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水車場計画の中止で生まれた静かな哲学の道・琵琶湖疏水分線【古都の運河を辿る6】

疏水工事途中での計画変更と分線

1890(明治23)年に完成した琵琶湖疏水の第1疏水は、蹴上けあげで水力発電所に流れ込み、電力による京都の近代化を推し進めました。

右奥に見える赤い施設が、蹴上発電所の取水口。

多くの水はここで発電所に流れていきますが、一部は手前である北側に流れてきます。

この水が、左手の第4トンネルを流れてきた水と合流し、琵琶湖疏水分線がスタート。

疏水分線は第1疏水と同じ年に完成していますが、当初は分線ではなく幹線水路として計画されていました。

高台を流れる疏水から水を落とし、水車を動力として工場を誘致する計画だったようです。

しかし、工事を指揮した田辺朔郎がアメリカ視察から戻り、もっと効率の良い水力発電所を建設することにしたため、水車場を建設する計画は中止されました。

京都市内で唯一北に流れる川

疏水分線は、京都市内で唯一、標高の高い北に向かって流れる変な川。

標高に逆らい、わずかな高低差を利用して流すために、山沿いの高台を進みます。

当初はこの高台から、水車用に水を落とすことが考えられていました。

西側を見下ろすと、木立の隙間から、疏水の水を利用した広大な庭園で知られる何有かいう荘が見えます。

水車場計画が中止されたことにより、南禅寺の周辺は工場地帯とならず、静かな高級別荘地となりました。

何有荘には武田五一設計の洋館もありましたが、現在は他に移築されているらしい。

分線は、南禅寺境内を抜けて行きます。

こちらは、煉瓦造の連続するアーチが美しい南禅寺水路閣。

建設計画に対しては、名勝の景観を破壊するとの南禅寺側の猛反対があったため、田辺朔郎は古代ローマの水道橋をイメージして設計したようです。

時の流れを刻み込んだ煉瓦の風合いも相まって、何とも美しい。

古刹の風格に配慮して建てられた水路閣は、今では他の琵琶湖疏水の施設とともに、近代の土木構造物として初めて国宝に指定されています。

分線の流れは、このように水路閣の上。

まもなく、南禅寺本坊の裏手にある第5トンネルに吸い込まれ、北へと流れて行きます。

ここからしばらくは流れを追うことができないので、少し西側を分線と並行する鹿ケ谷ししがたに通を北へ。

途中、山側から水が勢いよく流れてくる扇ダム放水路に差しかかります。

第5トンネルを抜けた分線の水は扇ダムとよばれる遊水地に集められ、そこから一部は放水路によって南禅寺船溜へと流れていきます。

途中で、周辺の別荘地に水を供給していることは、言うまでもありません。

そして分線は、ダムの先で今度は第6トンネルの中へ。

冷泉通を右折して疏水の方へと近づくと、石畳の坂が始まる右手に、京都市上下水道局の施設が見えます。

ここは、松ヶ崎浄水場若王子にゃくおうじ取水池。

かなり北にある松ヶ崎の浄水場で使う水を、第6トンネル北口から取り、導水管で送っているらしい。

導水管は、疏水分線に沿って、松ヶ崎まで埋設されているのでしょう。

高台に続く哲学の道と水車場計画

坂を登りきると、疏水の流れを再び見ることができました。

若王子橋の下から流れ出してくるのは、取水池を経由した水でしょうか。

そして、ここから閑静な「哲学の道」が、疏水分線に沿って始まります。

「哲学の道」の呼び名は、哲学者の西田幾多郎が毎朝この道を歩きながら思索に耽ったことから来ているとのこと。

やはり高台を通る疏水沿いからは、後水尾天皇皇女昭子内親王の墓所が見えたりします。

哲学の道は、幹の太い桜の木が続く、京都では知られた花見の名所。

この桜は、疏水分線沿いに暮らした日本画家の橋本関雪が妻とともに寄贈したもので、「関雪桜」とよばれています。

疏水の少し山側には、「此奥 俊寛山荘地」の道標。

平安後期に平家打倒が謀られた、鹿ケ谷事件の舞台となった地になります。

この鹿ケ谷は、疏水工事の当初計画で大きな鹿ケ谷水車場が計画された所です。

もし、ここに大規模な水車場が建設されて工場地帯となっていたら、哲学の道とよばれる静かな散策路が誕生することもなかったことでしょう。

少し歩くと、西田幾多郎の詩碑。

この道で思索にふけった哲学者は、「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の言葉を残しています。

