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「昔はうつ病なんてなかった」というけれど


私は昭和36年生まれ、還暦を過ぎた人間です。
以下は、その前提で読んでいただければと思います。

先日、若い知人とこんな話になりました。

「最近、ADHDとか適応障害とか、やたら病名を聞くようになりましたよね」
「そうか? 僕らの時代には、そんな言葉、なかった気がするよ」
「昔からあったんじゃないですか、そういうの」

そう言われて、ふと立ち止まりました。
本当に、なかったのだろうか。

「高校生の頃、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』を読んでね」
「北杜夫って、精神科医でもあった作家の」
「そう。1968年に出た本を、1978年に読んだんだから、もう50年近く前の話だ。その中で彼が躁うつ病と書いていたんだ。だから、躁とうつの波がある病気があることは、その頃から知っていた。でも、"うつ"だけを切り出した病名は、聞かなかった気がする」

言葉にしてみて、自分でも気づいたことがあります。
「なかった」のではなく、「一つの大きな括りの中に、まだ埋もれていた」のかもしれない、と。
実際、医学の世界でも、かつては躁うつ病から、うつだけを独立した病気として切り分けるようになったのは、もっと後のことだったそうです。

名前が変わっただけで、症状は昔からあった

「そういえば、熱中症って言葉、昔はなかったですよね」
「日射病、って言っていたな。炎天下の全校集会で、バタバタ倒れる生徒がいた。根性が足りない、なんて言われながら」
「今なら、すぐ救急車が呼ばれるレベルですよね」
「そうなんだ。病気が新しく生まれたわけじゃない。呼び方と、扱い方が変わっただけなんだよ」

うちの母は、認知症のことを「脳軟化症」と呼んでいました。
今の「認知症」という言葉に統一されたのは、実は2004年、まだ20年ちょっと前のことです。
それまでは「痴呆」という、今なら誰も使わないような言葉が、公的な場でも使われていました。

「病気」ではなく「その人の性格」や「老化現象」として片付けられていたものが、少しずつ、名前と居場所を与えられてきた。
それが、この数十年の変化なのだと思います。

助けを借りることへの、もう一つの壁

同じことは、病名だけでなく、「助けを借りること」そのものにも言えます。

「今では、老健やデイサービスを使うのなんて、当たり前ですよね」
「当たり前になったのは、案外最近だよ。30年くらい前までは、"家族の世話を他人に任せるなんて"って、白い目で見られることがあった」
「そんな時代があったんですか」
「うちの母もそうだった。父をデイサービスに通わせるのを、最後まで嫌がっていたよ自分たちで看るべきだきだ"って」

外部の助けを借りることが、"怠慢"や"愛情不足"の証だと見なされる。
これは、心の病を抱える人が「甘えだ」と言われてしまう構造と、驚くほどよく似ています。

サザエさんは「病気」だったのか

「そう考えると、昔のアニメのキャラクターって、今なら何かしら診断されてしまいそうな人ばかりですね」
「ああ、それは面白い視点だな。たとえばサザエさんなんかは……」

買い物に出かけて財布を忘れる。
カツオを追いかけて裸足で飛び出す。
お盆をひっくり返し、お風呂の栓を忘れる。
現代の物差しに照らせば、注意欠如や衝動性といった発達特性として見られてもおかしくありません。

けれど、アニメの中のサザエさんは、いつだって愉快に生きています。
なぜなら、彼女の周りの環境が、彼女をそのまま受け入れているからです。財布を忘れても、顔馴染みの店が「ツケでいいよ」と笑ってくれる。
家に帰れば、家族が「また姉さんは」と呆れながらフォローしてくれる。

「サザエさんが愛されたのは、誰もそれを"病気"だと思っていなかったからだ。だから誰も気を遣わず、ただそのまま受け入れていた」
「今は逆に、"病気"と分かっているからこそ、会社も周りも、気を遣わざるを得なくなる。それが、かえって壁を作ってしまうこともあるんですね」

「江戸時代で言えば、葛飾北斎なんかもそうだったんじゃないかな」
「北斎ですか」
「生涯に93回も引っ越しをしているんだ。部屋がゴミ屋敷みたいになると、片付けもせずに次の家へ移る。お金の管理もまるでできなかったらしい」 「今なら、"片付けられない人"として、支援の対象になりそうですね」
「だろうな。でも当時の江戸の人たちは、彼を"画狂"、絵に狂った人、というキャラクターとして、そのまま受け入れていたんだ」

サザエさんも、北斎も、環境がその人をそのまま受け止めていたからこそ、"個性"のままでいられた。病気か個性かを分けているのは、本人の中身ではなく、実は周りの環境の方なのかもしれません。

名前は、三角巾のようなもの

「骨折して腕を吊っていたら、誰だって荷物を持たせようとは思わないだろう。目に見えるからね」
「心の方は、それが見えない」
「そう。だから"病名"という三角巾を、言葉としてつけてもらう必要があるんだ」

病名がつくことで、初めて周りは「配慮が必要なんだ」と気づける。診断名は、いわば目に見えない怪我に対する、目に見える印のようなものです。

ただし、と続けたくなります。

「診断名がついたからって、みんなが優しくなれるわけじゃない。骨折した人を見ても、"持ってやるよ"って自然に言える人もいれば、心の中で"それくらい自分で頑張れよ"って思ってる人も、正直、今でもいる」
「病名があっても、なくても、変わらない人は変わらないんですね」
「そう。名前がつくかどうかより、結局は、その人自身が"根性論"から抜け出せているかどうかなんだと思う」

