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もう気にしない

23歳5ヶ月、先天性の腎疾患が見つかった。

もっと早く知れていたら、私の人生は、もう少し違っていたのだろうか。



妊娠42週、へその緒を首にぐるぐる巻きつけ生まれてきた私は、母と一瞬だけ対面しクベース収容された。

数日間NICUで入院をし、黄疸が酷かったため母乳は飲めずにミルクで栄養を摂取。


少し大きくなってからも、毎月のように40℃の熱を出し心配されていたらしい。

少しだけ覚えているのは、黒い診察台に寝かされ手の甲に点滴を打たれたこと。

涙をこらえる私を見て、強いね〜!と優しく笑ってくれた看護師さん。

診察が終わるともらえる、ペコちゃんのキャンディ。



「生まれた時から反抗期」と両親に言われる程、私は弟に比べ育てにくかったらしい。

自分でも自覚はある。

こだわりが強かった。
戸の開け閉め、靴の並べ方、衣類や寝具の皺、それら1つ1つが気になった。

「見たかって〜!」
泣きながら母に見たかどうかを聞き、見たよと言われても「見てない!」と泣く。

それらのこだわりがどこからくるのか、どうすれば楽になれるのか、まだ物心がついて間もない頭で必死に考えた。

こだわりが強く口達者、子供らしさのカケラもない。

それでも子供に変わりはない。
心と言葉が直結しないもどかしさ。

私の態度でイライラする母を見ると、苦しくて悲しくて仕方がなかった。
気がつけば、いつも母の顔色を伺って過ごしていた。

白飯を食べていると、中から樋屋奇応丸が出てくる。
ヤクルトを飲むと樋屋奇応丸の味がする。

樋屋奇応丸を飲まされている理由は分かっていた。



反対に、いつも無邪気な年子の弟。

欲しいものは欲しいと言い、嫌なものは嫌と言う。

父に似た私は離れ目でつり目、おまけに混合乱視のため目が見えにくく目つきが悪い。

母に似た弟は端正な顔立ち。
ぱっちり二重で目も丸く、姉の私から見ても天使のように可愛らしかった。

弟は可愛いね。
聞き慣れた言葉だ。



でも弟は天使なんかじゃない。

喧嘩をすると、両親は私を怒った。

そりゃそうだ。
両親の前で弟をしばく私を見て、私を怒るのは当然のことだろう。

窓から身を乗り出し落ちた時も、私が押して落としたことにされた。

私は何もしていない。

事あるごとに、全ては私のせい。

両親は知らない。
両親に笑顔を向けながら、私の腕や足をつねっていた弟のことを。

弟は、私と両親に向ける顔が違った。
弟なりの、可愛がられるために身につけた能力だったのだろうか。

「いや、違う。」
「アイツは腹黒いヤツだ。」
悪魔の顔をした私が、時々顔をだす。

弟は樋屋奇応丸の味を知らない。

未だに私は大人になりきれない。



体は少しずつ強くなったけれど、周りに比べると疲れやすかった。

それでも頑張ってきたつもりだ。

テストで100点をとると褒められる。
先生の言うことを聞くと怒られない。
ルールからはみ出さず、何事も真面目に。

それが、スポ少バレーを始める小学4年生までの私。


「自律神経失調症」
「起立性調節障害」


そう診断されたあの日から、私の人生は変わってしまった。


今まで出来ていたことが出来なくなり、身も心も擦り減った。

生きる気力も希望も何もかも失せ、達者な口は無口になった。


どんなにしんどくても、学校へと引き摺られる。

仮病のように扱われる。

どこにいても孤独だった。


私が死ねば解決する。
端的だが、本気でそう思っていた。

でも死ねなかった。
死ぬことへの恐怖より、弟のことを心配してしまった。

私とは違い、いつもみんなの輪の中にいる弟。

給食の余りがあると、廊下でジャンケンをする弟の大きな声が聞こえてくる。

食が細く、下げられた机たちに挟まれた状態で給食を食べていた私とは全然違う。

なにもかも正反対。

それでも、やっぱり姉弟。
嫌いにはなれなかった。

私が死ねば、学校生活に影響がでる。
ここにはもう住めないかもしれない。

死ぬことを諦めた私は、生き地獄を生きる覚悟を決めた。



5年生になる頃には体調も少し落ち着いた。

けれど、学級崩壊寸前のクラス。
