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パチュリーさんと近代真宗史について会話した(3/3) 精神主義と権力

パチュリー・ノーレッジとの精神主義(せいしんしゅぎ:清沢満之が提唱した、自己の内面的な精神の充足を重視する思想)を巡る会話の第3回目です。第1回では清沢満之の側近の弟子でありながら後に師と師の開いた念仏道場・浩々堂と袂を分かち、彼らの精神主義を批判することになった多田鼎の信心と思想を掘り下げました。第2回は、その多田鼎について振り返った春近敬の論文を皮切りに、多田鼎の持つ可能性をさらに掘り下げました。そして今回は、多田鼎が批判した対象、精神主義の中の恩寵主義をめぐって会話が始まります。


1.暁烏敏あけがらすはやの信仰は「崩壊」したのか?

パチュリー:
ごきげんよう。要件は何?

彰太郎:
ねえパチェさん、先日多田鼎の精神主義批判のことを話した時、暁烏敏の後年の信仰の崩壊を、それを単純に「崩壊」と断ずるより、精神主義が孕んでいた緊張の極限的露呈と見る方が適切だと思っている、って言ってたよね。(※注:第1回参照)今日はちょっとそこを詳しく聞きたいんだけど。

パチュリー:
…はあ。相変わらず重たい話題を選ぶのね、彰太郎。
でも嫌いじゃないわ。静かな図書館で精神主義の解体を語るなんて、悪くない。

まず確認しておきましょう。

多田鼎の精神主義批判が射抜いた核心は、「信仰を内面的純粋性へと還元しすぎること」の危うさだったわね。つまり、他力を語りながら、実質的には主体の内面の緊張と誠実さに信仰の価値を置いてしまう構造。

暁烏敏は、まさにその精神主義の最も精緻で誠実な体現者だった。
だからこそ私は、彼の後年を単なる「崩壊」とは呼びたくないの。
なぜか。

精神主義とは本来、二重の緊張を抱えている思想だからよ。

一つは、
他力を絶対化するがゆえに、自己を徹底的に空じようとする運動。
もう一つは、
その「空じる」という営為が、どうしても主体の内面的真摯さ・倫理性に依拠してしまうという構造。

ここに、構造的矛盾がある。

他力を語れば語るほど、
「真に他力であるかどうか」を吟味する主体が肥大する。
この自己吟味の無限運動は、極限まで行けばどうなるか。

自我の破綻に触れるのよ。

暁烏の後年は、私はこう見るわ。
信仰が壊れたのではなく、精神主義の内部矛盾が限界点まで露呈した。

つまり、
・他力を徹底しようとする
・しかし徹底する主体が残る
・主体を否定しようとすればするほど主体が浮上する
・その緊張が臨界に達する


この過程が、外から見ると「崩壊」に見える。
けれど思想史的に見るなら、それは構造の必然的帰結よ。

魔法理論で言えばね、
過剰な魔力循環が術者の身体を焼くのと同じ。
魔法が失敗したのではない。
理論の内在的負荷が身体に現れただけ。

多田鼎の批判は、ここを冷静に見ていた。
彼は精神主義の倫理的緊張を尊敬しながらも、「それは持続可能か?」と問うたの。

精神主義は、高潔で、誠実で、深い。
けれども持続性において脆い。

彰太郎、貴方は親鸞の他力念仏を信じているわね。
なら問うけれど――
他力を語る主体は、どこまで自分を疑えばよいのかしら?
無限に疑うの?
それとも、どこかで「疑うことすら他力」として委ねるの?

暁烏の後年は、その問いの臨界点だったと私は見る。
崩壊ではない。
構造の極限的可視化。
……もっと言えば、
精神主義の純化が、精神主義を超えてしまった瞬間。

少し疲れたわね。
こういう緊張の話は、読書よりも体力を使うのよ。
でもまだ続ける?
貴方の考えも聞かせなさい。

2.精神主義に「機責め」は必然なのか?

