馬鹿馬鹿しさに、ひたすら乾いた笑いしか出なかった。
議員になって一年間、私はこの異様な空間をじっと観察していた。だが、あまりの呆れ果てた実態に、ついに動くことを決意する。
2008年6月。私は一枚の市政報告チラシを作成し、市内全域に新聞折り込みを行った。
『にわやま由紀の市政活動報告』。


そこには、わかりにくい条例の裏に隠された、議員たちの報酬や期末手当の赤裸々な金額、グリーン車料金をピンハネする視察費用の錬金術、そして「議場で寝ている議員」の実態を、イラストと数字を交えてありのままに暴き立てた。
この一枚の紙が、議会に激震を走らせた。
議員たちは露骨に殺気立ち、共産党の議員が慌てて「庭山さん、行動に気をつけて」と心配して声をかけてきたほどだ。しかし当時の私には、事実を書いただけでなぜ彼らがこれほど狂乱するのか、理解できなかった。
迎えた同年9月議会。一人会派が予算決算審議から排除されていることに対し、私が「審議の権利が奪われている」と議場で主張した瞬間、彼らの怒りが爆発した。河原井議員をはじめとする議員たちが地響きのような声で「議事進行!」を叫び、私に対する「問責決議案」が提出された。
「議員としての名誉を傷つけた」という名目の、理不尽極まりない懲罰。
発言の撤回と謝罪を求められたが、私に折れる気など微塵もなかった。「謝罪するつもりもないし、取り消すつもりもない」そう突っぱねた私に対し、議会は平成20年9月26日、大波乱の末に懲罰である「問責決議」を賛成多数で可決した。
彼らはこれで私を黙らせ、市民の前で「恥をかかせた」つもりだったのだろう。だが、その目論見は完全に裏目に出ることになる。
翌日の桐生タイムスや上毛新聞が「庭山議員の問責決議可決」と大きく報じると、地元のローカル紙『桐生タイムス』の投書欄「なんでもダイヤル」や「反射鏡」には、かつてないほどの市民の声が殺到したのだ。
《得票二千人を超える市民の負担を得て当選した新人に、一人会派だからと発言権を与えないルールはおかしいのではないか》(飯島英規氏・元市議)
《異質な意見を排除しようと問責決議まで可決した。桐生市議会として正式に庭山議員の発言の自由を奪ったことになる》(山口典利氏・医師)
《出るくぎは打たれる、といった感じ。おかしなものを「おかしい」と述べたら皆で謝れと責めるのは大人げない》(市民投書)
《古き習慣を打ち破れ。庭山議員や若い新人議員に大いに期待したい》(40代女性)
密室で自分たちに都合の良い『ローカルルール』を勝手にこしらえ、異物を排除してきた側の卑怯なやり口に、市民がはっきりと「NO」を突きつけ始めたのだ。
あせった前市議の佐藤貞雄氏が桐生タイムス紙上に「会派は必要です」などと反論の手記を寄稿する展開にまで発展したが、一度火がついた市民の不信感と疑問は、もはや消すことができなかった。
この問責騒動で議会のアホさ加減に呆れ果てながらも、私は模索を続けた。
北海道栗山町の議会事務局長・中尾修氏という議会改革の先駆者と知り合い、学びを深めていた私は、翌年1月、栗山町への勉強会に向かった。実はこの直前、私を問責に追い込んだ側の同期議員・福島議員と幾井俊雄議長も栗山町へ視察に行っていた。帰ってきた福島議員は「反問権がよかったぞ、庭山さんも勉強してこい」と胸を張っていた。
だが、栗山町に着いて中尾さんに挨拶すると、驚くべき事実を告げられた。「先週来た桐生の議員たち、勉強会の途中で帰ったよ。」
悪天候を理由にタクシーを市役所前に待たせ、途中で退席したという。全国から集まった議員たちが熱心に議論する中、恥を晒して帰ったのだ。この醜態を私が知ることとなり、議会で問題になった。すると彼らは逆上して「弁護士に相談している」などと見苦しい狼狽を繰り返した。
さらに2009年3月、私は鹿児島県阿久根市へと飛んだ。議会と激しく闘っていた竹原信一市長を訪ねるためだ。
幼い息子と娘を連れて市役所に赴くと、作業着姿で現れた竹原さんに、子どもたちが一目散に駆け寄って脚に抱きついた。メディアで「独裁者」と恐れられていた人物の、思いがけない温かな素顔だった。
市長室で議会の惨状を話すと、竹原さんはパソコンに向かい、カタカタとキーを叩いた。「ブログ、書いてみたら? タイトルは……『由紀日記』でいっか」こうして誕生したのが、のちに議会を激震させる『由紀日記』だった。
帰郷後、私がブログで桐生市議会のありのままの日常を実名で発信し始めると、議会内はパニックに陥った。「こんなことを書かれたら怖くて一緒に視察に行けない!」「実名を出すな! 桐生市議会が何をやっているんだと全国から笑われる!」議会運営委員会では、青ざめた顔で「議員の情報発信を制限するルールを作れ」と叫ぶ声が上がった。近藤さんもまた、そのルール作りを提案する一人だった。
彼らにとって、密室の悪行が白日の下に晒されるブログは、どんな刃よりも恐ろしい兵器だったのだ。
2009年7月。私は「財政状況の悪化」と「費用対効果の疑問」を理由に、行政視察への参加を拒否する『理由書』を議長に叩きつけた。同時に、過去十年間の視察成果の開示を求める『質問書』を突きつけた。議会が市民の怒りに晒され、保身に躍起になり、空気が重く澱みきっていたその渦中――。
2009年7月11日のお昼時。近藤さんは、エンジンのかかった車内で首を切られて死んでいた。
