怪談 二つの金華山
あらすじ
江戸日本橋の呉服商の三男である”俺”は、家運の傾きと自らの「予備」という立場に不安を抱いている。
蔵の整理を機に、いずれ切り捨てられるのは自分ではないか、という恐れが現実味を帯びる。
そんな折、「三年続けて参詣すれば金に困らなくなる」という金華山の噂を耳にし、家には商い見聞と偽って旅に出る。
奥州街道を北上し、仙臺、松島、石巻、鮎川を経て、海を渡り遂に金華山へ至る。
しかし帰路に就こうという時「もう一つの金華山」、かつて本当に金を産出した場所の存在を知る。
”困らなくなる”
その意味とは。この旅の果てに、待つものとは。
吹けば飛ぶ身の上
江戸という地は、落ち着かぬ場所だった。
朝は早く、夜は遅い。商いの音が絶えぬ代わりに、心の内が休まらぬ。
日本橋の川風は生温く、湿り気を帯びた匂いがいつも町に纏わりついていた。
俺は日銭に追われる身分ではない。日本橋でそこそこの呉服商、その三男坊だ。
表から見れば暖簾もそれなりに古く、得意先も持つ店である。だが家の内側から見れば、安泰とは言えぬ。
母は三年前、病であっけなく亡くなった。咳が続くと思ったら熱を出し、そのまま床から出ることはなかった。
母を亡くしてから、この家の運は下向いた気がする。
長兄は母の位牌の前で深く頭を下げたその日から、正式に番頭となった。物言いこそ穏やかなままだが、眉間の皺が消えぬ。
次兄は帳場に座り、番頭と肩を並べる。算盤の珠を弾く音が、以前よりも早くなった。
俺はといえば算学だけは叩き込まれたが、帳場に座るでもなく、得意先を回るでもない。
「いざという時のため」
今は表向き番頭を退いた父は、かつてそう言った。
いざという時。つまり、俺は”予備”だ。必要になるまでは、置いておかれる。
遊ばせてもらっている、と周りは言う。だがそれは、「今は」という但し書きつきだ。
商いは浮き沈みがある。
近ごろは上方からの品が安く入る。色も柄も洒落ているうえに、値が張らぬ。江戸の職人が丹精込めた反物が、値で負ける。
父は口にこそ出さぬが、顔色が冴えぬ日が増えた。
夜更けまで帳面を見つめ、燭台の火が小さくなっても気づかぬことがある。
かつては客の前で笑みを崩さなかったが、最近は笑うまでに一拍空くように感じる。
ある朝、蔵の戸が開け放たれていた。
湿った土の匂いと、古布のかすかな香りが流れ出る。いつもは鍵の掛かった重たい扉が、無防備に開いている。
父が帳場の者を集め、淡々と言った。
「蔵を一度、整理する。古い道具類は値のつくうちに手放せ」
火事への備えか。虫干しか。そんなことは誰も問わぬ。
皆、分かっていた。
長兄が蔵帳を抱え、次兄が鍵束を受け取る。俺は土間の端に立ち、それを眺めていた。
蔵の奥から運び出されるのは、長年使われた算盤箱。角が丸くなり、手垢で黒光りしている。
節句の飾り。かつては店先に吊るし、客の目を引いたものだ。
もう仕入れぬ柄の見本帳。過ぎた流行の色褪せた紅や藍が、物悲しい。
店の歴史の端切れのようなものが、次々と外へ運ばれる。
父はただ、厳しい顔をして値踏みしている。
「これは幾らだ」
古道具屋が口を開く。父は一瞬だけ目を細め、頷く。
長兄は運び出された見本帳の角を揃え、「曲げるな」と小さく言った。その声音は静かだが、奥歯を噛み締めているのが分かる。
次兄は「蔵が痩せちまうな」と笑った。軽口だ。だが笑いは長く続かぬ。
蔵が軽くなるほどに、家の余裕も削がれていく。
不要と切り分けられたものの中に、余裕や見栄、そして時間まで混じっている気がした。
「おい、それを運んでくれ」
次兄が言う。
俺は無言で、古い反物の箱を抱えた。思いのほか軽い。
軽い箱。軽い身分。今この瞬間、俺の価値も軽くなっている。
いざという時、真っ先に手放されるのは道具か三男坊か。値がつく分、道具の方がましかもしれぬ。
父は俺を見ない。
見れば、何か言わねばならぬからだろうか。それとも、本当に目に入っていないのか。
昼過ぎ、蔵の半分が空いた。
板壁の向こうから差し込む光が、いつもより奥まで届く。影が薄くなった分、空洞が目立つ。
「これでしばらくは持つ」
長兄が帳面を閉じる。
しばらく。いつまでだ。その言葉はあまりに、頼りない。
俺は庭に出て、井戸の水で手を洗った。冷たい水が指先を締める。
この家は、傾きつつある。
いや、すぐにどうこうなるほどではあるまい。だが、余裕は間違いなく減った。
三男坊という予備はある種、余裕の象徴だった。余裕が消えれば、俺はただの邪魔者になる。
夕刻、父は珍しく俺を呼んだ。
「算学は続けているな」
「はい」
「帳面は読めるか」
「読めます」
父はしばし黙り、俺の顔を見てそれ以上は続けず、視線を外した。
俺は、どうなるのだろう。この年で他の店に丁稚奉公は、ないとは思うが。
その夜、離れの寝所で横になりながら、俺は天井を見上げた。
木目の筋を指でなぞる。家の金で食い、家の名で生きる。
それは、以前よりも心細い話だ。俺は、”まだ”切り捨てられていないだけ。
家が持ち直せば、俺は穏やかな余生を送れるかもしれぬ。だが、もし傾けば。
誰も口にはしないが、真っ先に放り出されるのは。売り物にならぬ三男坊、俺だ。
算盤の珠を思い浮かべる。家の勘定と、自分の勘定。
それを分けて考えねばならぬ時が、近づいている気がした。
金華山の噂
そんな折に、俺は神頼みの話を聞いた。
噂を聞いたのは、馴染みの安居酒屋でのことだった。暖簾は煤け卓は油で光り、酒は薄い。そして、口が軽い者が集まっている。
奥で静かに飲んでいた男が、盃を置いて言う。
「みちのくに金華山って島があってな。三年続けて拝めば、金に困らなくなるそうだ」
誰かが鼻で笑う。
「三年だぁ?仙臺まで行くだけでも、片道八日は掛かるだろうに。それを三度も。阿呆らしい」
「仙臺からもう少し行くらしいがな。戻ると羽振りが違うって話だ。まあ、俺ぁ見たこたぁねえが」
金に困らなくなる。その言葉が、やけに耳に残った。
蔵を軽くした家の三男が、拝めば金が湧くと聞いて胸算用を始める。我ながら、勘定は得意でも分別は安い。
それでも、金は要る。
家に頼らずとも困らぬだけの金。父や兄らに頭を下げずに使える金。いざというとき、どこへでも出て行けるだけの金。
俺は盃を傾けながら、頭の中で算盤を弾いた。
江戸から仙臺の道中。宿代、食い扶持、関所での手間。船に乗るならさらに銭がいる。
それを三年続ける。確かに阿呆らしい。それほどの金を使って、やることが神頼みとは。
その夜、離れの寝所で天井を見上げながら、俺は勘定を続けた。
三年。長いか短いか。
二十を越えた身には、三年は重い。だが一生に比べれば、わずかな刻とも言える。
遠い。だが、手の届かぬほどでもない。
「伊勢よりは、近いか…」