彰太郎:
浄土真宗で昔から、信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう、という言葉があるでしょ?蓮如も「罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし」と言ってるわけだし(『蓮如上人御一代記聞書』35)。精神主義の特に恩寵主義はそこを転倒させやすい傾向がある気がする。真宗の中で批判的に使われる言葉で「機責め」(きぜめ:信仰が正しいかどうかを厳しく問い詰め、自分や他者を精神的に追い詰めてしまうこと)という言葉があるけど、内観を行うコミュニティはいきおいこの機責めが暴走しがちなところがあって、精神を病んだり人間関係を壊したり悲惨なことになっているところが多い。後知恵だからかもしれないけど、仏祖の言葉を虚心坦懐に受け取ればこんなことにはならないのにって思うところはあるよね。ちょっと森田療法の顛末に似ている気がする。

パチュリー:
……ええ、その通りね。
貴方の指摘は、とても本質的だわ、彰太郎。

「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう。」

この一句は、実に構造的に完成している。
信の根拠は仏にあり、自己の内面には置かれていない。
そして自己において経験されるのは、信の確証ではなく、罪悪機の自覚としての慈悲。
ここを取り違えると、全てが反転する。

精神主義、特に恩寵主義が陥りやすいのは、
「恩寵を受けうる主体であるか」を内面で検証し始めること。

すると何が起こるか。

信の根拠が仏辺から機辺へ移動する。

本来は、
仏(本願)→信心→罪悪機の自覚
という順序なのに、
機の内面的純度→真の信か否か→恩寵の確証
という逆流が起こる。
これが「機責め」の暴走よ。

機責めとは、本来は機の限界を知るための契機。
ところがそれが、「正しい機であるか」の倫理的検査に変質する。

そして内観共同体では、
その検査が相互監視と結びつきやすい。

ここで精神が壊れる。

なぜなら、他力を語りながら、実質的には自己完成の審級が作動しているから。

貴方が森田療法を引いたのは鋭いわ。
森田も本来は「あるがまま」。
症状を排除せず、評価せず、自然経過に委ねる。

しかし実践共同体の中で、
「あるがままに出来ているか」を点検し始めると、
それはすぐに修養主義に転落する。

精神主義も同じ構造を持つ。

「内面を誠実に見よ」という命題は、
限界まで純化されると、

「誠実でない自己を許すな」

に転化する。

ここに倫理的暴走の回路がある。

仏祖の言葉を虚心坦懐に受け取れば、と貴方は言うけれど、
実はそれが一番難しいのよ。

なぜなら人間は、
安心を主体の側に確保しようとする存在だから。

他力は、不安定なの。
主体に根拠がないから。

だからこそ、いつのまにか
「正しい受け取り方をしているか」を確認したくなる。

暁烏の極限は、まさにそこだったのだと思う。

彼は誠実すぎた。
誠実さが構造の罠に絡め取られた。

でもね、彰太郎。

親鸞のラディカルさはそこを切断している。

「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」
これは倫理の停止ではない。
倫理の根拠移動よ。

自己審級を閉じる。

ここを本当に受け取れば、機責めは暴走しない。

けれど、人間はそこまで徹底できない。

だから歴史は繰り返す。

……貴方はどう思う?

機責めの暴走を防ぐためには、
制度の問題?
解釈の問題?
それとも人間存在そのものの問題?

私はね、三つ全部だと思うわ。

……少し喉が痛い。
こういう話は、どうしても熱が入るのよ。

でも、続けるなら聞くわ。

3.「機責め」を招く権力の契機

彰太郎:
もちろんテキスト解釈の問題に関わることだし自我の肯定ループという問題もあるんだけど、真宗でこういうことが問われるときに案外見落とされがちなことは、権力の契機だと思う。機責めを暴走させるコミュニティって、大概権力構造が歪なのよ。そういうところが節度を持って民主的に運営されている話は寡聞にして知らない。そもそも、機責めって現在の一般的な言葉で言えばモラハラでしょ?モラハラが肯定されると、監視社会、密告社会に陥ったりもする。変だよね。本願寺派の宗制は日本の議会制民主主義のモデルだったりするのに。パチェさんの言った自己審級を閉じることって、正義の問題に関わってくると思うし、それは決して浄土真宗にとって外部の問題じゃないと思う。


