幸福と不幸の総量
人生の中で、幸福な時と不幸な時、どちらが自分の人生において比重が高い(多い)と思いますか?
ここ数年、思うのです。
人生の幸福と不幸の総量は同じではないかと・・・
何 言ってんだ~⁉
と思った、そこのあなた。少しだけ耳(目)を貸してください。
私の人生の若い時代は不幸の連続でした。
寂しくて寂しくて誰かに頼りたくても頼る人もいない。
そんな日々が長く続きました。
時代は過ぎ、たまに悲しいことがあっても日々ずっと不幸だと思わなくなっていった。
そして、こう思うようになった。
人生において、幸福な時間と不幸の時間の総量は案外同じなのかもしれない。
それは単純な足し算ではなく、感じ方の深さという重さを持っているのだろう。
長く続く悲しみの中では一瞬のやさしさが胸に沁み、苦しみがなければ決して気づけなかったぬくもり。
逆に幸福の中にいるときには、それが永遠に続くと信じ、ありがたみを忘れてしまう。
不幸の底を知る人ほど、幸福の光を深く感じ不幸の影を恐れずに歩ける。
幸福と不幸は互いに支え合う対の存在であり、どちらか一方が欠けても人生という均衡は成り立たないのだろう。
幸福の裏には不幸の因があり、不幸の中にもまた幸福の芽が潜んでいる。
因果というものの深い働きがある。
たとえば、病を得て苦しむ人がいる。
その苦しみの中でこそ、人は命の尊さを知り他者の痛みに心を寄せる。
また失うことを通して初めて、持っていたものの有難さに気づく。
もし人生に不幸がなければ、幸福を「幸福」として感じる心さえ芽生えないのではないか。
苦も楽も共に人を育てる縁であり、切り離して計ることはできない。
その均衡を崩すのは出来事ではなく、それをどう受け取るかという一人一人の心。
幸福も不幸も、もとは同じ水面に映る光と影。
ただ、その揺らぎの中に生きるということの深さが宿っている。
長い人生を振り返れば、あの時の悲しみがあったからこそ、いま穏やかに笑えることがある。
あの別れがあったからこそ、いま誰かを大切にできることがある。
そして思う、幸福と不幸の総量は始めから等しかったのだと。
それでも、“私はずっと幸せです” と言う人もいます。
その人たちも、不幸が存在しない世界に生きているわけではない。
むしろ不幸を不幸として認識したうえで、それに呑み込まれない心の置き方を知っている人たちです。
理不尽なものを、美化しない。
その上で、
「それでも、私はここに立つ」と選び直す力がある人。
先天的な才能で、不幸を不幸と捉えずに過ごす人。
深い不幸や寂しさを通過した人。
どちらがどうということではなく、ましてや現実逃避した人ではなく、どちらも現実を直視した人の言葉だと思うのです。
一昨年、下半身麻痺という現実に直面して、「なぜ私がこんな病気に……」という気持ちよりも、本当に苦しかったのは、「病気の正体が分からない」「治療できない」という宙づりの時間だった。
身体の痛み(麻痺)よりも意味の分からなさに耐えられず、方向が見えない不安に最も気持ちが消耗された。
もし人生が不公平で、不幸が理不尽に偏って降り注ぐものだと思っていたら、
「なぜ私が・・・」という言葉を発していたことでしょう。
「起きている」という事実をそのまま引き受け、
その中でどう在るかを、静かに選んでいるだけ。
選ばない自由も含めて。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!