落ち着いた環境ではなかった。

バレーボールでは遠征が増え、強くなるにつれ監督の厳しさも増した。

練習も週2から週4に。

落ち着いたとはいえ体調不良は変わらず続き、周りに沢山迷惑をかけてしまった。

その事実に、両親からの当たりがきつい。

ホームでの練習試合の日、熱が出たため休もうとした私に激怒した父は、私の携帯電話を投げバキバキにした。

頭がガンガンする中、飛び出た基盤や散った部品たちを拾い集め胸に抱えて泣いた。

体調管理をしっかりしろと言われても、疲れはとれないし常にしんどい。

動けばお腹は空くと言われても、動けば動くほど私のお腹は膨れて食欲がなくなっていく。

それでも呆れられたくなかった。

頑張れる時は頑張らないと。

校内マラソンでは学年女子1位になり、シャトルランでは県の新記録タイ。

何か結果を残せば母は喜んでくれた。



6年生になり、新チームがスタートした。

リベロのような安定したレシーブ、明るい性格でチームを盛り上げてくれていた後輩が怪我で離脱した。

その直後の試合は、自分でも情けない程ボロボロだった。

「子供たちを責めないでください」
珍しく優しい鬼監督。

解散した直後に母から放たれた言葉を、私は一生忘れることができないと思う。


「恥ずかしい。親子の縁を切りたいわ。」



監督が厳しかったため見学者が来ても入部に繋がらず、入部しても辞めていくため人数はギリギリだった。

熱があろうがしんどかろうが、休めない。

入部して間もない3年生の子たちが、一生懸命レシーブにつっこむ。

その健気な姿に励まされた。


コートへ向かう階段を下りていくと、チームの保護者数名が私の話をしていた。

キャプテンの保護者とその取り巻き。

「マホちゃんは優しすぎてダメよね」
「そうそう」
「○○ちゃんみたいに厳しく指導しないと〜」

大人のくせに。

冷め切った感情を胸にしまい、また階段を上った。


3年生に対し「やる気がないなら帰れば?」と言うキャプテン。

どの口が言うんだろう。

校庭を走ってこいと怒られた時、振り返るとスタート位置からダラダラ歩いていたキャプテンたち。

私のほんの少し後ろに、顔を真っ赤にして走る3年生がいたのだ。

私は、この子たちを守ろうと思った。

キャプテンが厳しくするなら、副キャプテンである私は支えよう。

萎縮してしまわないよう、のびのびプレーができるよう努めよう。


私は、私の正しいと思う道を行く。


それは卒団の日に返ってきた。

間違っていなかった。
そう思えるメッセージが、私宛の色紙に書かれていた。



中学生になり、サッカーを始めて2ヶ月。

今までどれだけ頑張っても増えなかった体重が、10キロ以上増えていた。

増えたのはいいが、体が重くてだるい。
少しだけ減らそうと思い、食事の内容を調整したが全く効果がなかった。

胃痛が酷く、度々保健室にお世話になった。

養護の先生は高校生になった時に単位が取れるか心配してくれ、優しく厳しく接してくれた。

サッカー部顧問兼学年主任は、私が保健室にいるのを聞きつけては保健室へ来て説教をした。

つくづく鬼監督に鍛えられてよかったと思う。

中学校3年間は、理不尽にまみれていた。

サッカーをしているというだけで根も葉もない噂を流され、いじめられ、何度も靴を隠された。

新しいものを買うと、それを確認し楽しむかのように、古いものが机の上に置かれている。

先生たちは面倒がって対応してくれない。

それでも、仲良くしてくれた友達がいてくれたおかげで乗り越えられた。


高校の入学式が終わり、制服姿を見せる約束をしていた私と友達は中学校へ向かう。

下駄箱を通り抜けようとした時、ドンッ!と大きな音。

パッと顔を上げた瞬間、下駄箱が覆い被さるように倒れてきた。

咄嗟に頭を守りしゃがみ込んだが、ものすごい衝撃が全身を襲う。

内臓が圧迫され息ができない。

背中で支えている力を抜けば潰されてしまうのか、隙間に逃げ込めたのか、それすら分からない。

友達が私の名前を叫んでいる。

職員室から先生たちが飛び出してきて、ようやく私は下駄箱から救出された。

ドミノ倒しになった下駄箱の中間部にいたようだ。
