「自然」という幻想(1-A)~農作物は自然か
「安全な食べもの」でも述べましたが、そもそもnoteで書きたかった、長いこと寝かしていたテーマです。
農作物の話、農薬の話、化学肥料の話をしていきます。
― 私たちが食べているものは、本当に自然なのか
「自然」という言葉には、どこか調和した美しさがある。
森にはさまざまな植物が共存し、限られた光や栄養を分け合いながら、静かな秩序の中で命をつないでいる——そんな光景を思い浮かべる人も多いだろう。
けれど、生態学の視点から見た自然は、もう少し厳しい。
そこでは常に競争が起きている。
光を奪い、根を広げ、水と養分を取り合う。
一歩遅れれば淘汰される。
自然とは、優しい世界ではない。むしろ、生き残ること自体が難しい環境の上に成り立つ、きわめて動的な均衡である。
この前提に立つと、私たちが日々口にしている「農作物」という存在が、少し違って見えてくる。
農作物は「自然の産物」ではない
私たちは野菜や果物を、自然の恵みのように感じている。
しかし実際のところ、多くの農作物は自然環境の中で生き抜くようには設計されていない。
むしろ逆だ。
農作物とは、人間が長い時間をかけて選び続けてきた結果生まれた、「人間社会に最適化された生き物」である。
たとえばトマト。
原種の実は驚くほど小さい。真珠ほどの大きさしかないものもある。
植物にとって果実は、動物に種を運んでもらうための“報酬”のようなものだ。
だとすれば、必要以上に大きな実を作る理由はない。自然界では、それは栄養の過剰な投資になってしまうからだ。
ところが人間は、より大きな実をつける個体を選び、さらに大きいものを掛け合わせ、そうして現在のトマトを作り上げた。
これは他の果菜類でも同じである。
きゅうり、ナス、果物の多くも、原種ははるかに小さい。
つまり私たちが食べている「大きくて食べ応えのある野菜」は、自然の姿というより、人間の欲求を形にした結果なのである。
食べやすさは、防御力の低下と引き換えに作られている
改良はサイズだけにとどまらない。
私たちは、苦くないもの、柔らかいもの、皮の薄いもの、アクの少ないものを好む。
農業はその選抜の歴史でもあった。
だが本来、苦味や硬さ、厚い皮、トゲといった性質の多くは、植物が昆虫や動物から身を守るための防御機構である。
それを取り除くということは、別の言い方をすれば、「食べられやすくする」ということだ。
現代の野菜の多くは、野生植物と比べて防御力が高いとは言えない。
むしろかなり無防備な存在である。
ここで農業の本質が見えてくる。
農業とは、弱くされた生物を守りながら育てる技術でもある。
競走馬のような存在
現代の農作物は、野生動物というより競走馬に近い。
競走馬は速く走る能力を極端に伸ばされているが、その代わり自然の草原では生きていけない。人間の管理のもとでこそ存在できる。
農作物も同じだ。
収量が多く、味がよく、食べやすい。だがそれは、人間の手が届く環境を前提にした形質でもある。
家畜もまた同様である。
大量に乳を出す乳牛、効率よく脂肪を蓄える肉牛。もし野生に放たれれば、捕食者から逃げ切るのは難しいだろう。
家畜とは、自然の産物というより、人類が数千年かけて作り上げた「生きた生産システム」とも言える。
「自然に育てる」という言葉の難しさ
ここで誤解してほしくないのは、これは特定の農法を否定する話ではないということだ。
ただ、「自然」という言葉から私たちが思い描くイメージと、実際の生態系とのあいだには、少なからず隔たりがある。
そしてもう一つ。
現在の農作物そのものが、すでに高度に人為的な存在である以上、完全に自然の競争環境に委ねれば、多くは他の植物に勝てない可能性が高い。
私たちはしばしば「農薬は不自然だ」と感じる。
けれど、本当に不自然なのはどちらだろうか。
人間のために最適化された作物か。
それとも、それを守るための技術か。
次回は、その「農薬」について考えてみたい。
次は「農薬の話」と行きたいところですが、次も「農作物は自然か」。
chatGPTさんに、「炎上してもOKなトーンで」と指示して、書いてもらった記事を次にあげます。
Aが通常版、Bが炎上OK版です。
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