逆手に取ってしまう人もいる

ここまで書いてきたことは、決して「病名なんて気にしなくていい」という話ではありません。
今、病名をつけられて、本当に苦しんでいる人がほとんどです。
それは、まず何よりも先に伝えておきたいことです。

実際、うつと診断され、カウンセリングを受けている方の中には、「私よりひどい人に利用してほしい」と障害年金の受給をずっと拒んでいた人がいました。

しかし、周りから見れば、その人は十分に受給していい状態だったのです。多くの人は、むしろ自分を過小に見積もり、当然受け取っていいはずの支援さえ遠慮してしまいます。

ただ、その中にごく一部、病名を"自分を守るための地図"ではなく、"周りを動かすための武器"にしてしまう人がいるのも、事実としてあると感じています。

「病気だから」を出発点に、思考を止めるだけならまだいい。
そこからさらに一歩進んで、「もっと労わってくれよ」「こんなに負担の大きな仕事を振らないでくれよ」と、周囲に要求を突きつける方向に使う人も、ごく一部ですが、います。

「電車で"席を譲れ!"って怒鳴る高齢者がいるだろう。あれと同じなんだ」 「席を譲ること自体は、当たり前のことなのに」
「そう。でも"譲ってもらって当然"という態度を出した瞬間、周りは冷めてしまう。優しさって、求めて手に入るものじゃなくて、差し出されるものなんだよな」

診断名は配慮のきっかけを与えてくれます。
けれど、それを当然の権利として要求した瞬間、周りの善意はすっと引いていってしまう。
皮肉なことに、正当な理由があるからこそ、それを強く主張すればするほど、かえって人の心は離れていくのです。

「適応障害」という言葉を、分解してみる

「"適応障害"って、よく考えたら"環境に適応できない障害"ってだけの言葉なんだよな。本人がダメって意味じゃない」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「そこに信念があるなら、辛くても頑張り続けるのも一つの生き方だ。でも、特に執着がないなら、無理にそこにしがみつく必要はない。自分に合った場所、得意なことを伸ばせる場所を探せばいいんだ」

会社の側から見れば、これは「適材適所」という言葉になるのでしょう。
けれど、それを自分自身の内側から見たとき、私はもっと違う言葉を使いたいと思います。

「"適材適所"って、会社側から見た言葉だよな。じゃあ、自分の側から見たら、何て言えばいいんだろう」
「うーん……"自分らしくいられる場所"、とかですかね」
「ああ、それだ。会社は"材"として使い道を探すけど、自分自身は"らしさ"がちゃんと発揮できる場所を探せばいい。それだけの違いなんだ」

日射病、脳軟化症、痴呆、デイサービス――名前や扱われ方は、時代とともに移り変わってきました。
それでも変わらないのは、誰もが最後には、自分らしくいられる場所を探している、ということなのかもしれません。

そしてその場所は、必ずしも会社や外の世界にあるとは限りません。
家で、ひとりでも、始められることがあります。

現代はツールが豊富です。
今、あなたがこのnoteを読んでいること自体が、すでにその一歩かもしれません。
大層な作品でなくていい。
日々のとりとめない感情を書き出すこと、誰かの言葉に触れること。
それだけで、あなたの個性は外側へと呼吸を始めています。
PCやタブレットがあれば、今すぐマンガやイラストが描けます。
色鉛筆や水彩画、油絵に没頭してもいい。
音楽も作れるし、物書きになって発信することもできる。
昔に比べて、自分の個性を外に公開するための「間口」は圧倒的に広いのです。

確かに競争率は高い。
世界中の才能や、最新のAIがライバルになる過酷な時代です。
だからこそ、人と同じ「平均点」を目指して自分を消耗させるより、自分にしか出せない色を、探しにいってほしいのです。

ネットの世界で今、多くの人の心を揺さぶるのは、完璧で綺麗なだけの作品ではありません。
「普通の社会にはうまく馴染めないけれど、この作品を作っている時だけは生きている心地がする」という、その人の生々しいキャラクターが乗った、剥き出しの表現です。

病名は、あなたを否定するためのラベルではありません。
「自分にはこの特性がある。今は静養が必要かもしれないけれど、いつかこのエネルギーをどこで輝かせてやろうか」
――そう考えるための、ひとつの手がかりにしてほしいのです。

自分の形(キャラ)のままで自分らしくいられる場所は、きっとどこかにあります。
それを探しにいく人を、私は心から応援したいと思います。

この記事を書き終えて

今回のnoteはいかがでしたでしょうか。
「昔はうつ病なんてなかった」という違和感から出発し、日射病や脳軟化症といった、時代とともに移り変わってきた言葉、そしてサザエさんや北斎のように、環境がその人をそのまま受け止めていた例を通して、思うところを書き下ろしました。

もしあなたが今、「自分は周りとうまく馴染めない」と悩んでいるなら、この記事がひとつのヒントになれば嬉しいです。

この記事を読んで、「自分の中にある、まだ爆発させていない個性やこだわり」について、何か思い当たるものはありましたか?
また、「自分が輝ける場所を探すために、まずは何から始めてみたいか」――そんなことを、ふと考えるきっかけになれば嬉しいです。