何が正解かはわからないが歌い踊り願うことは間違いではない
最近“自然“とはどこからどこまでを表すのかと考えることがあります。
まず1番最初に考える自然はいわゆるジブリ的な、緑の森や広大な海、そういった大きな規模での自然です。
その反対に道端に咲いているたんぽぽといったレベルの小さな規模での“自然“がある。
他にも、人と人とが出会う時、それは“自然“と言えると思います。
自然な会話のように使うこともありますね。
ここから共通点を見出すなら、
人為的ではない
人の手が入っていない
というのが“自然“であると言える気がしています。

では、日本と切っては切れない関係にある“田園“は自然に入るのか。
この田園はなんとなくのイメージでは真っ当な自然で、田園風景を見たときに美しいと思う心が日本人にはあります。
ですが、先ほどの仮説には当てはまらない。
つまり、人間がいない世界だとしたら、田園風景はありえないはずだったんです。

話は変わりますが、現代人は自然は綺麗で美しいものであるという固定観念があると思います。
だから、休日になったら自然に行きたくなるし、アウトドアライフ的なものが流行している。
けれど、北海道で生まれ育った僕にとって、自然は美しいだけではないんです。
自然と対峙したとき、死にかけたことは何度もあるし、そのとき「自然は美しいなぁ〜」なんて全く思っていませんでした。
つまり、現代人にとっての自然は、“自分に都合のいい部分だけを見た自然“だと思うんです。
いわゆるSDGs的な思考なんてまさにそうで、自然を自分たちが生き続けられるように自分たちの都合でルールを定めている。
本当の意味で“自然”を守り、残すことが目的なんだとすれば、まずは自然は守るものだ、残すものだという価値観を捨てるところから始まるべきだと思います。
自然と人間の中で、主体と客体を作ってはいけない。
それぞれが並列していなければならない。

山の青と太陽のオレンジがとても綺麗だった
そういった文脈の中で、アイヌは生活を営んできたと僕は解釈しています。
先日、北海道最大のアイヌコタン(集落)である阿寒(あかん)に行ってきましたが、そこには極上の静寂があり、全ての感覚が研ぎ澄まされ、何かがそっと心の中に語りかけてくる感覚になりました。
アイヌの民族舞踊や今も阿寒に息づくアイヌの方々とお話させてもらいましたが、自分たちの現代文明の浅はかさを感じざるを得ませんでした。
占いや第六感などいわゆるスピリチュアル系と呼ばれるものと、アイヌは精神には明確な違いがあり、それは生き様が伴っていることです。
今回現地で聞いた言葉の中で「今日の始まりにオンカミ(神を讃える儀式)を、今日の終わりにオンカミを」という言葉がありますが、この言葉も現代風に言うとスピリチュアルに値する。
でも、アイヌにはそれを言えるだけの生き様がある。歴史がある。文化がある。

ここでは今も多くのアイヌが生活をしている
多様化が進みすぎて何が何だかわからなくなり、相手への興味を失い、無関心になっている社会の中で、
『何が正解かはわからないが、歌い踊り願うことは間違いではない』
というアイヌの視点は、現代に生きる私たちがかつては知っていた感覚で、いつしか失ってしまった感覚ではないか。
これから先 生き続けていく上で、もう一度その感覚を思い出すことは悪くはないことなんじゃないかと思います。
阿寒、行ってみたい人がいれば一緒に行きましょう!!
日本にも先住民族がいたということを、身をもって体感できる土地です。

そして受け入れ会話をしてくれたことに敬意と感謝を込めて。