神を当てにするなど柄ではない、と自分で笑う。俺は信心深い質ではない。正月に社へ参るのも、家の習いだからだ。
だが金に困らなくなるという具体のある願いは、何とも言えぬ甘い響きがある。
それから数日、俺は何度もその名を思い出した。
金華山。黄金の華と書く。いかにも縁起が良い。
町を歩きながら道端の地蔵を見ても、普段は気にも留めぬのに目が合った気がした。
追い詰められて、やることが神仏に縋る。我ながら呆れる話だ。
だが、どうしても頭から離れない。
ある晩、再びその安居酒屋へ足を向けた。あの男がいるかと思ったが、姿はない。代わりに別の常連が座っている。
「金華山ってのは、どのあたりなんだ」
何気ない顔で尋ねると、常連は目を細めた。
「おや三男坊、気になるか」
「話の種にだよ」
「仙臺から何日か歩くらしい。海に浮かぶ島で社があってな、金の神さんだと。弁財天だったか、なんだったか」
詳しいことは知らぬらしい。ただ「三年続けて」という言い回しだけは、誰もが口にする。
三年続けて。その縛りのせいか、少しだけ真実味がある。
一度拝んで叶うなら、江戸は富者で溢れているはずだ。三年通える者だけが、救われる。
帰り道、橋の上で足を止めた。川面に灯りが揺れている。
家に話せば笑われるか、叱られるか。「遊びが過ぎる」と言われそうだ。
結局は、俺の肝が据わるかどうか。
離れに戻り灯りを落としたあとも、眠りは浅かった。
三年後、どうなっているか。そのとき俺は、旅が出来る身分だろうか。
考えれば考えるほど、今しか機会はないように思える。
翌朝、帳場の脇を通りながら、俺は父の背を見た。
小さくなったわけではない。だが、背中の重みが増している。
愚かだと知りつつ、決心が固まっていく。
夜更け、俺は小さな包みを広げた。母の形見の守袋だ。中身は空だが、紐だけは丈夫に残っている。
「三年、か」
声に出してみると、不思議と現実味が増す。
成るかどうかは知らぬ。だが、試してみたい。神を当てにするのではない。三年通い切った、その時の自分を当てにする。
ようやく腹が据わった。春のうちに一度、参る。
家には、みちのくの商いを見てくると告げる。止められることもなかった。
立場を再認識させられたが、まあいい。三度目を終えたとき、何も変わらなければ笑えばいい。駄目で元々だ。
俺は、旅支度を始めた。
遊ぶふりをして、使わずに貯め込んだ銭。身を立てるには足りぬが路銀にとしては十分、の筈だ。
今が使いどころ、ということなのだろう。
奥州街道
江戸を出て三日もすると、銭の減りが目に見えて早くなった。旅とはそういうものだと分かってはいたが、懐の軽さは足取りにまで響く。
指が日に幾度も懐へ伸び、巾着の膨らみを確かめる。そのたびに、珠を弾くように心が縮む。
日本橋を発った朝は、まだ気持ちが先に立っていた。
橋の上は荷を担ぐ者で混み、魚の匂いと川風が混じる。振り返れば店々の暖簾が並び、いつもと変わらぬ江戸の顔がある。
江戸を離れることは心細くもあったが、清々した気分が勝った。
奥州街道は思ったよりも広く、そして長い。
道の両脇に続く松並木は、規則正しく立ち、影を落とす。昼は陽を遮り、夕には黒い柱のように沈む。
東海道ほどではないが、人は多かった。
伊勢へ向かう者。逆に戻る者。荷を積んだ馬を引く商人。無言で歩く浪人風の男。子と共に歩く女。
誰も彼もどこかへ行く途中で、どこかから逃げているようにも見えた。
宿場町に入ると、活気と疲労が入り混じる。
草鞋を脱ぎ湯気の立たない飯を掻き込み、また明日歩くために横になる。その繰り返しだ。
四日も歩くと草鞋の紐が足に食い込み、かかとに水膨れができた。江戸で歩くのとは訳が違う。
道は乾いている日もあれば、ぬかるむ日もある。小さな川を渡るたび、足袋の中まで湿る。
銭は、宿代と飯代で減る。
節約のため、昼は握り飯一つで済ませる日もあった。それでも減る。
道端の茶屋で湯をもらうにも銭が要る。関所を通るにも書付が要る。
旅は、歩くだけではない。
ある夕刻、同じ宿に泊まった男が、囲炉裏端で話しかけてきた。
「どこまで行く」
「仙臺まで」
「商いか」
「まあ、そんなところだ」
男はうなずき、酒をすすった。
「仙臺の先に金華山ってのがあるらしいな」
何食わぬ顔で聞いてみた。
「聞いたことはある」
「島だそうだ。船を出して渡るとか」
向かいにいた別の男が、首を振る。
「いや、山だ。里の裏手にある小高い山だと聞いたぞ」
「女人禁制だとか」
「いや、今は緩いとも聞く」
同じ名を言っているはずなのに、指す先が噛み合わない。
妙だ。ここまでぶれるものだろうか。噂というのは、当てにならぬものではあるのだが。
俺は盃を持つ手を見つめた。
詣でる先が、島か山かも定かでない。それでも、歩いている。
江戸では空は建物の隙間から見上げるものだったが、ここでは空が広い。
風が強い。草の匂いと、土の匂い。ときおり牛の匂いが混じる。
遠くに見える山並みが、少しずつ形を変える。昼に見た稜線が、夕には違って見える。影の落ち方で、山は別の顔になる。
宿で横になると、山の夢を見た。昼に見た稜線が、重なってまた分かれた。どちらが本物か分からない。
目を凝らすと、鈍い光が山腹に溜まっていた。金色というほど鮮やかではない。濁った、重たい色だ。
そこから水が噴き出す。慌てて逃げたが、やがてその水は俺を飲み込む。塩辛い。これは海水だ。
目が覚めた時、それを吉夢だとは思えなかった。
胸の奥に、冷たいものが残る。
それでも、歩くしかない。後ろへ戻るという選択は、最初から頭にない。
戻っても、立場は変わらぬ。進めば、もしかしたら何かがあるかもしれぬ。
銭は減るが、足は慣れる。
道中で出会う者たちの顔も、次第に覚えなくなる。すれ違い、追い越し、追い越される。
誰もが、自分の用を抱えている。俺もまた、用を抱えている。
ようやく、仙臺の城下が見えた。
遠くに城の屋根がかすみ、その周りに町が広がる。
ほっとするより先に、思った。ここまで来てしまったな、と。
江戸から何日歩いたか。銭はいくら減ったか。算盤の珠は、もう弾けぬ。
噂の島か、それとも山か。金に困らぬという話が、空言か否か。
俺は立ち止まり、城下を見下ろした。
戻るなら、まだ間に合う。だが足は、前を向いていた。
仙臺
仙臺は、江戸に比べれば静かな町だった。
人はまずまず多いが、騒がしくない。歩く者の足取りに余裕がある。
商いの声も張り上げるというより、交わすといった風だ。銭の匂いも薄い。
通りを歩けば、城下らしい整い方が目に入る。道は広く、屋敷は整然と並ぶ。どこか抑えられた空気がある。
大きな暖簾を掲げるのは、味噌や醤油を量り売る店だ。桶の蓋が半ば開き、濃い香りが漂う。
隣には米屋。俵が積まれ、秤の分銅が鈍く光る。茶を商う店先では、若い衆が包み紙を整えている。