部活等で残っていた生徒の靴たちも、ぐちゃぐちゃで誰のものか分からなくなっている。

全身を強打したため体中が痛い。
恐怖から過呼吸になり、気分も悪い。

友達が私の両親に電話をかけてくれ、両親が大慌てで飛んできてくれた。

「救急車が出払っているため、タクシーを呼びます」

そう言われた父は、自分が連れて行く方が早いと私を車に担ぎ込んだ。

ここは田舎。
タクシーを呼んでも20分以上はかかる。

友達にありがとうとごめんねを伝え、病院へ向かった。


担当医がおらず、とりあえず頭部のレントゲンを撮る。

「今の所、脳出血は大丈夫です。」

それ以外の診察が出来ず、その日はそのまま帰ることになった。

後から養護の先生も駆けつけてくれ、大丈夫だと知りホッとしていた。

一旦学校で話し合いをすることになり、当時の状況を説明する。

なんの縁か、下駄箱を倒したのは私の同級生だった。

同級生と私、お互いの保護者、私の担任だった先生と学年主任。

最悪なメンバーだ。

走っていた勢いのまま下駄箱に手をつき倒れたらしく、わざとではなかったらしい。

謝罪もあり、保護者の方が申し出てくれた医療費等は両親が丁重にお断りした。

在校生ではないのに事故を起こして大事にしてしまった罪悪感、何か言って仕返しがあればと思うと怖かった。

けれど両親は違った。

ここでも両親は弟の心配をしていた。
弟の学校生活に影響が出たら可哀想だから。

帰り道、体中の痛みを感じながら両親の本音を聞き心まで痛む。


帰宅後、新品だった制服がボロボロになっているのを見てショックを受けた。
自分のせいだが、真っ白なキャンバスに黒を塗りたくられた気分だ。

着替えようと制服を脱ぐとまさしく全身。
首から足首にかけて、青紫というより青黒い色になっていた。

両親も驚き、可哀想にと母が体を撫でてくれ嬉しかった。

自分では分からないため頭部を見てもらうと、10個以上のたんこぶが出来ていた。

確かに触るとボコボコしている。

夜になると高熱が出て、時間が経つにつれ痛みも増し、全然眠れなかった。

高校生活初日から休むことになり、まともに歩けない体を母に支えてもらいながら色々な検査を受けた。

MRI検査の結果を聞くため診察室に入ると、先生が首を傾げている。

「首にボルトを入れていますか?」

「いえ、入れていないです。」

「そうですよね…」

この時何か聞けば良かったのだが、しんどすぎてそれどころではなかった。
数年後に分かったが、首の骨が曲がっていた。

幸い他に異常はなく、咄嗟に頭を抱えてしゃがみ込んだ反射神経を褒められた。

あのまま突っ立ていたら、ドミノ倒しの下駄箱と下駄箱に挟まれ死んでいたかもしれない。

それはそれで、楽になれたかもしれないけれど。
ぼんやりそう思ってしまった。


後から知ったのだが、下駄箱を固定する金具が元々外れていたらしい。

次の日には、転倒防止の突っ張り棒が天井から伸びていたと弟から聞いた。

完全に学校側の不備じゃないか。

木製の重たい下駄箱。

私1人で良かったものの、在校生が沢山巻き込まれていたらと思うとゾッとした。

それでも、あの場にいたのは自分。
自分の選択で周りに迷惑をかけたことに変わりはなく、学校に何も言えなかった。


改めて友達に、怖い思いをさせてしまった謝罪と体の無事を連絡した。

凄く心配をしてくれていた友達。
怖かったと思う。
本当に申し訳ないことをした。



高校生活2日目、全然治っていないけれど、焦りから学校へ向かった。

歩くたびに体が軋む。

駅から20分程の道のりを、どんな風に歩いて行ったのか覚えていない。


事故に遭ったと説明されていた私を見て、みんなが心配してくれた。
焦らなくても全然大丈夫だった。

午後から学校外で集会があり、また20分程の道のりを歩く。

朝と違うのは、2人の友達が付き添ってくれたこと。

私がゆっくりしか歩けないため、昼休みを削り早い時間から一緒に歩いてくれた。

高校3年間、この2人に何度助けてもらったか分からない。


集会が始まり照明が落とされる。
瞬間、下駄箱の暗闇がフラッシュバックした。

大丈夫、ここは下駄箱の中じゃない。

動悸を落ち着かせながら、数十分が経過した。
フラッシュバックが激しくなり、呼吸が浅くなる。