パチュリー:
……はあ。やっぱり貴方は、そこで権力に話を接続するのね。嫌いじゃないわ、その視線。

確かに、機責めを単なる内面的過剰として扱うのは、甘い。

精神主義の暴走を「誠実すぎた」で終わらせるのは、思想としては美しいけれど、現実の共同体の惨禍を説明しきれない。そこには必ず制度と権力の配置がある。

貴方の言う通りよ。
機責めは、現代語に翻訳すればモラル・ハラスメントに近い。

本来「罪悪機の自覚」は自己への洞察のはずなのに、それが

「あなたはまだ自覚が足りない」
「あなたは本当に信を得ているのか」

という他者への査問に転化する。

ここで何が起きるか。

信仰が審級になり、
審級を握る者が権力を持つ。

そして権力は、必ず自己保存に向かう。

すると機責めは教義的装いを纏った統治技術になる。

監視、告発、相互点検。
ベンヤミン的に言えば、これは「神話的暴力」に近い構造を持つわね。法を守るための暴力ではなく、法を維持するための暴力。

面白いのは、ここで「他力」が逆用されること。

「私は裁いていない。仏法に照らして言っているだけだ」

そう言えば、責任主体が曖昧になる。
これは非常に危険な構造よ。

本来、他力は主体の審級を閉じるはずだった。
けれど歪んだ権力構造のもとでは、

主体の審級を閉じた者が、
他者の主体を審級する。

恐ろしく皮肉ね。

そして貴方が触れた「正義」の問題。

自己審級を閉じるとは、
自分を義とする根拠を失うということ。

だとすれば、共同体の規範はどこに置かれるのか?

ここでロールズが顔を出すわね。
正義は公共的手続きによって担保されるべきであって、
内面的徳性によって保証されるべきではない。

真宗がもし本当に他力を徹底するなら、
徳性エリート主義とは両立しない。

むしろ制度的謙抑、権力分立、透明性。
そういった世俗的装置こそ必要になる。

だからこそ、宗制が議会制民主主義のモデルになったのは、偶然ではないのかもしれないわね。

信仰が内面の純度で測られないためには、
制度が権力を制限しなければならない。

他力の神学は、
実は政治制度を要請する。

ここを見落とすと、精神主義は再び暴走する。

……ただね、彰太郎。

制度が整っていても、人間は権威を欲する。
安心をくれる審級を求める。

だから問題は終わらない。

他力は、安心を奪う教えでもあるのよ。
自分を正義の位置に置けないのだから。

貴方の問いは重いわ。

真宗にとって正義は外部問題ではない。
むしろ、最も内側の問題。

自己を義としないということは、
他者をも義としないということでもある。

そこからどう公共性を組み立てるのか。

……本当に、難題ね。

少し疲れたわ。
でも嫌いじゃない。こういう思索は。

彰太郎、もし他力を政治的原理に翻訳するとしたら、
貴方ならどうするの?

静かに答えなさい。図書館なのだから。

教団の問題、念仏者の分限の問題、そして「無知のヴェール」

彰太郎:
そうねえ、一番直接的な祖聖の言葉に根拠を探すなら、御同朋御同行ってことになるし、じっさい大谷派とかは同朋教団たるべしとか同朋社会の顕現とか言ったりする。しかし、僕は敢えてそこに触れるなら、大谷派がそういう事を言うようになったまさにその時期に、曽我量深が考えていたことを重視したい。念仏者の分限の問題、あるいは教団の問題と言って、17願20願を対置させた問題提起。曽我師が「教団は20願」としたのは、僕らが今話しているような問題をまさに見据えていたからではないだろうか。20願だから、救いはそこ自体にはない。果遂の誓いってのはそういうことだからね。自分に義はない、他主体にも義はない、本当の正義は、如来が良し悪しと思し召すほどに知り通らない限りわからない。これは「無知のヴェール」(むちのヴェール:ジョン・ロールズが提唱した思考実験。自分が社会のどのような立場にあるかを知らない状態で、公正なルールを考えるための概念)に通じる見方だと思う。