派手な見世物はない。
和菓子屋の硝子越しに丸い菓子が並び、呉服屋の奥には反物がきちりと重ねられている。
畳屋は軒先に青い藺草を干し、薬種屋は小さな引き出しを幾重にも重ねた棚を背に客の話を黙って聞く。
江戸の大通りのように、目を奪う品で競う気配は薄い。ここでは暮らしが先にあり、商いはそれに従っている。
武家屋敷の塀が長く続く一角を抜けると、寺の屋根が重なる。町人地に入れば店と店が寄り添うように並ぶが、それでも押し合うほどではない。
詰まりすぎぬ。騒ぎすぎぬ。城下という枠の中で、皆が自分の分を守っている。
そんな中で、毛色の違う店を見つけた。
江戸大阪以外に、書店があるとは思わなかった。間口は狭いが、奥は思いのほか深い。覗かせてもらおう。
棚には和本が重ねられ、紐で括られている。往来物、暦、軍記、仏書。客は武家の若者らしく、巻物を手に取り、値を尋ねていた。
銭はここでも要る。だが、この店に積まれているのは、米や味噌のように腹を満たすものではない。言葉。教え。昔日の話。
欲ばかりが先に立ち、算段が後に回った。書を開く暇を惜しんだ報いが、今の我が身の軽さではないか。
後悔を抱きながら外へ出ると、夕刻の鐘が鳴った。
華やかではない。だが、良い街だと思う。
宿で荷を解き、島への道を聞いた。
船はここから東の牡鹿半島の港で、定まった日に出ると宿の主は言った。
牡鹿。江戸では聞かぬ地名だ。
「潮だ風だで、休むこともある。急ぐなら漁師に頼めぬこともないが、値は張る」
主は手拭いで手を拭きながら、こちらの顔を探るように見た。
俺は曖昧に頷いた。港まで行ってから、また考えることにしよう。
街で金華山と口にすると、住人らの目がわずかに細くなる。
「詣りか」
「三年行く気なのか」
まだ決めていないと言うと、ひとりが肩をすくめた。
「それ目当ての旅人も、随分増えたもんだ」
別の男が言う。
「ある日思い立って、急に向かう奴が多い。神さんに呼ばれてんのかね」
急に、か。
江戸を出たのは、急だっただろうか。
蔵が軽くなるのを見たあの朝から、俺は焦っていたと思う。あれを急と呼ぶのか、それとも遅すぎたと呼ぶのか。
銭は減る。何もしなくても減る。宿賃、飯代、酒一合。
聞く話は、相変わらず一致しない。
「島だ。沖に浮いてる」
「山だ。登れば分かる」
「困らなくなる」
困らなくなる、か。今さらだが、困らなくなるとはどういうことだ。
銭が湧くのか。それとも、欲が減るのか。
欲が減るのでは、ここまで来た意味が薄い。出家して、坊主になりたい訳ではない。
欲のために、ここまで来たのだ。家に縛られぬ銭が欲しい。頭を下げずに済む立場が欲しい。
俺は清くなりたいのではない。負けぬ立場になりたいだけだ。そう言えば聞こえは良いが、何者に成りたいかは未だ固まらぬ。
夜、宿で横になると、海鳴りがかすかに聞こえた。
島は見えぬ。
行くならば、さらに銭が減る。戻ると決めれば、ここまでの銭が無駄になる。
どちらも損だ。
蔵の品を値踏みする父の顔が浮かぶ。
「値がつくうちに手放せ」
考えれば考えるほどに、次に手放されるのは自分に思えた。
懐の紐を解き、銭を数え、また締める。
まだ足りる。まだ決めずにいられる。
松島
翌日は、仙臺で聞いた金華山道を歩いた。
牡鹿半島へ抜ける道だという。踏みしめられた土は固く、ところどころ白く乾き粉のように靴裏へまとわりつく。
幾度も往来した巡礼や商人の足が、地面を均し、道そのものを磨いてきたのだろう。
途中で、松島へ差しかかった。
潮の匂いに、焼けた醤の甘辛さが重なる。茶屋が軒を連ね、煤けた暖簾が風に揺れるたび、団子を焼く煙が低く流れた。
炭火の爆ぜる音に混じり、客を呼ぶ声が飛ぶ。値をまけろ、いやこれが精一杯だと笑いを交えたやり取りが途切れぬ。
道の両脇には土産物が並ぶ。小さな貝細工、絵葉書めいた刷り物、名所の名を染め抜いた手拭い。どれも手に取られるのを待っている。
銭が鳴るたび品は次の持ち主へ移り、棚はすぐに埋め直される。動いているのは人より先に、銭だった。
寺の石段は擦り減り、中央だけが浅く窪んでいる。賽銭箱は角が丸く削れ、撫でられた木目が黒光りしていた。
参る者は列をなし、柏手の音が乾いて空へ散る。銭が落ちるたび、箱の奥で跳ねる音が小気味よく響く。
願いはそれぞれ違えど、差し出す手つきは皆よく似ている。
浜へ出れば、入り江いっぱいに舟が浮かぶ。櫂が水を裂くたび冷たい水音が続き、客を乗せた小舟が入れ替わり立ち替わり岸へ着く。
船頭は景色の由来を語り奇岩の名を並べ、いかに目出度いかを説く。客は頷き笑い、財布の紐を解く。
景色を眺める気にはならなかった。それよりも先に目につくのは、銭の流れだった。
茶屋から寺へ、寺から舟へ、舟から土産物へ。円を描くように巡り、誰の懐にも留まらぬ。
名所とは、こうして出来上がるのだろう。
拝む前に払う。眺める前に払う。眺め終えてもなお払う。景色そのものより、景色に触れたという証に値がつく。
物見遊山の連中は、本当に楽しそうだった。余りの銭で時間を買い、余りの銭で風景を買う。笑い声は高く、足取りは緩い。
今日の楽しみが尽きれば、また別の楽しみへ移るだけなのだ。
その脇を、黙って通り過ぎた。
ここまで来るだけで、この銭の減り。目を向ければ欲が起きる。欲が起きれば、足りぬことを思い知らされる。
松島の喧騒は、祝祭のように明るい。だがその明るさは、銭の光を映しているに過ぎぬのかもしれない。
笑い声の背で、波の音だけが等しく続いていた。意識せずとも、早足になる。
早く、早く通り過ぎたい。
海は、ただ寄せては返す。その律だけが、喧騒の外で変わらずにあった。
いつかここで、引け目を感じずに、あの景色を。
願いの形がほんの少しだけ、定まったように感じた。
石巻
川沿いに近づくほど、音が層を成して厚くなる。
船縁が軋む音、櫓のきしみ、水を押し分ける鈍い響き。そこへ人の声が重なり、さらに荷のぶつかる乾いた音が混じる。
舟が着くたびに、桟橋は一瞬だけ詰まる。だが誰も立ち止まらぬ。
荷を担ぐ者は足元を見ずに進み、受け取る者は目だけで合図を送り次の手へと渡していく。重さに顔を歪めることはあっても、手を止めることはない。
米俵が並べられると、縄の締め具合を確かめる指が走る。わずかな緩みも見逃さぬ。
俵の角を叩き、音で湿りを測る者もいる。値を決める前に、すでに勝負は始まっている。
材木置き場では水に浸してあった丸太が引き上げられ、鈍い水音とともに地面へ落とされる。
年輪に触れていた子どもは、いつの間にかその端を押す側に回っている。遊びと仕事の境は薄い。誰も教えぬ。見て覚えるしかない。
夕刻になると、川面が赤く染まる。だが仕事の手は緩まぬ。むしろ影が伸びる分だけ動きは速くなる。
