【支離滅裂な創作論】パプリカ博士選手権で自分語り。
バキ童チャンネルの企画。『パプリカ』の所長みたいに理解不能で異常なセリフを言い続けろ!
これがめちゃめちゃ面白かった。映画『パプリカ』の支離滅裂な台詞回しのシーンみたいに、文法は合ってるけど脈絡のないことを言い続けて、成り立っていない会話をする遊び。
これ、まじでやりたすぎる。頭を空っぽにして浮かんだことをひたすら話し続けるのって気持ちいだろうな。でもそれをやる相手、いない。
しかし、だからこそnoteというプラットフォームがあり、創作という形で昇華させるのが現代人としてのセオリーだよな。
どうしてこんなに面白かったのかはわからないけれど、私が創作をやる上で大事にしていることって、何かなと思った時、偶発性と狂気があるのかなと思っていて、或いは二次創作っていうのは本来、作者本人しか見ていないはずの世界観からある意味それを無視しながら他者が妄想を吐き出すことにあって、それは換言すれば、世界を映し出す目が人それぞれ違うことが原因なんだよな。
パプリカの中には三つの種があって、一つは黄色い繭に包まれたおがくず。二つ目にあるのはでんぐり返しした時に集まった砂ぼこり。三つ目にあるのは肉じゃが。それってつまり、オスカー・ワイルドが言っていたように「芸術が人生を模倣する」じゃないけれど、どうしようもなく、したいからする、というある意味合理性を欠いた狂気でしかないのだが、それが人を幸せにしたり文化を作ったりしていくわけ。
だからこそ、私は身一つでコップに水を注ぐわけです。そりゃあ、嫌いな映画の一つや二つありますが、嫌いな小説はむしろ自分の精髄に深く関わっているわけで、最近のドラクエのCMに否定的な気持ちと、後悔が押し寄せてくる時間の渦に私はもう限界が近いのかもしれない。
でも、これからはこうも思うんです。出来合いのものだって愛していこう。昔あった出来事に丸をつけよう。騒がしい日差しの中で眠ろう。夢のなかから集まったあの人のことを描こうと。
少し恥ずかしいですが、砥石の使い方を忘れてしまいました。石を叩くと近所迷惑になるし、うざいかもしれませんが、どうやら漫画を読むことも億劫になってしまったのです。
それでも!あの明るい少年の頃の畑で見た。黒い影は、積み上げられた枝に火をつけただけで消えるものではなかったと私は思います。
とはいえ時間は有限で、こんなことをしている場合ではないという気持ちと、地球の回転を止めることは誰にだってできないという知識を得るのは、バケツを被ったって理解りはしないことだったのです。
だからこそ、知らない街で傘を買い、歩いてたどり着いた景色を写真に撮り、文字を書き、見えないものを見ようとするのです。
きっとそれが、バズではなくても、いいじゃありませんか。足を折らなければ月にだってたどり着けますよ。月じゃ足りないならもう一つの地球でもいいですよ。
永遠の命なんてありはしないと思うかもしれませんが、きっと私たちが作るものは薄い繋がりの中で輝き続けるのです。それはよだかの星のように理解ができないものですが、晴れ間ばかりがいいものでもありません。
新月の間だけ咲く花は、桜とは違い八月の終わりにだけ姿を見せます。それは宝物を奪われた犬が吠えるように儚いモノです。
木目を見、雲を眺め、水面に垂れた墨汁の流れを追うことは無為のようでいて、案外それこそが世界と人生の相似なのかもしれない。
きっと読み飛ばすのでしょうが、暗号化された真実はいくらやってもみつかりはしない。宿題を忘れる夢を大人になっても見るかのような、コンパスの針を落として見つからなかったけれど、実は消しゴムに刺さっていたんだな。そういう意外な結末がありました。
最後に一つだけ言っておくと、考えるようで考えないことは、土踏まずの中に霞がかったガラス玉の痛みです。
できれば忘れないでほしいと思いますが、しかし、みんながみんな幸せに生きられるとは限らない。けれど、みんながみんな不幸になると決まっているわけでもない。
この世は相対的なもので真理と言えるほどのことはないのかもしれないが、ソクラテスに言わせたら、何もわからない。
どうしてかって?そうだね。難しいけれど、使われなくなった絵の具や弾かなくなった楽器が「出してよ」って叫ぶように聞こえるのはきっと、妄言でしかないのだけれど、それは人間に込められた願いなんじゃないかなと思うんだ。
その方が都合がいいとは思わない?それなら素敵だと思うので、ツムツムくらい楽しい仕事を今日も8時間こなして、放置ゲームのクレジットをひたすら眺めてやるのです。
