短編小説 第一話『鍵は返さなくていい』
三年間一緒に暮らした恋人が、
ある朝、突然いなくなった。
財布も、
スマートフォンも、
ほとんどの荷物も残したまま。
彼が持っていったのは、
履いていた靴と、
玄関の合鍵だけだった。

遼がいなくなった朝も、
コーヒーメーカーは二人分の音を立てていた。
私はいつものように、
彼のカップへ砂糖を二杯入れた。
遼は一杯でいいと言っていたけれど、
一杯では、いつも少し苦そうな顔をした。
本人よりも、私のほうが知っている。
三年間も一緒に暮らしていれば、
そういうことは自然と分かるようになる。
「遼?」
寝室をのぞいた。
布団は乱れたまま。
パジャマはベッドの脇に落ちていた。
洗面所にもいない。
トイレにもいない。
ベランダにもいない。
玄関を見ると、
彼の黒いスニーカーだけがなくなっていた。
財布は棚の上。
スマートフォンは充電器につながれたまま。
通勤用の鞄も、上着も、薬も残されていた。
なくなっていたのは、
スニーカーと、玄関の合鍵だけだった。
私はしばらく、
ドアの前に立っていた。

怒って出ていったのだろうか。
でも、昨夜は喧嘩などしていない。
少なくとも私は、
喧嘩をしたとは思っていなかった。
彼が少し黙り込んでいたので、
私は何度か理由を尋ねた。
「何でもない」
遼はそう答えた。
私は彼のために、
何でもないはずがないと教えてあげた。
人は、自分の気持ちを正しく理解できないことがある。
遼は特に、
そういうところがあった。
疲れているのに、平気だと言う。
怒っているのに、怒っていないと言う。
傷つけられたのに、自分が悪かったと言う。
だから私はいつも、
彼の代わりに本当の気持ちを見つけてあげていた。
それが、
恋人というものだと思っていた。
警察に相談すると、
若い男性が自分の意思で外出した可能性が高いと言われた。
事件性を示すものはない。
成人した人間が一人で家を出ることは、
それだけでは失踪にならないらしい。
「でも、財布も持っていないんです」
私が言うと、
警察官は少し困った顔をした。
「何か、心当たりはありませんか」
「ありません」
私はすぐに答えた。
警察官が私を見る時間が、
ほんの少し長かったように感じた。
きっと私が、
ひどく疲れていたからだ。
家へ帰ると、
冷めたコーヒーが二つ並んでいた。
遼の分を流しへ捨てることができず、
私はそのままテーブルに置いておいた。
三日目の夜、
彼の母親から電話が来た。
遼はそちらに来ていないかと尋ねると、
電話の向こうが静かになった。
「美琴さん」
お義母さんは、
私の名前を口にしたあと、息を吸った。
「遼に、何をしたの」
意味が分からなかった。
「何もしていません」
「本当に?」
「私が遼に何かしたように聞こえますか」
「そういう意味じゃなくて……」
「では、どういう意味ですか」
しばらく待ったが、
お義母さんは答えなかった。
昔からそういう人だった。
自分から疑うようなことを言っておいて、
こちらが理由を尋ねると黙ってしまう。
遼が自分の意見をうまく言えないのは、
きっとこの人のせいだった。
「遼から連絡が来たら、私に知らせてください」
「美琴さん、あの子は……」
「知らせてください」
もう一度伝えると、
お義母さんは小さく、
「分かりました」と答えた。
一週間が過ぎても、
遼は帰ってこなかった。
私は彼の部屋を片づけることにした。
帰ってきたとき、
散らかった部屋を見て余計に疲れないようにするためだ。
遼は物を捨てられない人だった。
映画の半券。
使い切ったボールペン。
誰から届いたかも分からない年賀状。
私には価値のない物ばかりだったが、
勝手に捨てると彼は悲しそうな顔をした。
だから、
本人に確認してから処分するようにしていた。
最初の頃は。
クローゼットの衣装ケースを動かすと、
奥の壁が少し浮いていることに気づいた。
薄い板を指で押す。
板は簡単に外れた。
中には、
茶色い封筒が十七通と、
黒いUSBメモリーが一つ入っていた。