日が落ちれば、見えぬ分だけ危うい。だからこそ、明るいうちにできるだけ先へ進める。
松島のように目を楽しませる賑わいではない。ここでは、全てが次へ流れるためにある。人も物も、留まるものは価値を持たぬ。
この町の活気もまた、どこか別の場所へ向かって絶えず流れていた。
市を抜けながら思う。こういう町で腹を据えて働ける者は、島に渡って祈る要もあるまい。
魚を扱うなら朝が勝負だ。木を扱うなら雨を読む目が要る。
もしかしたらだが、俺は反物を広げて人の顔色で値を探るより、上がった品で値が立つ方が好みかもしれぬ。
気分ではなく物で決まる。その方が、分かりがよい。荷の行き先を決める側に立てば、銭の流れもまた握れる。
とはいえ、今の俺に目利きも縁もない。だがあの流れに噛むことができれば、食い扶持は繋げる気がした。
港に立ち、沖を見る。ここから先が牡鹿半島だという。
山に阻まれ見えないが、この先に金華山がある。
”困らない”
その正体は、まだ見えぬ。だがこの旅で、朧気ながら形を取ってきたようだ。
ここからさらに一日歩けば鮎川。そこが金華山までの船が出るという、目的の港。
逡巡は短い。心は既に、鮎川への道へ向いていた。
鮎川
道は山に寄り、海は見えたと思えば木々に隠れる。
石巻を離れてしばらくは、まだ人の気配が続いていた。荷を積んだ馬、空の籠を背負った者。
だが、それが少しずつ削がれていく。気づけば、後ろから来る足音が消えた。
前を行く者を、久しく見ていない。
漁村が点々と続き、家々は海風に背を向けるように寄り添っている。板壁は潮で白く粉を吹き、屋根は低い。
戸口には、縄が掛けられている。道は砂混じりになり、足裏にざらつきが残る。
鮎川へ近づくにつれ、潮の匂いが濃くなった。鼻の奥に塩が刺さる。
浜には船が伏せられ、網が干され、重石が並ぶ。石は丸く削れ、幾度も使われてきたことが分かる。
働きの手はあるが、騒ぎはない。
ここから先へ出る者は多くないのだろう。
行き交う視線は短い。よそ者を見る目は冷たくはないが、深くもない。
船宿で名を告げると、主人は顔を上げた。
「金華山か」
それだけ言い、帳場の奥へ視線を落とす。
帳場は薄暗く、障子越しの光が算盤の玉に鈍く当たっている。指が玉を弾く音が、静かな部屋に乾いて響いた。
その音に、江戸の帳場が重なる。
俺は立ったまま、口を開かない。
日取りを告げられる。
「明日、潮は悪くない。だが風次第だ」
俺は懐から銭を出し、板の上に置いた。
重なった銭が、低く鳴る。
主人の指が、ほんのわずか止まった。銭の縁に触れたまま、目だけがこちらを見る。
測るような目だった。
年は五十を越えているだろう。日に焼けた皮膚に、細かな皺が刻まれている。
「三年目か」
不意に問われた。
「まだ、一度目だ」
そう答えると、主人は鼻で息を抜いた。
「先は長いな」
やがて何事もなかったように、帳面に墨を引く。
紙を擦る音が、妙に長く感じられた。墨の線が、俺の名の横に引かれる。
それは、ただの渡し賃の記しに過ぎぬ。だが、どこか契りのようにも思えた。
銭を差し出す手が、わずかに震えた。懐は軽くなる。だが払ってしまった以上は、もう止まらぬ。
島へ渡る。三年続けて詣でるかどうかは、その先で決めよう。だがまず一度目を踏まねば、何も始まらぬ。
宿へ戻る道すがら、海の向こうを見た。山に遮られ、島はまだ見えない。
見えぬものに銭を置いたのだと思うと、足裏がわずかに頼りなくなる。
浜辺には、明日の支度をする者たちがいた。帆を確かめ縄を引き、舟底を叩く。
「風が回らなきゃいいがな」
「沖は読めん」
短い言葉が交わされる。
誰も、神の話はしない。海の話しかしない。
明日、渡る。途端に、喉がひどく渇いた。
井戸水を飲んでも、渇きは残る。唾を飲み込む音が、自分でも分かるほど大きい。
ここまで歩いてきた道が、背後で音もなく崩れるような気がした。
何に対してかは分からないが、俺は怯えているようだ。正体は知れない。
鮎川の夜は早い。灯りは少なく、海の黒さが際立つ。
床に入っても、潮騒がやけに近い。耳の奥で波が砕ける。胸の内側まで湿ってくるようだ。
船は三日に一度だと聞かされた。潮が合わねば出ぬ。風が荒れれば延びる。
島へ渡る者は、それに従うしかない。
俺は天井を見つめる。
困らなくなる、その先を、見に行く。
その言葉を、自分で繰り返す。
だが本当は、困ることに怯えているだけかもしれぬ。
俺自身に値を付けられること。安い高いの話ではない。そのこと自体が怖い。
海の向こうに、この怯えを押し返す何かがあると信じたい。
夜半、風が強まった。戸板がわずかに鳴る。
もし明日、船が出ぬと言われたら。俺は安堵するか、落胆するか。
自分でも分からぬ。
夜明け前、浜へ出た。空はまだ青黒く、東の端がわずかに白む。
舟は静かに浮いている。主人が帆を確かめ、空を仰ぐ。
「出す」
短い声だった。それだけで、腹の底が冷える。
戻る道は、もう考えぬ。俺は舟へ歩み寄る。
足元の砂が、わずかに沈む。
海の道
舟縁をまたぎ、板の間に腰を下ろす。舟は思いのほか低く、海面が近い。縄が解かれ、櫂が静かに水へ入る。
最初のひと掻きで、浜が思った以上に遠のく。
砂を擦る音が消え、代わりに水を裂く規則正しい音が続く。櫂が押し出すたび、舟は海へと滑り出す。
浜の家並みが、背後で小さくなる。沖へ出ると、うねりが出た。
舟底が軋む。腹の底が揺れる。波頭が白く崩れ、冷たい飛沫が頬にかかる。塩の味が唇に残る。
誰も口を開かぬ。
乗り合わせたのは年嵩の男が一人、若い男が一人。互いに視線を合わせぬ。ただ前を見る。
皆、銭に困っての神頼みなのだろう。参拝とは思えぬ、暗い空気が漂う。
やがて東の白みが強まり、空と海の境が分かれ始める。
その境目に、濃い影が浮かんだ。最初は雲かと思った。だが形が崩れぬ。
影は、やがて山の輪郭を持つ。
あれが。

海の上に、森の塊が立ち上がっている。岸から見えぬはずの山が、正面から迫る。
近づくにつれ、木立の一本一本が分かれてくる。岩肌が露わになり、波が砕ける白が裾を飾る。
岩を避け、浅瀬を読み、船頭が櫂を操る。帆は上げぬ。潮に逆らわぬよう、静かに寄せる。
岩混じりの岸に、簡素な桟が組まれている。
舟底が、こつりと何かに触れた。縄が投げられ、岸の杭に掛けられる。
「足元、気をつけろ」
短い声。
板から岩へ、足を移す。足裏に、陸の硬さが戻る。舟の揺れが、まだ身体に残っている。
若い男がそろりそろりと降り、年嵩の男が黙って後に続く。
荷を受け取り、岸へ立つ。船頭は縄を締め直し、こちらを見る。
「明日の潮で戻る」
それだけ言い、帆を整える。
「遅れるなよ」
舟は再び押し出される。櫂が水を掻く。
俺たち三人を置き、舟はゆっくりと離れていく。波に揺れながら、小さくなる。