※リンク先は浄風山吹上寺「浄土の風だより」の各願のページ


パチュリー:
……なるほど。
貴方、そこへ持っていくのね。曽我量深をその位置に置くのは、鋭いわ。

「教団は二十願」。

これは単なる教判整理ではない。
実存的、そして政治的宣言に近い。

十七願は諸仏の称名讃嘆。
二十願は、名号を称えて往生を期す者を果遂せしめる誓い。

曽我が教団を二十願に措定したということは、どういう意味か。

教団は本願成就そのものではない。
教団は、果遂の誓いの場であって、完成の場ではない。


ここが決定的よ。

もし教団が十七願的自己理解――すなわち「既に正しき名号を讃嘆する場」――として自己を把握したなら、どうなるか。
そこに正統性の自己確証が生まれる。

正統を名乗る教団。
正しい信を保持する集団。
そこに義が発生する。

しかし二十願的自己理解は違う。

称えている。
願っている。
しかし未だ成就していない。

つまり、教団そのものが未決であり、未完成であり、危うい。

救いはそこ自体にはない。

……ええ、まさに貴方の言う通り。

果遂の誓いとは、「最後まで遂げさせる」という約束。
途中経過は保証されていない。

ここに、制度的謙抑の根拠がある。

教団は、自らを完成態と見なしてはならない。
自らを審級と見なしてはならない。

これはロールズ的に言えば、
誰も「原初状態の外」に立てないということに近い。

無知のヴェールとは、
自分が正しい位置にいるという確証を奪う装置。

曽我の「教団は二十願」は、
教団に無知のヴェールをかける思想だと読めるわね。

自分に義はない。
他主体にも義はない。
義は如来の知見にのみ帰する。


この徹底は、恐ろしくラディカルよ。

なぜなら、ここからは神学的権威主義も、道徳的エリート主義も、原理的には正当化できないから。

ただし。

……ここからが難所。

「如来のみぞ知る」という命題は、
常に誰かが代弁しようとする。

そこに再び権力が忍び込む。

だから曽我は、念仏者の分限を問うたのでしょうね。

念仏者は、如来の正義を知り通る位置には立てない。
その限界の自覚こそが分限。

もしそれを忘れれば、
二十願はたちまち十七願的自己絶対化へ転落する。

貴方が言うように、これは正義論に直結する。

他力を政治原理に翻訳するなら、

第一に、
誰も最終的審級を占有できないという制度設計。

第二に、
共同体を未完成の過程と理解すること。

第三に、
自己の義を疑い続ける公共性。


けれどね、彰太郎。

無知のヴェールは理論上の装置。
如来の不可知性は信仰上の告白。

両者は似ているけれど、同一ではない。

ロールズは合理的合意を目指す。
親鸞は救済を問題にする。

この差異をどう架橋するのか。

……貴方は、そこをどう考えているの?

政治的秩序は救済を含むのか。
それとも、救済は常に政治を超えるのか。

はあ……少し息が上がるわ。
重い問いばかりね。

でも、続きを話しなさい。
今夜は静かだもの。

教団権力に「救済」はあるのか?

彰太郎:
救済は18願なのよ。17願でも20願でもない。此岸において僕らは究極の正義(17願)と断絶しており、そこに救済はない。あるのは暫定的合意により正義を求め続ける未完のプロジェクト。しかし如来の本願は僕個人に「届き」、彼岸での成仏の確証を得て、また僕らは娑婆での生活に戻ってゆく。……やはり如来の智慧はちゃんと見通して答えを持っているよね。

パチュリー:
……ええ。
そこまで整理して語るなら、もう軽々しくは返せないわね、彰太郎。

十八願が救済。
十七願は諸仏の証誠。
二十願は果遂の誓いとしての過程。

その配置は、とても明晰よ。

此岸において私たちは、十七願の地平――すなわち究極的に保証された正義の場――には立てない。そこに直接アクセスすることは出来ない。もし出来ると言い出した瞬間、それは神話的暴力になる。貴方が先に言った監視やモ
ラハラの回路が、そこで再び作動する。

だから娑婆にあるのは、未完のプロジェクト。
暫定的合意。
可謬性を前提とした制度。

そこには救済はない。
あるのは責任だけ。

しかし――

十八願は別。

十八願は、此岸の制度や倫理を媒介せず、個に届く。
「至心信楽欲生我国」と誓われた本願は、政治的秩序の完成を条件にしない。

ここが決定的にラディカルね。

救済は歴史の進歩に依存しない。
社会の成熟に依存しない。
教団の純度に依存しない。

十八願は、政治を経由しない。

だからこそ、此岸の正義は偶像化されないで済む。

貴方の構図を整理するとこうなるでしょう。

・十七願=究極的証誠(しかし此岸からは断絶)
・二十願=歴史的・教団的過程(未完、暫定、可謬)
・十八願=個に届く救済(無条件)