他人と自分を比べないことは、幸福を手に入れるための根本ですよね。

すぐ東には、風情漂う法然院の山門。

周囲には、ムササビの生息地としても知られる森。

この環境が維持されているのも、水車場計画中止のおかげかも知れません。

銀閣寺橋に到着。

右へ行くと銀閣寺ですが、疎水と哲学の道は反対方向へ。

疏水沿いに桜を植えた橋本関雪の、関雪桜碑がありました。

碑には、関雪が亡くなった夫人を桜と重ねて詠んだ、漢詩が彫られています。

向かいには、関雪の広大な自邸であった白沙村荘。

関雪は、自邸内の庭園に、もちろん疏水分線の水を引き込んでいました。

ここで疏水分線は、北から流れてきた白川と十字に交差。

疏水は白川の下を潜り、サイフォンで無事に乗り越えています。

ここより南で二本の川は並行して流れていますが、白川は普通に北から南へ流れているのに、疏水分線は逆に流れているのが何とも面白い。

哲学の道は、白川通の手前で終わりますが、疏水はまだまだ続きます。

白川疏水と松ヶ崎浄水場

まもなく流れは、また北を目指してカーブ。

このあたりから疏水分線は、白川疏水とも呼ばれています。

志賀越道との交差地点には結構な段差があり、その手前にはトーチカのような謎めいたコンクリート建造物。

そして、コンクリート構造物横の疏水には、煉瓦で造られた水位を調節するための堰が残ります。

ここは、かつて松ヶ崎浄水場への導水管へ水を引き込むための取水口があったところ。

横にあるトーチカのような構造物は、導水管の空気抜きや点検をするための施設のようです。

北へ歩くと、京大の遺伝学教授であった駒井卓の駒井家住宅。

こちらの設計は、キリスト教伝道のために日本へ来たW.M.ヴォーリズ。

別の日に撮影したものですが、内部ではたまらない曲線美の階段手摺を見ることもできます。

春には桜が咲き誇る疏水沿いには、美しい建築も残ります。

その北側には、森見登美彦の『四畳半神話体系』に登場する怪しいアパートのモデルらしい、銀月アパートメント。

ユニークで美しい、ステンドグラスの丸窓もありました。

戦前からある木造アパートからは、際立った楽しさが伝わってくるようです。

疏水分線は、北大路通を越えたところで叡山電車の鉄路の下へ。

疏水脇の赤の宮神社の門前には、「高野川開墾来歴碑」。

かつて高野川の氾濫によって荒廃していたこの周辺を、江戸中期に大坂の商人・豊後屋が開墾して新田としたということらしい。

疏水は、その高野川を越えるため、まもなく暗渠に入ります。

疏水が通っているのは、高野川のこの真下。

ここでも、疏水はサイフォンで対岸へ。

対岸にあるのが、京都市の北部に配水する松ヶ崎浄水場。

分線に沿って埋設されてきた導水管は、ここが終着点となります。

浄水場前には、二つの水の出口。

右側が高野川の下を越えてきた分線の出口。

左は、浄水場からの排出口と思われますが、水はほとんど出ていません。

結果として、ここからの水量はかなり寂しい。

浄水場の北側にある京都工芸繊維大学構内には、蹴上の何有かいう荘にあった和楽庵が移築されていました。

1916(大正5)年に、武田五一の設計で建てられた洋館です。

和楽庵は、疏水分線の起点近くに建てられ、やはり分線沿いの大学に移築されたということで、分線とは縁がありますね。

標高に逆らって北に流れてきた疏水分線もこのあたりが限界と見え、南西へと進路を変え、北大路通の手前でまた暗渠に。

そして、三たびサイフォンで賀茂川を越えます。

この先は、地上にところどころ顔を出しながら、現在は京都で一番古い運河である堀川の水源となっています。


京都市内でただ一本、北を目指して流れてきた疏水分線。

そこには、水車場計画の中止によって生みだされた、疏水沿いの静かな風景が広がっていました。

今回のルート

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