明日、あの舟が来なければ、ここに取り残される。なぜか、そんなことが頭を過ぎった。
振り返る。
山が、目の前にある。道は細く、森へと続いている。
潮の匂いが薄れ、代わりに湿った土と木の匂いが強まる。
石段が現れる。一段、また一段と登っていく。
背後で波の音が続く。だが、森へ入るごとに遠のく。
鳥の声がする。木漏れ日が、斑に地を照らす。
やがて、社の屋根が見えた。
島の金華山
拝殿の前で手を合わせたまま、しばらく動けなかった。
願いの形が定まらぬ。銭が欲しいのか、安心が欲しいのか、それとも困らぬという曖昧な状態そのものか。
伊勢参りの話を思い出した。
あれは一生に一度と定めて晴れ着に身を包み、道連れを得て陽の下を歩いてゆく旅だ。
人は多く、笑い声が絶えぬ。道中そのものが祝事であり、参る前からすでに何かを受け取っている。
願いもまた、どこか整っている。家内安全、商売繁盛。人の世の内側で完結する願い。叶うか否かはともかく、願うこと自体に迷いはない。
一方で、金華山。ここでは願いを言葉にするほど、かえって嘘になるような気がした。
多少は見えてきたつもりだった”困らぬ”という意味が、また分からなくなった。
手を合わせたまま、指先に力が入る。
三年。あと二度。
三度目に参拝した時には、俺は”困らない”の正体を掴めているのだろうか。
境内の端に、小さな祠が並んでいた。白い紙垂が風に揺れ、岩肌に打ちつけられた釘が黒く錆びている。
誰が打ったのか。何を祈って。ここへ来た者の数だけ、祈りが積もっているはずだ。
社務所の脇で、宮司が箒を動かしていた。砂を掃く音が、さらさらと続く。
俺は神社を離れ、ただ歩いた。
奥へ、奥へ。
山道は細い。根が浮き、石が転がる。踏みしめるたび、土がわずかに沈む。
海から吹き上げる風は、ここでは弱い。代わりに、木の匂いが濃い。湿り気を含み、肺の奥まで入り込む。
金華山は、山だ。
当たり前のことが、妙に腑に落ちる。
島だ、山だ、女人禁制だ、緩い、噂は噛み合わなかった。だが目の前にあるのは、山だ。
山腹の開けた場所に出ると、海が見えた。高みから見る海は、浜から見るそれと違う。広く、冷たい。
向こうに、陸がある。あそこへ戻る。明朝。
一夜を越えれば、また銭の減りを数える日々へ戻る。
ここで一晩過ごす。それだけで、何かが変わるのか。
石に腰を下ろす。掌を開く。何もない。銭は懐にある。だが掌は空だ。
風が変わった。木々がざわめく。遠くで鳥が一声鳴いた。
夕刻、宿坊へ戻る。
島に泊まる者は少ない。畳は新しくないが、清められている。火は控えめ。灯りは暗い。
膳が運ばれる。山の菜、干した魚、少しの米。
粗い。だが不足ではない。困らぬとは、このことかと一瞬思う。
いや出来ればもう少しと、欲が出てくる。人の欲というのは、際限がないものだ。
夜が更ける。外は暗い。海は見えぬ。だが音はある。
波が岩に当たる低い音。風が枝を鳴らす音。どれも、生家で聞くことはない音。
横になる。天井は低い。梁が黒い影を落とす。
目を閉じる。目を閉じても、暗さは変わらない。
瞼の裏に、さきほどの海が残っている。高みから見た、あの冷たい広がり。波の形だけが、ゆっくりと繰り返される。
寝返りを打つ。畳がわずかに鳴る。その音がやけに大きく感じられ、しばらく身を固くする。
隣に誰かがいるわけでもないのに、気配を気にする癖が抜けない。
外の音は途切れぬ。波は規則的ではなく時折強く、間を置いて弱くなる。
風も同じだ。一定であれば気にも留めぬのに、変わるたびに耳が拾う。
眠りに落ちる、切っ掛けが掴めない。
膳のことを思い出す。足りていた。あれで十分だと納得しかけたところに、もう少しという声が差し込んだ。
あの声はどこから来る。
満ちても消えぬ類のものだと気づき、余計に落ち着かなくなる。
また寝返りを打つ。梁の影の位置がわずかに変わっている。灯りは落としたはずなのに、外からのわずかな明かりで形が見える。
時間は進んでいるはずだが、進んだ手応えがない。
手を胸の上に置く。鼓動は早くも遅くもない。だが、落ち着いているとも言い難い。
眠れぬ理由を探そうとすると、理由ばかり増えていく。
海の音。風の音。欲の形。三年という長さ。戻ればまた減っていく銭。
どれも小さくはないが、決定打でもない。
目を開ける。
暗い天井がそのままある。変わらぬものが、かえって不安を増す。
息を吐く。長く吐いても、何かが抜けていく感じはない。
外で、ひときわ強く波が当たる音がした。遅れて、岩を擦るような低い響きが続く。
その音だけが、確かにここにあるもののように思えた。
耳を澄ます。
やがてまた、同じような音が来る。
暗い啓示
波の音が続く。規則を持たぬはずのそれが、今は揃って聞こえる。
外へ出るな、と誰かが言った。何があるとも言わぬ。
その言葉に、腹が立った――のではない。
従いかけた自分に、腹が立った。
足が止まりかけていた。理由もなく、ただ「そういうものだ」として、内に戻ろうとしていた。
これまでと同じだ。言われたからやめる。
そうやって残ったのが、今のこの身だ。どこにも行けていない。
喉が渇く。当て擦りついでに、水のために立ち上がる。進まぬ理由はもう要らぬ。
板の間に手をつく。
冷えている。骨の内側まで伝わるような冷たさだ。どこかで触れた石と、同じ温度。
だが、どういうわけか俺が向かったのは戸口だ。
油皿に火を戻す。灯りは弱い。闇は退かぬ。ただ、形を変えて周囲に貼りつく。
戸を開ければ、外は真の闇だ。
山の闇は、街のそれと違う。奥行きがない。境もない。
外へ出るな。言葉が、今度は内側から響く。
何がある。
何もないのかもしれぬ。ただ闇があるだけかもしれぬ。
だが道は、外へ続いている。
戸に手をかける。冷たい。
木ではないような感触が、一瞬だけ指に残る。
一気に開ける。
夜気が差し込む。潮と木の匂い。昼よりも濃い。
一歩、外へ出る。砂利が鳴る。
境内は沈んでいる。社の輪郭だけが、空の濃淡に浮く。
波の音が近い。山が、海に浮いている。
拝殿の前に立つ。鈴は鳴らさぬ。
闇の中の社は、昼と同じか、それとも違うのか。
目を凝らしても、何も増えぬ。だが、減ってもいない。
懐に触れる。紐は結ばれている。
銭はある。まだ困るほどではない。
父の声がする。
「困らなくなる、だと?」
嘲りの声色ではなかった。
「そんな奴が、どれほどいる」
ただ、事実を確かめるような響き。
波が一つ、強く打つ。
皆、困っている。父も、兄も、例外ではない。
それは分かる。だが。
なぜ俺だけが、ここまで縛られている。
その思いだけが、沈まず残る。
足元の石を踏む。石は、ただそこにある。値も、用途もなかった。
だがこの石は。何も生まぬが、ここを支えている。
胸の結び目に指を当てる。ほどけば、軽くなるのか。
