実践の理論で学習を捉える(『日常生活の認知行動』①)
この記事は、学習の社会理論/実践共同体論に関する文献レビューの一環として、読んだ論文のポイントを簡単にまとめたものです。
【はじめに】
何回かに分けて、この分野の代表的論者であるジーン・レイヴの最初の著作『日常生活の認知行動』を取り上げていきます。
本書の原著が出版されたのは1988年で、エティエンヌ・ウェンガーとの共著『状況に埋め込まれた学習』の3年前になります。実践共同体論では、『状況に埋め込まれた学習』が参照されることが多いですが、同書は比較的コンパクトで、問題提起や新しい概念の提示に力点を置いた、いわばマニフェスト的な著作だと言えます。一方で、その背後にある理論的な問いを本格的に掘り下げているのが、本書『日常生活の認知行動』です。
『日常生活の認知行動』は、レイヴたちがアメリカで実施した研究プロジェクト「成人数学プロジェクト」(The Adult Math Project; AMP)の実証的な研究成果がもとになっています。それに加えて、社会学・人類学・心理学・認知科学・哲学など、広範囲にわたる文献を参照しながら、認知や学習をめぐる新たな理論を打ち立てようとする、骨太な内容になっています。
そこで、具体(AMPプロジェクトの観察記録やデータ)と抽象(理論的な枠組み)の両方をおさえられるように、数回に分けて、本書についてまとめていきたいと思います。
書誌情報
Title: Cognition in Practice: Mind, Mathematics, and Culture in Everyday Life
Authors: Jean Lave
Year: 1988
Address: Cambridge, NY
Publisher: Cambridge University Press
本書の翻訳版の書誌情報は以下。原著とは出版順が前後しており、『状況に埋め込まれた学習』の翻訳が先に刊行された後に出版されています。
タイトル:日常生活の認知行動: ひとは日常生活でどう計算し、実践するか
訳者:無藤隆・山下清美・中野茂・中村美代
出版年:1995
出版社:新曜社
この記事で取り上げる範囲
今回は、「まえがき」と「第1章:序論——心理学と人類学Ⅰ」をまとめていきます。本書にいたる経緯や、レイヴが抱いている問題意識、そしてそれに対するアプローチが示されている部分です。
では、いきましょう。
【本書の問題意識とアプローチ】
まずは、本書の問題意識とアプローチを整理していきます。以下の4点に整理しました。
1.認知を社会現象として捉える
認知、そして学習や教育を、個人の頭の中で起こる現象としてではなく、文化的・歴史的に組織された日常実践として捉え直すこと。本書は、そのような認識の転換が必要であることを、実証的かつ理論的に論じていく。
重要なのは、頭のなかにある知識の構成が、頭の外である社会的世界と複雑な関わり方をしているということではなくて、どうにも分けることの不可能なあり方で社会的に組織されているということにある。日常の実践で見られる「認知」は、心、体、活動、それに文化的に組織された状況(そのなかには他の行為者も含まれる)にまたがっている、あるいはこれらに広がってはいるが、そのなかで分けられてはいない。
2.「学習転移」の考え方を根本から見直す
学校教育で学んだ知識や技能が、状況を越えて転移するという一般的な信念や、それを前提とする従来の理論に対して、根本的な疑問を提示する。「この本の中心となるプロジェクトは、特定の状況での認知活動を実証的、理論的に特徴づける——それは何であり、なぜそうなのか——である」(p.5)。
場面を越えた知識や技能の源として学習転移に重要性をおく見方に疑問が投げかけられた。(中略)緊急を要するのは、数学的な活動を含む認知活動がどのように特定の状況で組み立てられているのかをさまざまな状況について説明できる、理論的枠組みを見いだすことであった。
3.機能主義的立場の学習理論からの脱却
学習転移の考え方を見直すためには、その背景にある機能主義的な社会観から脱却が不可欠である。この立場は、社会と個人を対置する二元論を前提にして、依存しない社会の規範・価値・文化を、個人が受動的に内化できると考える学習論を含んでいる。
学習転移の中心的役割は、文字どおりの文化の伝達という機能主義の前提を反映しており、それは、広い意味での社会化のとらえ方、もっと限定するなら学校と日常における実践との関係のとらえ方を告げている。