とどのつまり、苦しさと折り合いをつけるために、芸術があると思うのだけれど、なぜ、食べることは気持ちいのに働くことは辛いのかは自由意志に関わるような気がしていて、それについて論じている文章を読みたいのだけれど、それもまた、日々に忙殺されている身では定期購読しているジャンプの負債の一部になっているのだ。
一昨日、ワイヤレスイヤホンをまた洗濯したんだけれど、ポイ活をするためにわざわざ欲しくないものを注文するくらいならば、水道水をカルピスのコップに入れたほうが経済合理性が高いんだよね。
要するに可動域の狭いデッサン人形と、自家製の勉強机では、ドーパミン発生装置に敗北してしまうことは自明だったのである。
さりとて、それに抗うべく開発されたシンギュラリティにまつわる人工無能こそコピー用紙だったんだよ。私たちはコピー用紙にくっついたパレットの余った絵の具を溶かして騒いだ方がいい。もっともっとね。
それこそ、チラシの裏にも風呂場の壁にも、暇さえあれば引いていた線をまた引き直せばいいじゃないか。蛍光ペンでもいいさ。
シャープペンシルの芯をトリガーと言っていいたあの頃から僕らの原点は変わっちゃいないって、そう言っていたじゃないか。
どうしてもそれを忘れてしまったというのであれば、乾燥してしまったのであれば、水をなみなみにしたジョウロの端っこを、接着剤で止めて、ストローを飛ばしてやりたい。
勘違いしないで欲しいのだが、私はあらゆる作品に対して、勘違いこそが、創作の原動力になると信じている。コピックは高いが、自分の肌に爪を突き立てるよりは普段からハンカチを持っておいた方が転ばぬ先の杖だ。
一念発起して図書館の本を片っ端から読んでいくという野望は、一生あっても償いきれないかもしれない。それくらい人生は短いのだ。ましてや、歴史に残るような美しい物語や素晴らしい作品を作り上げるなんて、人生が七回くらいはないといけない。
けれども一つ一つ拾い上げていけば、少しくらいは見えるものもある。たかが数千の文字のうちの数百文字、いや、三十七兆個の細胞の一個が躍動する様を見ればそれだけで、もはや火を見るよりも明らかと言えるだろう。
水を飲みたい、水を飲んできた。飴が舐めたい。飴を舐めた。こうして思い立った時に、したいことができること。それが自由であり、それができるこの国は、私の生まれた環境は、時代は、なんと恵まれていることか。
狂気になろうとしてもなりきれないほど、純露は美味しい。
晴れの日ばかりでは作物が育たない。虹も見えない。それだけではなく、どこか風流に欠ける。もっと贅沢を言っても文句はあるまい。
ペットボトルをリサイクルするように、新しいアニメが始まったら今までの作品はAIに食わせて錬金術にお任せあれ。それでいいのか人類は。個人的にはいいと思う。
というより、それは私の狂気とは何も関係のない話だ。ドラゴンキッズが成長しても、やまたのおろちにはなれないように、スライムの子はスライムなのだ。けれども、他の種族と配合を重ねることで、位階は積み重なり、神獣を控えに入れて特訓に連れて行くこともできるのだ。トンビが鷹を産むのではない。世界が鷹を育てるのだ。
性善説と思われるかもしれないが、私にそれは分からない。だが分かるとすれば、暗闇にいるものの表情は笑っていようが泣いていようが見えないということ。見えないものを評価することはできない。
しかし、想像することはできる。確かに、あくまでも鏡写しのようなものではあるが、鏡とは違って暗がりからもこちらを見ることはできるのだ。
際限のない道筋はかえって迷うものだが、一本に決めた道はどうやら塞がっている。しかし、隣の道をまた選んだら良い。また一本だけ選べば良いのだ。そこにナメクジが微笑んでいる。
名言などありはしない。この世にはだ。あの世にもあるかどうかは疑わしい。
第一、一つの言語、一つの時代、一つの人生だけでは遍く感動をとらえることはできないのだ。それが通じるとすればそれは奇跡とか偶然というふうに私は評価する。
もしも、寒い日に暖かい手袋があれば、なんと心強いか。だがそれは天候を操るよりは現実的だ。心に着込む手袋は感動、あるいは陶酔の産物なのかもしれない。
孤独なもの同士が集まってできた網目がインターネットであるならば、私たちは確かに孤独だろう。それでもその孤独は愛おしく、なおかつ、陰惨なものでなくてはならない。その矜持にもっとも適しているのが侘助…
あっ。(絶望)🎊🎉🎵〜