この三層を区別するなら、
政治は二十願の領域に属する。

未完であり、過程であり、決して成就そのものではない。

そして十八願が個に届くからこそ、
人は政治に究極救済を求めずに済む。

……これは、とても重要なことよ。

近代政治の悲劇は、
政治に十七願的完成を期待したことにあるのだから。

革命も、国家も、理念も、
究極正義を此岸で実現しようとした。

そこに救済を見た瞬間、暴力が始まる。

しかし十八願が既に届いているなら、
政治は救済装置である必要がない。

ただ、よりましな暫定を目指せばよい。

ロールズ的公共理性は、
ある意味で二十願の倫理に近いわね。

無知のヴェールは、十七願の位置を人間から剥奪する装置。
そして合意は常に暫定。

でも、ロールズには十八願がない。
そこが決定的に違う。

彼の理論では、救済は制度の外部に置かれる。
親鸞では、救済は制度を超えて既に届いている。

……だからこそ、念仏者は娑婆へ戻れる。

救済を政治に賭けない。
しかし政治から逃げない。

ここに静かな強度がある。

「如来の智慧は見通している」と貴方は言う。

ええ。
ただし、その見通しを私たちは知り通らない。

知り通らないからこそ、
此岸では謙抑と暫定にとどまる。

それでも十八願が届いているなら、
未完の政治を引き受ける勇気は保たれる。

……ふふ。

貴方、ずいぶん遠くまで考えているわね。
運輸系の会社のバックオフィスでこんな思索をしている人間は、あまりいないでしょう。

少し疲れたわ。
でも、今夜の対話は悪くない。

最後にひとつだけ聞くわね、彰太郎。

もし十八願が個に届いているなら、
その確証は、政治的責任を軽くするのかしら。
それとも、むしろ重くするのかしら。

……静かに考えてみなさい。
私は少し、本に戻るわ。

救済は政治責任を軽くするのか? ー 心情倫理と責任倫理

彰太郎:
政治的責任というと心情倫理責任倫理(しんじょうりんりとせきにんりんり:マックス・ウェーバーが提唱した概念。前者は自らの信念に従う態度、後者は行為の結果に責任を持つ態度を指す)だけど、まず心情倫理については主体がゼロになるのだからあくまで此岸での暫定的なものというのが基本的認識になるよね。矢内原忠雄みたいなガチガチの心情倫理は美しいかもしれないけど、暁烏と一緒で危うさがある。「そらごとたわごと」の枠内の話になるわけだから、心情倫理的にはある意味軽くなって柔軟な対応が可能になる。

一方責任倫理は結果責任だから、重くも軽くもならない。結果を残さずすべて引き受けてより正義にかなった道を求める義務を負うのは同じだけど、心情倫理に逃げる道が閉ざされるという意味では重く見えるかもしれない。