4.オルタナティブとしての「実践の理論」
機能主義理論からの代替理論として、日常生活における実践を分析の単位とする実践の理論を提示する。「本書の中心課題は、日常のなかでの実践の認知について理論化できる、概念と方法論の形態を考え出すことである」(p.28)。
社会的実践を提唱する側では、実践場面で構成される実践による知識が、生活世界に住む人々の知識性に最も有力な場を与えているとする。端的にいうと、実践の理論によって機能主義的な学校教育理論、教育イデオロギー、認知主義理論とはまた違ったアプローチが、認知や学校教育に対してできるようになる。
【機能主義理論/実践の理論】
上記からわかるように、レイヴは本書で、「機能主義の理論」と「実践の理論」とを対置させ、「認知に関する社会人類学は実践の理論だと考えるようになった」[Lave 1988=1995, 24]と、自身の立場を表明しています。
このふたつの立場の違いが、本書を読むうえでは重要となる。それだけでなく、後の『状況に埋め込まれた学習』で展開された実践共同体論にとっても、この違いが鍵になっているはずで、しっかりとおさえておきたい。
レイヴが克服すべきだと考えた機能主義
本書では、機能主義の特徴を以下のように説明している。マリノフスキーやラドクリフ=ブラウンを参照していることからも、念頭にあるのは社会学や人類学の機能主義だといえる。
この立場にあっては、非常に端的にいってしまえば、社会とはマクロ構造のひとつの集まりがある所であり、そこに生まれた個々の人間が内化すべきひとつの既成事実であるという特徴をもつ。
レイヴによれば、認知心理学で機能主義が表明されることは、ほとんどない(少なくとも以上のような意味では使われない)。彼女自身も、そのことはわかっているが、「認知心理学の理論的定式化の核を示すものとしてあえて使っていく」[Lave 1988=1995, 292]とわざわざ表明するほど、(克服すべき)重要な立場だと考えている。
なぜなら——
現代における心の概念は機能主義者の理論における社会の概念そのものだと論じられるからである。どちらも、自己永続的で、閉ざされた入出力のシステムと考えられている。
レイヴによれば、ひとつの安定した構造をもつシステム(社会や文化)を想定し、その構造を定数として扱うことで、要素の機能(=変数)について研究できると考えるのが、機能主義である。
彼女は、機能主義が想定するような「構造」の考え方が、状況から離れた教育や学習が可能であるという学習転移の神話、をつくりだしていると考えている。さらに、科学的思考や合理的思考が優位なものと考え、その下に「普通の人」(just plain folks)や「日常生活」(everyday life)を位置づけるような発想を再生産している、と考えている。
しかしレイヴは、そのような機能主義にもとづく理論もまた、ひとつの文化(西欧的・近代的な文化)の反映にすぎないはずであるため、そのこと自体を反省的に、再帰的に捉えられるような理論に向かわなければならないはずだと考える。
認知理論もまた、西欧文化でルーティンとなった、ひとつの価値にすぎない
レイヴが採用する「実践の理論」
機能主義的な理論に代わるものとしてレイヴが採用するのが、実践の理論だ。それは、次のようなアプローチだと彼女は説明する。
ここで私の提唱するアプローチも、日常活動と、それが社会システムと個人の経験の関係において構成されることに、特に焦点を合わせたものである。人間の行為と社会的また文化的なシステムの関係を、文化的に組織された場面での日常活動のレベルにおいて探究していく。
それが具体的にはどのようなものであるのかは、以降の章を読みながら理解していきたい。ここでは、抽象的なレベルで以下の2つのポイントにしぼって、実践の理論の輪郭をつかんでおこう。
〈日常活動への着目〉「実践場面で構成される実践による知識が、生活世界に住む人々の知識性に最も有力な場」[Lave 1988=1995, 22]であると考えるため、「実践の理論では、理論の着目点は日常の活動へと移り」[Lave 1988=1995, 23]、研究を進めていくことになる。
〈弁証法的特徴〉「実践の理論は、マルクス、ブルデュー、サーリンズ、ギデンズその他の研究を折衷したところから発しており、さまざまな実践の本質についての理論の集まり」であるが、特に「この研究では、社会的に構成される世界に根本的な関係として、弁証法的特徴が強調されている」[Lave 1988=1995, 23-4]。