頭が割れそうに痛い。

それに気づいた子が「先生!」と挙手して、先生を呼んでくれた。

暗闇の中に光を感じた。

母に迎えに来てもらい、初っ端から私は悪目立ちしまくった。


それでもクラスメイトたちは優しかった。

中には問題児と言ってくる先生もいたし、溜め息をつかれたこともあった。

保健室通いが続き怒られたこともあるし、単位を脅されたこともある。

「おまえは迷惑をかけているから、他の奴よりちゃんとしなければいけない。」

おっしゃる通りです。

元々地面に面していた自己肯定感が、地面を突き破ってめり込んでいく。

それでも高校生活を楽しく過ごせたのは、冒頭の2人をはじめ、優しくしてくれた友達みんなのおかげだ。

今考えても、なんであんなに優しかったのだろうと不思議に思うほど優しかった。

みんなに恩返しをしたい。



高校卒業後、家から通うことを条件に大学へ進学させてもらった。

満員電車に揺られる度に、下駄箱がフラッシュバックする。
下敷きになった日から、時々酷い目眩に襲われた。
いつまで私は囚われているのだろう。

逃げられない空間が駄目になり、途中下車を繰り返した。

1時間ちょっとで行ける大学に、3時間以上かかってしまう。

そのため始発で通っていたが、だんだん途中下車の頻度が高くなり、1限の単位を落としてしまった。

誰にも見られないよう、ホームの隅でいつも泣いていた。

酷い時は5時間以上、着けばお昼過ぎ。
帰りも同じように時間がかかる。

どうしようもなくなり、歩くことを選択した。

1番苦手だった大津〜山科間のトンネルを避けるため、大津駅から大津京駅まで40分程歩く。

大津京駅から乗ることで、少し気が楽になった。

半月程そうしていたが、大津駅まで行くのにも時間がかかる。

時間を確認し、守山駅で降りた。

地図アプリを開き、琵琶湖大橋を目的地に選択する。

とにかく大学へ行かなきゃ。

頭の中はそれだけで、5月中旬の蒸し暑い中、自分と同じようなサイズのカッターマットと画材を担ぎ歩き出した。

約15.5km。

琵琶湖の風にカッターマットが煽られる。
風向きに合わせてカッターマットを動かしながら進んだ。

ようやく着いた頃には結局お昼になっていた。

歩いて行ったことを知った両親が、帰りは大学まで迎えに来てくれた。

ズル剥けで血だらけになっていた足の裏。
どうしたら、もっと楽に大学へ行けるだろう。

次の日も守山駅で降りた。
けれど昨日の私とは違う。

レンタサイクルで自転車を借り、昨日の道のりを走る。
昨日はここまで頭が回らなかった。

1番楽な通学方法を見つけ、しばらくこの生活を繰り返した。


課題で夜遅くまで残ることが増え、電車の時間を考えるとまともに出来ない。

初めて不動産に行き、安い物件の資料をいくつか印刷してもらった。

家から通うことが条件だったが、1人暮らしをさせてほしいと人生初の土下座をした。

大学生になってからも土日だけ続けていた、高校生からのコンビニバイト。

その貯金がある。

なんとか承諾を得られ、家賃だけ父が負担してくれることになった。

初めての1人暮らし。

貯金があるとはいえ、たかだか数十万。
奨学金には一切手をつけるなと言われている。

課題にもお金がかかるため、削ることができるのは食費しかなかった。

朝はフルグラ。
昼は学食で1番安い麺類。
夜は閉店間際のスーパーに間に合えば、50円になったうどん。間に合わなければ、うまい棒1本で空腹を満たした。

それでも課題1つに下手したら1万円かかる。
教科書も買わなければならない。

最初こそ通学のストレスがなくなり体調は良くなったものの、食事がまともに摂れず体調を崩すまでそう時間はかからなかった。

体調不良で課題に追われ、バイト探しどころではない。

治安も悪く、不審者情報がしょっちゅう入ってくる。
友達がストーカーに遭い心配していたら、自分もストーカーに遭った。

大学までの行き帰り、週に何回か必ず声をかけられる。
スカートを覗かれたこともある。

オートロックもない安いアパート。
初めて夜道が怖いと思った。



いつも通り朝の準備をしていたはずが、夕方になっていた。

倒れていたらしい。

