藤枝静男『田紳有楽・空気頭』を読んで
『田紳有楽』と『空気頭』は別の作品なのですが、一緒に感想を書いていきたいと思います。
※ネタバレを含みます。
※引用のページ数は文庫本のものです。
どんな話か
時系列としては、『空気頭』が先に書かれて、その後に『田紳有楽』が書かれています。『空気頭』は結核を患っている妻を看病する「私」の物語で、虚構は混じるものの比較的リアリズムに寄っていると言えます。しかし、『田紳有楽』は完全に虚構であり、むちゃくちゃな話です。語り手の「私」が瀬戸物だったり、弥勒菩薩だったりします。
私小説ではあるものの、『空気頭』にも『田紳有楽』にも虚構的部分が多いのですが、その虚構部分は藤枝静男の理想を表現している部分です。理想を要請する苦悩とその理想的世界について書いていきます。
エーケル(嫌悪)
現実世界における「私」(藤枝静男)の苦悩については、『空気頭』でよく描かれています。その苦悩を一言で表すとするならば、「エーケル(嫌悪)」でしょう。
「私」は肉親に対して嫌悪感を抱いてしまうことがあります。次の引用部分は、満員電車に「私」と妻が一緒に乗った場面です。
厚い人垣の向こうの方の洗面所のわきに妻の蒼い小さな顔が押し付けられていた。ーーそして彼女が遠くから苦しいような、醜い表情で、訴えるようにこちらを見たとき、私は恐ろしい顔付きをして妻を睨みつけた。
なぜ嫌悪感を感じるのでしょうか。
私にとって、肉親の見苦しい姿は、そのまま理屈抜きに私自身の醜さとして映る。
つまりは、肉親の醜さを目にした時、肉親と自分の繋がりの意識が強いため、自分の中の同じような醜い部分が強調されてしまい、強い嫌悪を抱いていしまうということなのです。
この肉親というある種の「鏡」によって、「私」自身の醜さが映し出され、肉親への嫌悪は「私」自身へ跳ね返ってくることになります。したがって藤枝静男は自身への嫌悪感によって苦悩していると言えるでしょう。
藤枝静男の理想世界:空気頭
『空気頭』で「私」は不思議な体験をします。酒を飲んでいたキャバレーで幽体離脱し、天井に浮かぶのです。
それまで私の耳を領していた人々の高い話し声や、コップの触れ合う音や、それらに搔きまわされていた音楽の騒音などが、突然ピタリと消え失せ、ただワーンというような均等の響きとなってあたりにただよっていました。そしておそろしく遠のいてしまった人々の人形のような姿を、まるで手術室の無影灯のような白い光が、遍く一様に照らし出していました。
そして、恍惚を味わいます。
満足と喜びの情が潮のように私の胸を浸しはじめました。私は、自分の精神が今、空白であると同時に残る隈なく充足していることを感じました。
『空気頭』では、これを追体験するために頭に空気を送りこむ装置を開発するのです。つまり、「私」(藤枝静男)にとってはこれが理想であると言えます。
さらに、『田紳有楽』でも「私」はこのような境地を理想としています。『空気頭』で「私」は、幽体離脱の体験を悟りの境地に近い体験だと思っているのですが、『田紳有楽』の主人公たる「私」はまさしく悟りの境地を目指しているのです。
『田紳有楽』では様々な人物が語り手として登場するので、はっきりとした主人公は決められないのですが、登場する回数などから中心的な人物は磯碌億山という人物であり、この人物に一番藤枝静男が投影されていると考えられます。この磯碌億山は実は弥勒菩薩なのです。弥勒菩薩は、釈尊入滅後五十六億七千万年後に地上に降りてきて、悟りを開き、衆生済度を行う菩薩なのですが、その菩薩が下見として地上に降りてきて磯碌億山として生活しています。したがって、『田紳有楽』の主人公たる「私」(藤枝静男)は弥勒菩薩であるため、悟りの境地を目指しているのです。