まず、本書のタイトルにもついている「日常活動」は、実践の理論において欠かせない着眼点のようだ。「日常」は、科学的思考と対照させてマイナスな意味をもつラベルではない。同時に、単に家事とかルーティンのことだけを指すのでもない。
そうではなく、日常社会とはまさしく、一日ごと、週ごと、月ごとの通常の活動のサイクルのなかで、人間がしていることなのである。学校の教室の先生と生徒は「日常活動」に携わっており、それは、仕事帰りにスーパーで食料品の買い物をする人や、実験室の科学者と同じである。活動のもつルーティン的性格、時間の経過と共に生成されてきたその形態についてのあれこれの期待、活動のためにしつらえたり、活動が形作っている場面などが、実践の理論における分析の対象となる出来事のクラスを形作る。
つまり実践の理論では、学校での授業も、研究室での実験も、スーパーでの買い物も、ダイエットも、等しく「日常活動」として扱われる。
そしてレイヴは、そのような日常活動が弁証法的な性格をもっていることを強調している。レイヴが「弁証法的」という言葉で指しているのは、実践を構成する要素が相互に依存し合いながら新たなものを生み出す、そのような特徴のようだ。
彼らは特に弁証法的総合論に関心を寄せており、人間の主体的な働きが部分的に決定され、部分的に決定するという特徴を仮定している。そのようにして構造に対する実践の影響と、その反対の影響とを強調している。彼らの研究からは、空間的時間的コンテキストでの社会的実践の研究が推奨される。というのは、これらの理論の総合論的性格から、認知と社会的世界、形式と内容、行為している人と活動をとっている場面、または構造と行為とを分けて論じるのが難しいからである。
【ここまでのまとめ】
認知・学習を研究するために、日常活動に立脚し、実践の弁証法的分析に取り組む。
それが、「まえがき」と「第1章:序論——心理学と人類学Ⅰ」で示された、本書のアプローチだ。それがどのような研究なのかは、以降の章で具体的に見ていくことになる。
【その他、考えどころ】
機能主義・再考
レイヴが批判的に見ている機能主義は、社会学だと「構造機能主義」と呼ばれる立場といえる。構造機能主義については、社会学でも根本から問題視され、見直されているはずだ。例えば、マートンによる議論や、ルーマンの等価機能主義がその代表格だ。
こうした機能主義の変遷については、佐藤俊樹『社会学の方法』や北田暁大『実況中継・社会学』などで、ぼくも勉強してきた。こちらの見直されてきた機能主義の立場は、むしろレイヴの実践の理論と重なるところが多いと、ぼくは考えている。
実践の理論と、現象学・エスノメソドロジーとの違い
レイヴによれば、(特に弁証法的性格を強調する)実践の理論は、機能主義的な考え方だけでなく、現象学的な理論やエスノメソドロジーにも批判的である[Lave 1988=1995, 26]。一見すると、日常的な行為を分析の対象にする点で似ているように見えるが、これはどういうことだろうか。レイヴは注で次のように説明している。
実践理論が社会的な相互作用のなかで活動している個人に焦点を合わせるという特徴は、エスノメソドロジー的な、あるいは現象学に基礎をおいた理論との強い結び付きを示唆する。しかし実践理論は社会文化体制が、人間的な規模においてどう実現されるかという、日常活動に焦点を合わせている。生産と政治的な組織の原理は、世界のなかでの日常行為の舞台において、それらの原理がどのように個人の経験に現われるかを分析することと結び付いている。実践理論はマクロ構造の体系を根本的なものとして扱い、また構造と行為の関係に焦点を合わせるが、現象学的な見方、つまり間主観的に構成された経験の付帯現象として(のみ)社会体系を取り扱う見方と混同すべきで
はない。どちらも日常における実践をつぶさに分析することに焦点を合わせてはいるが、だからといって両者の本質的な違いをあいまいにしてはならない。
実践の理論では、社会構造(文化や政治や組織)を固定的には扱わないが、それらが確固として「ある」ものとして捉える。そのうえで、それらがどのように実践と相互作用するかが分析される。しかし現象学的なエスノメソドロジーでは、社会構造を間主観的な経験の付随現象としてしか扱わない。その違いは無視できない、というのがレイヴの主張のようだ。
弁証法的な哲学と現象学的な哲学の違い、ということか。このようなレイヴの見立てについて、エスノメソドロジー側からどのように反論するのかは、考えてみる必要がありそうだ。