張り詰めていた糸が切れるというのは、きっとこんな状態を言うのだろう。

母からの連絡も無視し、夜通し大の字で天井を眺めた。



実家に帰り、1日中布団の上で過ごした。

休学手続きすら出来ず、月日が流れる。
ようやく休学を決めた時には冬になっていた。

休学の際に教授と面談を行った。

「この年齢になって初めて体が思うように動かない辛さを感じたのに、マホさんはずっと辛い思いをしていたんだね。」

元々優しい教授だったけれど、こんな時でも温かい言葉をかけてくれる教授に、さらに尊敬の念を抱いた。

春になり、休学・復学・退学の3択を迫られる。

悲しくて悲しくて仕方がなかったが、退学を選択することしか出来なかった。

ごめんなさいと父に謝ると「大丈夫」と背中をさすられた。


教授から、最後に電話をいただいた。

「面白い発想をする人だったから、非常に残念ではあります。けれどいつか、どこかで活躍している姿を見られることを楽しみにしています。」

教授はいつも、私の作品を面白い、新しいと言ってくれた。

この言葉は私の宝物だ。
教授が私のことを覚えていなくても、私の名前がいつか教授に届くことを夢見ている。



体調不良が落ち着き、POPライターのバイトを始めた。
楽しくて、休みの日もPOPの勉強をした。

1年半が経った頃、胃の不快感で食事が摂れなくなり体重がどんどん落ちていった。

胃痛で動けなくなり、人生初の胃カメラをする。

ポリープはあったものの、ピロリ菌もおらず綺麗な胃だった。

半年程その病院に通い詰め、あらゆる検査をしたが原因不明。

出勤も退勤も、体調に合わせて自由でいいよと優しい店長が言ってくれたが、辞めざるを得ない状態になっていた。

母も心配してくれ、眠れない私の横で赤子にするようにトントンと背中を優しく叩いてくれた。

親戚や知り合いの看護師さんが親身になってくれたことが、心の支えになっていた。

高カロリーの流動食を摂取するもどんどん衰弱し、身長166cmに対し体重は38kgになった。

歩くこともままならず、シャワーヘッドすら持てない。

看護師の従姉妹叔母に転院を勧められ、紹介状を書いてもらった。


その数日後、私は救急車で運ばれた。

両親不在のため、祖母宅に預けられていた私。
それに合わせて帰省してくれていた従姉妹叔母が、私が意識朦朧だと祖母からの連絡で駆けつけてくれた。

血圧が測れないほど低くなっていたため救急車を呼び、病院へ着くまでの間もバイタルを確認しながら私に呼びかけ、呼吸だけに意識を向けさせてくれた。

「あ〜あなたね、よく○○先生が話してたよ。見た感じ脱水もなさそうだし何も出来ません。」

そう言われ帰されそうになったが、従姉妹叔母が丁寧にお願いをしてくれた。

「ここ数ヶ月、ほとんど飲まず食わずの状態が続いています。昨日今日も何も口に出来ていません。ベッドに空きがあれば、点滴だけでもしていただけないでしょうか?」

私の腕を見て「腕も血管もこんなに細くなって、可哀想に。しんどかったよね。」と言って点滴をしてくれた看護師さんは、本物の天使だった。



従姉妹叔母は、救急車の中でバイタルが安定したためパニックの可能性が高いと言っていた。

今後同じようなことが起きても大丈夫だから、しんどくなったらガムシロップで血糖値を上げ、息を吐くことに集中するといいよと教えてくれた。

けれどその1週間後、呼ぶべきではないと分かっていたが救急車を呼んでしまった。

意識朦朧の中、救急隊の方が何か話している。
付き添いの母が何かをお願いした。

紹介先の病院には先生がおらず、今までの病院へ搬送されていたのだが、折り返し電話があったらしい。

帰る途中だった先生が戻って来てくれたそうだ。

搬送されると「僕が診ますね」と穏やかな声が聞こえてきた。

私の顔を覗き込んだ先生は、優しそうなおじさん先生。

紹介状に書かれた先生の名前とは違ったが、今後も僕が診ますと言ってくれた。

この先生にお世話になって、もう7年程になる。

精神科の名医として有名だったらしい。

今まで色々な先生に出会ってきたが、こんなに優しい先生には出会ったことがない。

まだ完全には治りきっていないが、少量の薬で生活を送れている。

先生のためにも、早く精神科を卒業したい。



