「これが月ですか?」「それは指だ」
仏教界の偉人に龍樹菩薩という人がいます。
ナーガアルジュナとも言います。
蛇(龍)の英雄っていうかっこいい名前。
世界史の教科書に載るレベルの有名人。
彼は、大智度論っていう本を書いてて、超有名な「空」のことが書かれている。らしい。
その本の中で「指月の譬」が出るらしい
言葉は真理と異なる、というたとえ
真理を語るのは
まるで「あれが月だ」と月を指さしているようなもので、その指をみて「これが月ですか?」というようなものだと。
真理を表す言葉自体に囚われるなって意味。
真理は語りえない。
これってかっこいいけど、かっこつけてんじゃなくて
まずそういった前提をイメージしていないと仏法を聞き誤るってことだと思うのね。
実際ね。
あるとき仏教むっちゃ詳しい人に会ったんだけど、なんとなく違和感覚えたことがある。
知識においては自分が及ばないのは当たり前。
私は所詮ニワカだから。
そうじゃなくて仏教を”情報”とか”知識”として捉えている感じに違和感を覚えたんですよ。
その人は仏教だけじゃなくて、いろんなことに詳しかったんだけど、結局、不確かな自分を肯定できていないような気もして。
その詳しい人を非難したいわけじゃなくて「ここ大事だよね」って思ったから書いておこうと思う。
お釈迦さまだって、悟っていきなり説き始めたわけじゃない。
沈黙から始まる。
長い沈黙の後語り始める。
沈黙の意味について色んな解説あるけど、語りえなかったんだと思う。
「真実は語りえない」とかフレーズがかっこいいけど、かっこつけてんじゃなくて、それを頭に入れとかないと、表面的に考えてしまう。
釈迦の言葉はそういう意味では全部”方便”なんじゃない?
浄土仏教だって言ってしまえば
阿弥陀様が完璧な世界作りました!
信じて念仏したら全員救ったるって誓っとる!
そりゃありがたいね、南無阿弥陀仏!
ってだけの話で、こんなツマンネー話はないけど、感動して念仏してしまう。
これを文章として真に受けてもしゃーない。
言葉の向こう側掴む感覚じゃないと、この魅力って伝わらないんじゃないかと。
不便でしょうがないね、言葉ってのは。つくづく
やっぱ、私のブログは所詮そらごとたわごと
南無阿弥陀仏