銭か。執着か。それとも困ることへの恐れが、離れてくれるのか。
波が強まる。
息を吐く。
冷たい空気が肺に入る。刺すようだが、苦しくはない。
山も語らぬ。社は語らぬ。
だからこそ、はっきりする。答えではなく、我が身を縛る大本の在り処だけが。
波の音は、続いていた。何となく足元の石を拾った。その瞬間。
冷たい。指から熱が奪われるようだ。
指を離そうとしても、何故か力が抜けない。
遂には凍え始めた。震えが止まらず、歯の根が合わない。
この石に殺される。青を通り越して黒色に変わりつつある手を、千切れんばかりに振り回す。
離れろ。離れろ。離れろ。
そこで目が覚めた。
だが枕元には、石があった。それに触れていないのに、指先だけがまだ冷えている。
どこまでが夢でどこからが現だったのか、判然としなかった。
もう一つの金華山
朝の潮で島を離れた。舟は静かで櫂が水を裂く音だけが、規則正しく耳に届く。
誰も口を開かぬ。語れば値が落ちるかのように。口に出すのが惜しいものでもあるかのように。
振り返れば、金華山の森がまだ朝靄に沈んでいる。社の屋根も、石段も、やがて輪郭を失い、ただ濃い影の塊となった。
あの闇の奥に、神はいたのか。いたとして、俺の願いは届いたのか。
浜へ戻ると、陸はひどく平らに見えた。島の木々の密さが、まだ目の裏に残っている。
空は広いのに、どこか薄い。踏みしめる砂も軽い。
これをあと二回。来年も再来年も、俺はここに来れるだろうか。店は。錢は。
あの帳場の算盤の音が、波音よりも現実味を帯びて胸を刺す。
参拝を終えてから、胸の奥に暗く重たい石が一つ収まった気がする。曖昧な不安が、名を与えられたような。
依然として俺は、困ったままだ。
石巻の市は相変わらず賑わっていた。魚が並び、材木が積まれ、声が飛ぶ。
値を呼ぶ声、笑い声、叱る声。生きるための音が、あちこちでぶつかっている。
俺は宿に入らず、そのまま河岸の茶屋へ入った。軒先の暖簾が潮風に揺れている。
湯を頼む。
粗い茶碗から立つ湯気が、冷えた指をほぐす。島の石段を上った足の疲れが、今さらながら膝に出た。
いや、これまで歩いてきた全ての疲れだろう。
三度通わねばならぬ。此度の旅では、まだ何も変わらない。それを直視したからこその疲れ。
向かいの卓では、二人の男が酒を酌み交わしている。日に焼けた顔、節くれ立った手。川筋の者だろう。話の端が耳にかかった。
「そりゃあ島の話だろう」
「違ぇよ、山だ。涌谷のほうの」
涌谷。
聞き慣れぬ地名だった。頭の中で、島とは逆の、土の匂いをした景色が浮かぶ。
「陸の金華山だとさ。山の腹から金が出るって話だ」
「島じゃなくてか」
「島には神様だけだ。こっちは金が出るかもしれねぇ」
掘れば出る。その言葉が、妙に生々しい。祈りも誓いもいらぬ。ただ土を割り、石を砕き、掘り進めばよいという響き。
俺は盃を置き、声をかけた。
「金華山は島ではないのか。俺は参拝してきたばかりだが」
男は片眉を上げる。警戒するような目だ。
「今はあそこが、金華山と言われているがな」
もう一人が続ける。
「だがな、昔ぁ金が出たって話がある。涌谷の山だ。あれも金華山と呼ぶやつがいる」
「どっちが本物なんだ」
と問うと、男は笑った。
「本物?」
盃を揺らす。酒が縁をなぞる。
「困らなくなるほうが本物だろうよ」
その言葉に、茶屋のざわめきが一瞬遠のいた気がした。
島は拝む場所。手を合わせ、頭を垂れ、己の小ささを思い知る場所。
俺は島で手を合わせた。夢を見た。だが今すぐに、俺を救ってくれるとは思えなかった。
涌谷の山は、ここから北へ入った先だという。川を遡り田を越え、山へ入る。街道を外れた道。楽な行程ではあるまい。
「金は、今も出るのか」
と問えば
「さあな。政宗公の時代には賑やかだったようだが、今はどうだか」
そう言って、男は餅を噛みちぎった。
金山としてはもう、枯れたのだろうか。しかし、まだあるやもしれぬ。
俺は湯を飲み干した。
成程。話が合わぬのはこれのせいか。金華山は二つあったのだ。
石巻の空は低く、雲が流れている。島の木々の闇と涌谷の話が、頭の中で並んだ。同じ名を持ちながら、指す先が違う。
俺は宿で、荷をほどき座り込む。そして石を取り出した。
枕元にあった石だ。置いてくる気にもなれず、持ってきてしまった。あの夢ほどではないが、少し冷たい。
帰るか。それとも、もう一つの金華山に寄るか。
銭は、まだ尽きていない。だが帰路の分だけ。これ以上の旅程は心許ない。算盤を弾けば、答えは明らか。
だが、今戻ってどうする。参拝を終えてみれば、三年通うのがいかに悠長なことか分かってしまった。
あと二年。あと二回。俺にとってそれは、遠い。
ならば、やることは決まった。拝むだけで足りぬなら、掘るしかない。
神の島の次は、神の山だ。
涌谷
石巻から川沿いに遡り田を抜け、低い山並みへ入る。
川はゆるやかに蛇行し、時折小舟が岸に繋がれている。水面は鈍く光り、海の広さとは違う山間の閉じた世界があった。
海の匂いは消え、代わりに湿った土と刈り残しの藁の匂いが立つ。泥に沈んだ足跡が乾き、白くひび割れている。
道は細く、ところどころ荷駄の跡が乾いて固まっている。轍に溜まった水が、空を歪めて映していた。
遊山客など通る筈もない、山村の、生活の為の往来。
村人に金華山と問うと、島の話は出ない。
「ああ、あの山だ」
と顎で示される。
指された先は、派手でも険しくもない。こんもりと盛り上がった、どこにでもありそうな山だ。
木立に覆われ、岩肌は見えぬ。稜線は丸く、牙も爪も持たぬ獣のように、ただそこに伏している。
あれが金を抱えている、と言うのか。
山裾には小さな集落があり、畑と溜め池が寄り添うように並んでいる。低い屋根の家々からは煙が上がり、干した大根が軒先に揺れる。
子どもが裸足で走り、女が水を汲む。年寄りが縁に腰を下ろし、こちらを一瞥してまた視線を戻す。
島のような隔絶はない。人の営みの延長に、山がある。神域というより、背後の土手のようだ。
古い神社は、山の中腹にあった。
石段は低く、縁が丸い。長い年月で削れ、苔が薄く張り付いている。踏むと湿り気が靴底に伝わる。石と土の境が曖昧だ。
鳥居は色を失い、木肌が灰色に乾いていた。注連縄も細く、ところどころ切れかけている。
社殿も小さい。飾りは少なく、彫り物も浅い。風雨に削られた面が、そのまま露わになっている。

島の社は、もっと豪奢だった。朱が強く、鈴の音が澄み、参詣人の銭が絶えなかった。言い換えれば、金回りが良さそうだった。
果たして、ここの神様は。
遠くで鍬の音がする。規則正しく、土を打つ。風が田を渡る。葉擦れがかすかに届く。生活の音の中に、社が沈んでいる。
拝殿の前に立つ。
鈴はない。賽銭箱も簡素だ。板はひび割れ、釘が浮いている。誰かが補修した跡もあるが、継ぎ目は粗い。