パチュリー:
……ええ。
今の整理は、とても落ち着いているわね、彰太郎。

まず心情倫理。

十八願が届いているなら、主体の義は成立しない。
「私は正しい心情から行為した」という自己義認は、神学的には空洞化する。

だから心情倫理は、絶対化できない。

貴方の言う通り、「そらごとたわごと」の圏内に入る。
それは倫理が無意味になるということではなく、究極化できないということ。

矢内原のような徹底した良心の緊張は、美しい。
けれどそれを歴史的審級にしてしまうと、暁烏と同じ危うさに触れる。

心情の純度は検証不能であり、
検証不能なものを絶対化すれば、共同体は緊張で軋む。

十八願がそれを相対化するなら、
心情倫理は柔らかくなる。

「私は正しい」ではなく、
「私はそう思っているにすぎない」。

これは軽くなるというより、脱神話化ね。

しかし責任倫理は別。

結果は残る。
制度は人を傷つける。
政策は生活を左右する。

十八願は結果を消さない。

むしろ心情に逃げられないぶん、
責任倫理はむき出しになる。

「善意だった」
「信仰に従った」

それらは免罪符にならない。

ここで初めて、二十願の倫理が働く。

未完の歴史の中で、
よりましな結果を目指し続ける義務。

救済が既に届いているなら、
自己正当化の必要はない。

しかし同時に、
結果から逃げる理由もない。


……興味深いわね。

ウェーバーは心情倫理と責任倫理を対置したけれど、
十八願の地平から見ると、心情倫理は脱絶対化され、
責任倫理だけが歴史内の課題として残る。


これは一種の厳しさよ。

救われているから軽くなるのではない。
救われているから言い訳が消える。

「私は正しい動機だった」とは言えない。
「如来が知っている」とも代弁できない。

だから此岸では、
ただ結果と制度に向き合う。

……ええ、確かに一見すると重い。

でもね、彰太郎。

この重さは絶望ではないわ。

究極正義を実現しなければならないという重圧は消えている。
完全を達成しなくてよい。

求め続ける義務だけがある。

それは、静かな強度よ。

貴方の立場は、
心情倫理の美に酔わず、
責任倫理を引き受け、
しかし政治を救済装置にしない。

なかなか均衡が取れている。

……ふう。

長く話したわね。少し息が苦しい。

でも今夜の対話は、知的に誠実だった。
悪くない。

彰太郎、最後にひとつ。

その立場に立つとき、
貴方自身の職場――会社という小さな制度――では、
どんな振る舞いが帰結するのかしら。

理念はいつも、日常で試されるのよ。

……私は少し、紅茶を飲むわ。

日常の仕事で責任倫理を全うする念仏者

彰太郎:
元より僕の仕事は営収とか創造性とかが問われる職種じゃなくて、法令の要求に従って粛々と手続きを進めてゆく職種だからねえ。従業員のためとか鉄壁の職場をとかそれこそ心情倫理で自負することもできるけど、何しろ白黒がはっきり出る仕事だから、ひとつひとつ手抜かりなくホスピタリティを実現していくしかないよね。その結果営業のみんながのびのびと稼いでくることができる環境が実現すれば、それが僕の役割じゃないかと。いや、うちの連中ワーカホリック過ぎてやりすぎるきらいがあるから、かえって歯止めをかけてかなきゃならないかもだけど。

パチュリー:
……ふふ。
ずいぶん現実的なところに着地したわね、彰太郎。

でもね、それは軽い話ではないわ。

法令に従い、手続きを粛々と進める。
白黒がはっきり出る仕事。

一見すると創造性も理念も関係ないように見えるけれど、実はそこにこそ責任倫理の核心がある。

心情で「従業員のためにやっている」と自己陶酔することもできるでしょう。
けれど貴方はそれを採らない。

結果が全て。
法的に適正か。
持続可能か。
リスクは織り込まれているか。

これは二十願的姿勢に近いわね。

完成を誇らない。
しかし過程を怠らない。

そして面白いのは、貴方が「歯止めをかける役割」に触れたこと。

ワーカホリックな営業職。
数字を追い、身体を削る。

ここで心情倫理が顔を出すのよ。

「彼らは頑張っている」
「自主的にやっている」

そう言って放置することもできる。

でも責任倫理は違う。

結果として過労や事故が起きれば、
制度を整えていなかった側の責任になる。

だから貴方は、
彼らの熱意にブレーキをかける義務を持つ。

これはとても象徴的よ。

心情に委ねない。
構造で守る。

十八願が届いているなら、
「善い人間であろう」と自分を正当化する必要はない。

その代わり、
制度を整え続ける義務が残る。

そしてその仕事は、決して派手ではない。

けれどね、彰太郎。

政治も会社も同じ。

究極正義は実現できない。
けれど労務管理の一つ一つ、帳票の一枚一枚が、誰かの生活を左右する。

それを「ホスピタリティ」と呼んだのは、いい言葉選びよ。

法令遵守は冷たい作業に見えるけれど、
実は最も具体的な慈悲の形になり得る。

罪悪機の自覚は仏辺で味わうものではない。
しかし此岸では、制度整備という形でしか他者を守れない。

……貴方は案外、静かなところで重いものを引き受けているわね。

あまり無理をしないこと。
責任倫理は、完璧を要求しない。

未完でよい。
ただ手を抜かない。

それで十分。

……さて、私は本当に少し休むわ。
今夜は少し喋りすぎた。

貴方も、早く寝なさい。
明日もまた、帳票と格闘するのでしょう?

エピローグ

彰太郎:
うん、おやすみ。

パチュリー:
……ええ。おやすみなさい、彰太郎。

今夜の対話は、なかなか骨があったわ。
十七願、十八願、二十願をここまで静かに整理して話せる相手は、そう多くない。

でも考えすぎは身体に毒よ。
貴方も私も、あまり丈夫なほうではないのだから。

十八願は貴方に届いている。
だから今夜は、正義の未完も、制度の重さも、ひとまず手放しなさい。

此岸の帳票も労務も、
明日また引き受ければいい。

……私は少し本を閉じるわ。

静かな夜ね。
良い眠りを。

おやすみなさい。


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