われひと共にただエーケル、エーケル。しかしやっぱり願うはひとつ、「不生不滅、不増不減」。
つまりは、『空気頭』の「私」も『田紳有楽』の「私」も同じ悟りの境地を理想としていると言えます。
藤枝静男の理想世界:田紳有楽
しかし、悟りは悟りたいなあと思ったら悟れるようなものではありません。『田紳有楽』で「私」である弥勒菩薩は、地蔵菩薩と会話を交わします。
地蔵が
「私らはどっちつかずだからね」と云った。「師匠(釈迦)は人が死んだ後どうなるかなんて一度も云ったことがなかった。生まれかわるなんて云ったこともなかったしね。そこへ行くと私なんかこっちへ来て以来極楽とか地獄とか六道の辻とか、賽の河原なんて云われて、弱り果ててますよ。まあ嘘も方便、インチキもあんたの来るまでのつなぎだと観念してはいますけどね」
「個の実在はない、何もない。土になり風になり水になるが自分はない。生せず滅せず増さず減ぜずなんてね。思いきったことを云ってたな。やっぱりきつい人だった」
つまりは、『田紳有楽』での「私」は悟りを開くのを目指してはいるものの、やはり釈迦のようにはなれない中途半端な存在なのです。
『空気頭』でも頭に空気を送りこむ装置は完全でなく、完璧に悟りを開いたような境地には至れていません。
いったん道をみつければ、後は努力次第です。だから私は努力してこの装置に改良を加え、結局は空気で私の全脳髄を充満させ、完全な空気男になってフワフワと昇天してみせる決心でおります。
「私」は理想である悟りにたどり着こうとしてもたどり着けず、結局理想は実現されないことになります。
しかし、『田紳有楽』ではそんな中途半端な「私」が味わえる楽しみ、もう一つの理想世界が描かれています。
そもそも『田紳有楽』自体が読んでいて楽しい気分になるような明るい小説であり、特定の場面をあげる必要はないようにも思えるのですが、中でもわかりやすく表現されている部分を引用します。
故郷の村の祠に彫り込まれた猥褻歓喜の生命に満ちた神々の像が瞼の裏に群れ動いた。彼等神々もまた白く輝くヒマラヤの峯々に区切られた青黒い空を、もつれ合いながら微塵のように舞い飛んでいるのであった。
丼鉢も浮かれて空中に浮遊し、ブーンブーンと回転しながら部屋を飛びまわりはじめた。かくて一同の演奏ははじめゆるやかに、だんだん調子を速め高めて、ヒマラヤの山中に戻り、万物流転、生々滅々、不生不滅、不増不減 と今や破裂せんばかりの佳境に入りこんで果しもなく続いていくのであった。
「オム マ ニバトメ ホム」
「ペイーッ ペイーッ」
ププー プププー デンデン カーン
「パーダム パーダム」
ジャラン ジャラン ジャラジャラ
ガーン ポラーン
「ペイーッ ペイーッ」
「田紳有楽 田紳有楽」
ここでは、生命力にみちた猥雑なる喜びが満ちています。これこそが「田紳有楽」、「田舎紳士の楽しみ」なわけです。したがって中途半端な田舎紳士である「私」が楽しめるもう一つの理想世界が『田紳有楽』で描かれているのです。
実は、間接的ではありますが『空気頭』でもこういった理想世界は描かれています。
「私」は、学生時代屎尿を使った研究をしており、友人と屎尿を集めてきてはそれを持ち帰り、糞の臭いの満ちた研究室で研究をしていました。
「いや、しかしあれであのころは今より結構楽しかったな」
「うむ」
と私もうなずきました。金持ちの研究生から貢物に召しあげたウイスキーをチビチビ舐めながら、薄暗い電灯の下で、彼は顕微鏡をのぞき、私は時間をはかって三十分おきにデータを書き込んでいました。
そうだ、今より確かに楽しかった、と私は思いました。
糞尿に取り囲まれたような、よく言えば生きる者の臭さに取り囲まれた状況での生活を「私」は楽しかったと回願しているのです。この状況は『田紳有楽』の猥雑な生命に満ちた楽しみと通ずるものがあると思います。