封筒には、
日付と数字が書かれていた。
五月十二日 四回
五月十三日 二回
五月十四日 七回
何の回数なのか分からなかった。
最初の封筒を開けた。
中から、
数枚の写真が出てきた。
眠っている私。
ソファでテレビを見ている私。
キッチンで包丁を握っている私。
写真の裏には、
時間が細かく書かれていた。
午前二時十三分 入眠
午前四時四十分 寝返り
午前五時二分 発声
午前五時十四分 再入眠
背中が冷たくなった。
遼は、
私を監視していた。
次の封筒には、
私がその日に口にした言葉が記録されていた。
「また忘れたの」
「何度言えば分かるの」
「あなたのために言っているの」
「私がいなかったら、どうするつもり」
「そんな言い方はしていない」
「あなたの記憶がおかしい」
同じ言葉が、
何度も、
何度も書かれていた。
日付の横にあった数字は、
私が怒った回数らしい。
七回。
十二回。
多い日には、二十三回。
けれど私は、
そんなに怒る人間ではない。
声を荒らげたことはあったかもしれない。
物を投げたことも、
一度くらいはあったかもしれない。
でも、
それには必ず理由があった。
遼が同じ失敗を繰り返すから。
私の話を聞いていないから。
何度説明しても、
間違った記憶に固執するから。
怒りたい人などいない。
怒らせる人がいるだけだ。
USBメモリーの中には、
音声ファイルが保存されていた。
最も古い日付のものを再生した。
最初に聞こえたのは、
皿が床へ落ちる音だった。
続いて、
私の声がした。
『どうして黙ってるの』
少し間があり、
遼が答えた。
『怒ってるから』
『私に?』
『君が皿を投げたから』
『私は投げてないよ』
『投げたよ』
『遼、また記憶が変わってる』
録音の中の私は、
とても優しい声だった。
『大丈夫。疲れてるだけだよ』
『僕は見た』
『見たと思い込んでるの』
『違う』
『じゃあ、私が嘘をついているって言うの?』
遼が黙った。
私の声は、
さらに柔らかくなった。
『あなたのために言ってるんだよ』
『……うん』
『遼は今、正常に判断できてないの』
『うん』
『だから私を傷つけるようなことを言ったんだよね』
『……ごめん』
音声は、
そこで終わっていた。
私は何度か再生した。
皿が落ちる音。
遼の声。
私の声。
どこにも、
皿を投げた音は入っていなかった。
落としただけかもしれない。
遼が落としたのかもしれない。
録音だけでは、
何も証明できない。
それなのに彼は、
こんなものを隠していた。
私を悪者にするために。
自分が被害者だと思い込むために。
胸の奥から、
悲しみよりも強い何かが込み上げた。
私はそれを、
裏切りだと思った。
最後の封筒には、
相談機関の名前が印刷された紙が入っていた。
質問事項の下に、
遼の字で回答が書かれていた。
「相手から行動を制限されていますか」
はい。
「家族や友人との関係を妨げられていますか」
はい。
「自分の記憶や判断に自信が持てなくなっていますか」
はい。
「相手に知られず、外部へ相談できますか」
分かりません。
紙の裏にも、
遼の字が続いていた。
彼女が眠っている時間しか、
記録を残せません。
見つかれば、また全部、
僕の勘違いだと言われます。
僕は最近、
自分が見たことより、
彼女が言ったことのほうを信じてしまいます。
逃げたいです。
でも、
逃げたあとに行く場所がありません。
最後の行だけ、
何度も書き直されていた。
助けてください。
私は紙を折り、
元の封筒へ戻した。
そこまで苦しかったのなら、
言ってくれればよかったのに。
私は遼の恋人だった。
誰よりも彼を理解していた。
誰よりも彼を大切にしていた。
知らない人に相談する前に、
私に相談してくれればよかった。
遼が戻ってきたのは、
それから三か月後のことだった。
夜の十一時過ぎ。
玄関のドアが、
三回鳴った。
コン、コン、コン。
遼が鍵を忘れたときにする、
いつものノックだった。
私はすぐに分かった。
ドアを開けると、
痩せた遼が立っていた。

髪は伸び、
頬が落ち、
唇の端が切れていた。
私の顔を見ると、
彼は泣き出した。
「ごめん」
私は何も言わなかった。
「ごめん、美琴」
彼の肩が震えていた。
「母さんのところに行ったんだ」
知っていた。
「でも、家に入れてくれなかった」
知っていた。
「友達にも連絡した。でも、誰も返事をくれなくて」
それも知っていた。
「会社へ行ったら、退職したことになってた」
遼は、
自分が書いた覚えのない退職届が提出されていたと言った。
銀行口座の残高も、
ほとんど残っていなかったらしい。
相談機関へ電話すると、
本人から支援を断る連絡があったと説明されたという。
誰が電話をしたのか、
遼はまだ分かっていないようだった。
彼が逃げる準備をしていることには、
一か月前から気づいていた。
壁の裏の封筒にも、
USBメモリーにも、
相談用紙にも、
私はずっと前に目を通していた。
板を元へ戻し、
気づいていないふりをした。
逃げたいのなら、
一度、逃げさせてあげようと思った。
外へ出れば分かる。
母親は彼の記憶を疑う。
友人は彼を避ける。
職場には戻れない。
お金もない。
相談先も信じてくれない。
私を捨てた人間が、
私のいない場所で幸せになれるはずがない。
それを自分で理解するまで、
待ってあげようと思った。
遼は玄関に座り込み、
子どものように泣いていた。
「やっぱり、美琴しかいなかった」
私は彼の前にしゃがみ、
頬へ触れた。
冷たかった。
「うん」
親指で涙を拭いた。
「分かってるよ」
遼は、
私の手に顔を押しつけた。
私は彼を責めなかった。
どうして逃げたのかも尋ねなかった。
帰ってきたのだから、
もうそれでよかった。
私は彼を抱きしめた。
三か月前よりも、
ずっと軽くなっていた。
「おかえり」
耳元で言うと、
遼は何度もうなずいた。
彼の手には、
古い合鍵が握られていた。
私はその手を包み、
優しく言った。
「鍵は返さなくていいよ」
逃げ道をすべて塞いでおけば、
人はそれを、
居場所と呼ぶ。
了
※この物語はフィクションです。