精神科にかかって1年ちょっと。
弟が出先で救急搬送された。

ジム後、激しい胃痛で動けなくなったらしい。
検査入院をしたが、結局原因は分からなかった。

けれどその後も同じような症状が続き、腎臓内科を紹介された。

付き添っていた私も病歴を聞かれ、一緒に遺伝子検査を受ける。

結果、私と弟2人ともが、先天性腎疾患である腎性低尿酸血症だった。

私も弟も、胃だと思っていた痛みは腎臓だったらしい。

腎臓内科と臨床遺伝専門医、2人の先生から説明を受ける。

「ずっと心が弱い子だと思っていました」

母の言葉に「やっぱり」と冷めた自分がいた。

「いや、めちゃくちゃ強いですよ!学校にも行って、バレーボールもサッカーもされていたんですよね?普通無理ですよ〜。」

「軽い急性腎不全を繰り返して、慢性腎不全っぽくなってるね〜。」

「特にお姉さんは尿酸値が凄く低いね。ちょっと走っただけで急性腎不全になっちゃうね。」

腎臓内科の先生が、超軽いノリで笑っていた。

普通だったら不謹慎に思えるかもしれないのだが、私にとっては嬉しかった。

今までの私を全肯定してもらえた気がした。

臨床遺伝専門医の先生は

「非常に稀な疾患です。まだ研究段階で、この疾患を知らない医者も多くいます。治療法も今のところありません。今まで本当に大変な思いをされてきたと思います。」

と超軽いノリとは真逆な顔をして寄り添ってくれた。


まだ結婚願望があったため「もし子供を授かった場合、どれくらいの確率で遺伝しますか?」と聞いた。

「50%です。」

半分か…。

まだ分からないことが多い疾患。

運動をしなければ大丈夫なのかもしれないが、私と同じような人生を送るかもしれないと思うと、結婚も子供も諦めようと思った。


サッカーの時、10kg以上太ったのは浮腫みのせいだったらしい。
椎間板ヘルニアのため、痛み止めを打ちながら運動をしていたのが原因だった。

確かに、サッカーを辞めてしばらくすると体重は元に戻った。

今思えば、自律神経失調症と診断されるまでの血液検査でも腎臓の数値が悪かった。

熱中症や感染症の疑いもあり、そこまで気にされなかったのだ。

なんだ、全部病気のせいじゃん。

周りに迷惑をかけて生きてきた。
それは変わらないけれど、もっと早くに知れていたら、自己肯定感はまだ宙に浮いていただろうか。



タラレバだな。


生まれた時に分かっていたら、それこそ病気を盾に嫌なことから逃げていたかもしれない。

努力することなんて、早々に辞めていたかもしれない。

家にこもって、全部親のせいにして。

自己肯定感なんて地球の内核で消え去り、生きることを諦めていたかもしれない。


考えても仕方がない。

今を生きるしかないんだ。



今、私が生きている範囲はとても狭い。

生きている範囲が狭いから、広げたはずの視野も狭まってしまった。

なるべく両親に負担をかけまいと動けば動く程、弟との差に苦しめられる。

愛されてこなかったわけではないが、どうしても比べてしまう。

弟は奨学金を遊びに使い、必要なものは親に買ってもらう。

食事には文句を言い、自分のために平気で人を動かす。

そうはなりたくない。
けれど思い出してしまう。

樋屋奇応丸は全然悪くないのに。

未だに白飯とヤクルトが苦手な私は、やっぱりあの頃のままで大人になりきれない。



今年で29歳になる。
外から見れば、もういい大人だ。

何かを始めようとしても遅くはないが、だからって余裕があるわけでもない。
時間は有限だ。

性格も習慣もすぐには変えられないし、めり込んだ自己肯定感を引っこ抜くのにも時間がかかる。

やり直したくても、やり直せないから。
せめて前を向いて、1歩1歩進むしかない。

人は人、自分は自分。
自分のことを、ちゃんと肯定してあげたい。

小さい頃は嫌いだった自分の顔も、友達が褒めてくれるから、少しだけ好きになれた。

人生が終わる時
「それなりに悪くなかった」
そう思えたら結果オーライだ。


前言撤回。

進む先に見える、いつかの景色を楽しみに。
私は何も諦めない。

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