誰かを裁く前に、立ち止まって考えたいこと
何かを裁いたり、決めつけたりする前に、少し立ち止まって考えてみたい。そんなことを思わせてくれる本に、最近出会った。
あえて言葉を選ぶなら、「反戦・反差別・反性暴力」というくくりに入る本かもしれない。
戦争、差別、そして暴力。この三つは、実は根っこのところで繋がっているのではないか——そんなことを考えさせてくれる一冊だった。
興味を惹いたのは、その視点が「傷つけられる側」からではなく、「傷つけてしまう可能性を持つ側」から書かれていたこと。
書き手自身が、自分ごととして、自分の性のあり方や生き方と向き合いながら綴っているように感じられた。
こういう角度からのテーマの書き方には、あまり出会ったことがなくて、新鮮だった。
公にはあまり知られていない歴史的な資料や事例も紹介されていて、読み物としても勉強になった。
文章自体は語りかけるような柔らかいトーンで書かれていて、重いテーマの割にはすっと読めてしまう、そんな本だったように思う。
読み終えて、まず抱いたのは尊敬の念だった。真面目で、誠実で、どこか優しさのある本だと感じた。
目を逸らさず、なかったことにせず、真摯に取り組んできた人が、少数であっても実際に行動を起こし、活動を続けてきたこと。
そのことに、素直に頭が下がる思いがした。
ただ同時に、読みながら、ふと引っかかることもあった。
ここから先は、あくまで私個人が感じたことなので、「そういう見方もあるのか」くらいの気持ちで読んでもらえたら嬉しいです。
「自虐と反省」で、思考が止まってしまう前に

この本に限らず、この種のテーマは、ある一つの側面にクローズアップされすぎることで、結局のところ「自虐と反省」というかたちで着地してしまいやすいのかもしれない。そこが、少しもったいないなと感じました。
体験したこと、目にしてきたことは、その人にとっての紛れもない事実であり、そこにある苦しみや痛みもまた本物だと思う。それを否定する気持ちは、私には全くない。
ただ、ある方向に偏った事実だけが取り上げられ、より大きな力に利用されてしまう危うさも、どこかにあるのではないかと感じています。
たとえば、日本の電車が一分の狂いもなく時刻通りに発車する、というあの光景。
あれを見るたびに、「勤勉で真面目、誠実に物事へ向き合おうとする」気質が、多くの日本人に共通しているのだろうな、と思わされる。
ただ、その真面目さや誠実さは、時にそのまま「つけ入れられやすさ」にもなりうる。
本人が本当に意図していたこととは違う形に、話がいつのまにか拡大されてしまうことがあるように思う。
だからこそ、この問題は、ある一つの国や民族の話として語られている限り、広く大きな対話には育っていきにくいのではないか、と感じました。
これは、誰にとっても他人事じゃないから

性という営みを持つ以上、この問題は世界中の、同じ性を持つすべての人にとって、本来対話されて然るべきテーマなのではないかと思います。
その視点から問題提起をしない限り、この話題は結局、意図的な大きな力によって都合よく利用されるだけのものになってしまうかもしれない。
たまたま私は、こうしたテーマを扱った本が、たまたま日本語で世に出ていて、たまたま手に取ることができた。それだけのこと。
他の国々の人々も、きっと同じ構造の問題を抱えているはずで、それを自ら取り上げ、対話しようとしている人たちは、世界にどれくらいいるのだろうか、とふと思う。
女性の側からの声はよく聞くけれど、男性の側からそれを取り上げた活動というのは、あまり耳にしない。単に、私の見聞が狭いだけなのかもしれないけれど。
もう一つ気になるのは、こうしたデリケートなテーマは、文章のごく一部だけが切り取られて、ネット上で思わぬかたちで拡散されてしまうことがある、ということです。
書き手がどんなに丁寧に、全体として何を伝えたかったとしても、一部分だけが独り歩きしてしまえば、それだけで議論が止まってしまう。
大きな力とまでは言えないかもしれないけれど、そうした「切り取られる怖さ」自体が、対話の入り口を狭めてしまう一因になっているような気もしています。
善か悪かを決める前に、深呼吸をひとつ

正義か悪か。本当は、そんな単純な二元論で語りきれる問題ではないはずなのに、気づけばそういう図式で裁かれてしまうことが、世の中には少なくないように感じる。
もっと深く対話をして、いろんな立場からの視点を持ち寄る必要があるはずなのに、
そういう手間のかかるプロセスを飛ばして、「絶対的な正しさ」を振りかざして一方的に断罪する方が、手っ取り早いと感じられてしまうのかもしれない。
争いも、いざこざも、戦争も、なかなかなくならないのは、根本をたどれば、そのあたりに理由があるのではないかと、私は思う。
救済のための制度は、絶対にあるべきだと思う。それは揺るがない。
ただ、問題を捉える視点がいつまでも「善悪」からしか語られないのだとしたら、対話はなかなか先に進まないのではないだろうか。
人には、感じる力がある。想像する力がある。相手の痛みや苦しみを、自分のことのように感じ取る力を、多くの人が本来持っているはずだ。
善と悪という単純な物差しだけで、人の生を測りきれるものなのだろうか、とも思う。
誰しもそれぞれの生い立ちがあり、同じスタートラインに立っているわけではない。
この世界は、そもそも一律で平等にはできていないのだと思う。
裁かない神々も、いるらしい

その意味で、宗教のあり方は、どこか象徴的だなと感じる。
日本には八百万の神がいる。ギリシャにも、ゼウスやアフロディーテをはじめ、個性豊かな神々がいる。多様な神々が、それぞれの領分を持ちながら共存している、そんなイメージだ。
その一方で、ただ一人の、孤高の神を信じる世界も、同時に存在する。
唯一絶対の正しさを掲げる枠組みは、もしかすると、物事を単純化して「善か悪か」という二元論に人々を引き寄せやすくする側面も、少しはあるのだろうか——そんなふうにも感じる。
もちろん、これは私の勝手な想像に過ぎないし、実際にそこで生きている方々の信仰のあり方を否定するつもりは全くない。それもまた、一つのあり方なのだろうと思う。
色々な意見があって、それでいいのだと思う。
世界から争いがなくなるまでには、まだまだ長い時間がかかるのかもしれない。
善か悪かで裁き合うような考え方も、この先しばらくは残っていくのだろう。
それを積極的に良いことだと肯定したいわけでは決してないけれど、そういう考え方をする人たちもいる、という現実からは、目を背けずにいたいと思う。
でも私は、できることなら、対立のない、自分も相手も裁かない、寛容と理解と誠実に満ちた対話のある世界で生きていきたいと思う。
ちなみに、この文章のきっかけになった本のタイトルは、あえて書いていません。
特定の書名や著者に結びつけることで、内容の一部だけが切り取られたり、著者の意図とは違う形で語られてしまうことを、少し心配したからです。
この文章自体も、あくまで私個人がそこから考えたことであって、本そのものの評価ではない、というつもりで書いています。
もしこの文章を読んで、何か思うところがあった方がいたら、そっと感想を聞かせてもらえたら、嬉しい。
正しさの物差しを 一度そっと手放して
すれ違う声の奥 耳を澄ませてみる
裁くための言葉なら もう十分に溢れてる
僕らが探しているのは そこじゃないはずだから…