俺は銭を一枚、置いた。
音は軽い。乾いた板の上で、薄く響いてすぐ消える。
島で鳴らした鈴の澄んだ響きとは違う。ここでは、銭はただの金属だ。神に届く前に、板に吸われる。
手を合わせる。
掘れば出る、と言った男の声がよみがえる。
だが、どこを掘る。山は静かに立つばかりで、腹を割る口など見せぬ。
目を閉じると、島の夢が蘇る。金の玉が石に変わる光景。懐に詰まった重さ。掌に残った冷え。
ここには海がない。足元は湿った土だ。掘れば泥が爪に入り、石が出るだけではないか。
ふと、社殿の脇に小さな祠があるのに気づく。石で組まれ、苔に覆われている。供えられた花は枯れかけ、色を失っている。
その奥に、細い道があった。獣道のような、か細い道が。
頻繁ではないが、誰かが通っている。草が両側へ押し分けられ、土が踏み固められている。
細道に足を踏み入れる。
草は腰まで伸び、袖に絡む。枯れた穂が頬を打つ。踏み固められてはいるが、獣の道に近い。
振り返る。誰もいない。
社の屋根も見えぬ。村も見えぬ。風も、田も、遠い。
山の中は湿り、音を吸い込む。鳥の声さえ、低くこもる。自分の足音だけが、遅れて耳に届く。
息が白くなるほどではないが、冷えが肌にまとわりつく。
道は次第に傾き、石が増える。苔が厚く、滑る。手をつくと、冷たさが掌に染みる。
木々は高く、空は細く切り取られる。枝が絡み、光を奪う。
どこまで来た。
社からそう遠くはないはずだ。それでも、背後の気配がすべて断たれたような錯覚がある。
そう思ったとき、霧が立った。
地面から滲むように、白いものが広がる。はじめは足首を撫でるほどだった。それが、ゆるやかに膝へ、腰へと絡む。
あの石に触れたときの冷えを、なぜか思い出した。
不祥物
最初は靄かと思った。朝の冷えが残した湿りが、草の根から立ちのぼるだけのものだと。
だが違う。霧は地面の割れ目から湧き出す水のように、絶え間なく溢れてくる。踏みしめた土の隙間から、白が染み出す。
息を吸うと、冷たい。肺の奥がひりつく。胸の内側を、薄い刃で撫でられるようだ。
吐いた息が、自分のものか霧のものか分からなくなる。
戻ろうと振り向く。
道がない。
確かに踏みしめてきたはずの細道が、消えている。草はどれも同じ高さで揺れ、踏み跡は見えぬ。
石も根も、目印になりそうなものはことごとく失せている。
木立は同じ顔をしている。曲がり具合も枝ぶりも、見分けがつかぬ。先も後ろも、同じだ。
胸が騒ぐ。
あの島で見た夢と似ている。あの感触。確かなはずのものが、指の間から性質を変えていく感触。
霧の中、影が立つ。
いつからそこにいたのか分からぬ。白の奥に、ただ濃い部分がある。
肩の位置、腕の垂れ方、人だと思う。
だが、顔がない。目も口も、鼻もない。のっぺりとした面が、こちらを向いている。
だが、こちらを見ている。
視線というものが、目を持たずに存在している。刺すような感覚だけが、確かにある。
鼓動が耳の裏で鳴る。血の音が、霧に吸われず残る。
懐かしい何かが、引き剥がされる感覚。
不意に、父の声がした。
低く、短く笑う声。叱るときも、笑うときも変わらぬ、乾いた響き。
それが、薄くなる。まるで遠い川の音のように、次第に遠ざかる。
待て。口が動く。
だが、声が出ない。喉が凍りついたように閉じている。
影は動かない。ただ立っている。それなのに、いやそれこそが耐え難い。
兄達の顔が、浮かぶ。笑い合ったときの横顔。帳場で算盤を弾く手元。
だが、ぼやける。目鼻が溶け、影だけが残る。思い出そうとすると、霧がかかる。
やめろ。
今度こそ、はっきり言ったはずだ。だが、空気は震えない。
影が、近づく。
足音はしない。霧の濃さが変わる。白が押し寄せ、影が大きくなる。
目の前に立つ。顔のない面が、すぐそこにある。
触れられた気がする。どこかは、定かでない。ただ冷たい。
氷よりも冷たく、だが水気はない。乾いた冷えが、皮膚を通り越して中へ入る。
その瞬間。
何かが抜ける。俺が、俺から剥がされる。
影のない顔が、わずかに傾いた気がした。
膝が震える。
立っている感覚が曖昧になる。地面があるのか、霧の上に浮いているのか。
影が、さらに近づく。重なる。冷たい。
石。
あの島から、拾ってきた石。あの凍えるような冷たさ。
あれと同質の寒さ。
息ができない。その瞬間、霧が裂ける。音もなく、白が引く。
視界が戻る。
俺は山の斜面に、一人立っていた。
草が揺れ、遠くで鍬の音がする。村の生活の音が、かすかに届く。
胸に手を当てる。鼓動はある。
名を、心の中で呼ぶ。今度は、答えが返る。
霧は、もうない。
俺は、島の金華山から拾ってきた石を探した。だが、どこにもなかった。
しばらく立ったまま、斜面の土を見ていた。
霧は消えている。だが、足元の土はまだ湿っている。
胸の内側が、ひどく冷える。背に、何かの気配を感じる。
振り向いても、誰もいない。それでも、視線だけがある。
あの影はまだ、ここにいる。
神徳
母は優しかった。
冬の朝、冷えた手を懐で温めてくれた。叱られた後、誰にも見えぬように背を撫でてくれた。あの掌の温もりを、確かに覚えている。
父は厳しかった。だが、嫌いではなかった。
夜更け、帳場で独り算盤を弾く背を、俺は知っている。灯心の火が揺れるたび、影が壁に伸びる。あの背は、家そのものだった。
あの背を、誇らしく思った。
同時に、怖かった。
父の目はいつも勘定していた。米の値、客の顔色、季節の巡り。俺の働きも、兄との差も。
兄たちは出来がよかった。
長兄は静かで隙がない。言葉少なでも、商いの要を外さぬ。次兄は口が立ち、客を笑わせる。場を温め、財布を緩めさせる術を知っていた。
俺はその間で、半端だった。何かを任されれば、必ずどこか足りぬ。
それでも、兄達を憎みきれなかった。
幼いころ、川で溺れかけた俺を引き上げたのは長兄だ。無言で腕を掴み、水から引きずり上げた。
祭りの夜、自分の分を半分にして、黙って団子を分けてくれたのは次兄だ。
覚えている。覚えているのに。
俺は、いつも余りだった。母が死んでからは、余計にそう思うことが増えた。
父の「足りぬ」という声が胸に刺さる。兄の何気ない助言が、見下しに聞こえる。
家を守りたいと思った。同時に、家が潰れればいいと思った夜もある。
帳場が燃え蔵が空になり、皆が途方に暮れる。その中で俺だけが胸がすく。そんな光景を、何度も夢見た。
俺がいなくなれば、皆が困るかと考えた。実際に困るのは、たぶん俺だけだとも知っていた。
疎ましかった。
離れたかった。
でも、認められたかった。
父に一度でいい、「よくやった」と言わせたかった。兄達に肩を並べたかった。
そのどれもが、本当だった。
だから決められなかった。家を出る覚悟も、家の中で他を押しのける覚悟も。
腹を決められぬまま、金華山へ詣でた。自らの行く末を、神に放り投げたのだ。
卑怯だと分かっていた。
胸の奥で、何かが軋む。
父の顔を思い浮かべる。皺は。目は。口元は。
ぼやける。輪郭が揺らぐ。まるで水面に映した影のように。
長兄の横顔。次兄の笑い声。
遠のく。耳鳴りの奥へ沈む。
そのたびに、背後の気配が近づく。
ふいに、母のことを思い出した。
蔵の裏にしゃがみ込み、息を殺していた日のことだ。算盤の音が追ってくる気がして、耳を塞いだ。
足音がして、身を固くした。
だが叱られなかった。
母は隣に座り、何も言わず、しばらく同じ方を見ていた。
「辛かったのね」
問いではなく、確かめるような声だった。頷くと母は、俺の袖の土を払った。
「自分で、三男は要らぬと思っているのでしょう」
胸が痛んだ。言い返せなかった。
母は私の手を取り、冷えた指を包んだ。
「よくお聞きなさい」
声は静かだったが、揺らがなかった。
「番頭になれなくても、この家を出ることになっても、お前はお前です」
母は続けた。言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「どこへ行っても、お前は同じ人間です」
私は母の顔を見た。母は微笑まず、ただ真っ直ぐに見ていた。
「人に決められたことを、自分まで決めてしまわなくていい」
それだけ言うと、母は立ち上がった。
去り際に振り返り、
「覚えておきなさい。お前は、余りものではありません」
せっかく取り戻したのに。俺はまた、この言葉を失う。
背後で、何かが息をした。思い出が、掬われる。
底から掬い上げられ、どこかへ流される。気づけば、俺の指は地面に食い込んでいる。
湿った土を掴む。爪の間に泥が入る。
掘れ、と。
声ではない。だが、逆らえない。
掘る。石に当たる。砕く。
その度に、胸の中のもつれがほどけていく。
憎しみも、愛しさも。誇りも、劣等感も。
一緒くたに、薄くなる。
背後の気配が、近い。
俺は、土を掘る。
あれほど重かった家のことが、軽くなっていく。
軽くなることに、安堵が混じる。肩が楽になる。息が深くなる。
それが、いちばん堪える。
神とは、このようなものなのだ。神が決めた結果を、人に押しつける。
きっと、解決はするのだろう。きっと、困らなくなるのだろう。だがそれは、俺の望んだ形ではない。
俺は膝をつく。土に手をつく。両手は泥だらけだ。
いつの間にか、石を握っていた。石の中に、輝きが混じる。
山の風が吹く。葉が鳴る。光は鈍い。
気配は、もうなかった。
背後の村の音は、遠い。
ただ金の光だけが、俺をここに繋ぎ止めている。
俺は、誰だ。

困らぬように
風は柔らかい。海は穏やかだ。
涌谷で得た砂金は布に包み、懐にある。確かに重みはある。
だがそれが何を意味していたのかが、掴めぬ。
過去を、思い浮かべようとする。
算盤を弾く、指が浮かぶ。節の張った指。墨を含んだ爪。
そこまでは出る。だが手首から上が、ない。
顔が続かぬ。
「まだ足りん」
その声を思い出そうとする。
音の形だけがある。誰の声だったかが、定まらぬ。
俺は歩きながら、何度もを思い出そうとする。
だが、人がいない。そこに立つはずの誰が、影すらない。
俺は立ち止まり、懐の布を握る。これは何の為の金だったかが、曖昧だ。
俺の、この先の。
そこで、言葉が途切れる。
俺はどこの誰だったのか。何に思い悩み、そして、どうしてここにいるのか。
自らのことが何一つ分からぬなら、もっと不安になる筈だ。
しかし、欠けていると理解しているのに、それを取り戻したいという衝動がまるで湧かない。
それが、何よりも異様だ。
俺は、自分の名を思い出そうとする。声に出してみようとする。
何も出ない。舌が、知らぬ形を探して動く。
風に乗って、人の声が届く。
「それ、持ってっちゃだめだってば」
声の方を向けば、小さな社があった。苔むした石段の先、木々に囲まれてひっそりと立っている。
その足元で子供がしゃがみ込み、境内の石を拾い上げていたようだ。
「置いてきなさい。そういうものは、持ち帰るもんじゃないよ」
母親らしき女が、やや強い口調で言う。子は不満そうに口を尖らせるが、やがて渋々と石を元の場所へ戻した。
「なんで駄目なの?」
「いいから。困ることになるからね」
子は納得した様子もなく、それでも母に手を引かれて去っていく。
そんな習わしがあるのか。俺も気をつけねばな。
そう心の中で呟き、再び歩き出した。
松島の入り江が見える。
島影が重なる。ここではない、どこかの島で祈った。
なにを祈った。それは本当に俺だったか。
潮が満ちる音がする。俺は歩く。
自らが欠けた感覚を、痛みなく受け入れながら。
懐の金だけを、確かなものとして。
なにを望み
遊山客とは裏腹に、松島の入り江は静かだった。
涌谷で得た砂金は、量にすれば多くはない。だが、商いの種には足りた。
どこの誰とも知れない男が、金を銭に変えるなど上手くいくものかと半ば捨て鉢だった。
意外なことに、換金はすんなりといった。
その後は座に銭を払い、商いの権利を買った。石巻で塩と干魚を仕入れた。新参にも関わらず、疑われることもない。
松島は人の往来が絶えぬ。元手さえあれば、どうとでもなった。宿場からの買いも入り、何一つ困ることはなかった。
湾の向こうに、島影が幾重にも重なる。
松島や ああ松島や 松島や
どんな句だと、誰かと笑った気がする。相手の顔は思い出せない。
舟着き場の脇に、小屋を借りた。
塩俵を並べ、干魚を吊るす。帳面を広げ、墨を磨る。
今日の一番客は、旅の僧だった。塩を少し。銭を受け取る。
近在の漁師が干魚を持ってくる。替える。少し積む。
こんなことを繰り返して、銭はまた増える。
日が暮れるころ、帳面を閉じる。俺は、どこかで算学を習ったようだ。
俺は誰だったか。生家はどこだったか。思い出せぬ。親は誰か。兄弟はいたのか。
夕暮れ、旅人が塩を買いに来た。荷を背負った、まだ若い男だった。
銭を渡しながら、ふと問う。
「金華山へ行ったことがあるか」
俺は首を横に振る。
「いえ」
海は鈍い金色に染まり、波間の光がゆらと揺れている。
「三年続けて参れば、金に困らぬと聞いたが」
俺は銭を受け取り、帳面に墨を引いた。
「さあ。天涯孤独の気楽な身。銭で困ったことがないもので」
俺は博打も酒も、好きではないようだ。自分一人食わすくらい、大した話ではない。
男は苦笑した。
「それは、羨ましいことだ」
男は小さく頷き、礼を言って去った。
銭は増える。今日も。
帰るところはない。
俺は何が欲しかったのか、思い出せぬまま。
春の潮風は、少しだけ暖かかった。

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