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『熟柿』を読んで

「轢き逃げ」という犯罪に、どういうわけだか私は、奇妙に馴染んだ感覚を持っている。それはおそらく轢き逃げというイメージを、何度も何度も、繰り返し反芻してきたせいで、それが自分の中の深いところにじっくりと位置づいているような、じつに変な感じが、長年あるのである。

自分や身近な人が過去に轢き逃げに遭ったとか、轢き逃げを犯したとか、そういういきさつがあるわけではない(不幸にも轢き逃げの被害に遭った方や、加害者となった方が、もしこれを読まれて不快な気持ちになられたら本当に申し訳ありません。馴染んでもよいとか、犯罪として軽んじるという意図ではけっしてないので、ご了解いただけたらと思います)。

では、私はなぜ轢き逃げのイメージなどという、ちっとも楽しくないものをわざわざ反芻してきたのか。それは、父が昔から時々「第二の矢を受けず」という話をしてくれたことに由来する。概略は下記引用を参照していただけたらと思う。仏教の教えである。

お釈迦さまは、み教えを聞く者は「第一の矢は受けても、第二の矢は受けない」と説かれました(『仏教百話』)。例えば、病気の発症は、避けたいことではありますが、縁次第で起こるもので、私の「思い」だけでコントールすることはできません。この矢(一の矢)は、さとりの有無にかかわらず受けるしかありません。

 しかしながら、その事実に対して、「どうして自分だけがこうなってしまったんだろう」「あのときこうしていれば、こんなことにならなかったかもしれないのに」といった具合に、いつまでもその事実に正面から向き合えずにいると、ますます苦悩を深めていってしまいます。これが「二の矢」です。

読むお坊さんの話 https://www.hongwanji.or.jp/mioshie/story/002506.html

一の矢と、二の矢。
父が話す時、喩えは決まって轢き逃げだった。事故を起こしたことはコントロール不能、不可避な一の矢であり、それを放置してその場から逃げるのが二の矢である。
この喩えは父オリジナルだったようで、「第二の矢」「二の矢を受けず」などと検索しても、轢き逃げをあげているものは見当たらない。もっと易しく「足を踏まれて痛い」(一の矢) →「相手に腹を立てたり、攻撃したりする」(二の矢)となっていたり、「花を見て美しいと感じる」(一の矢) →「摘んで持ち帰り、自分のものにしたいと執着にとらわれる」(二の矢) となっていたりする。

ただ、父の話が、もし上記のような易しいたとえ話だったら、私の心にこれほど長く残り続けることはなかったのではないかと思う。
幼い子どもに対し、父はどうして、轢き逃げを例として話したのか。理由を直接尋ねたことはないが、多分、父は私に、より現実に即した話をしようとしたのではないかと思う。現実に起こる出来事は、時に残酷を極め、人間は誰しも、縁によりどこまでも弱く、狡く、愚かになりうる。そのことに深く踏み入った轢き逃げという例は、たとえ話とはいえ、私にとって非常に重苦しいものだった。

父の話はいつもウィットに富んでいて、私は父と話すのを楽しみにしていたが「第二の矢を受けず」の話は、いつまでも、なんとなく重かった。
いつか、いざ本当に、そんな岐路に立たされる時が来てしまったら。私は湧き上がる恐怖や、保身の思いや、なんとかこの場を黙ってやり過ごせないだろうかと計算する狡さをなだめて、二の矢を受けない選択ができるだろうか?
そんな反芻を、日々の些細な瞬間にふと、また眠れない夜にも、仕事でミスを犯して正直に告白するか迷う時などにも、数え切れないほどしてきた。

ちなみに中学生向けに、おたよりに掲載する短いコラムを書いた時、父の喩えのまま轢き逃げを例にしてこのテーマを書いたら、赤を入れられ「足を踏まれた(一の矢)→怒りに任せて踏み返す(二の矢)」と変更されていたことがあった。教育現場のコラムには不適切だったか、と反省半分、この他人事と脇に置けない(置きにくい)後味の悪い喩えを、多感な時期だからこそ一度感じてみてほしいのになぁ、という勝手な思い半分、複雑な気持ちになったこともある。



前置きが長くなってしまったが『熟柿』もまた、轢き逃げによって幕が開く物語である。かおりは妊娠中に、親戚の晴子伯母さんの葬儀に参列する。
葬儀とその後の宴会まがいのどんちゃん騒ぎがあらかた済み、泥酔した夫を助手席に乗せて、かおりは自宅までの道を走っていた。雨の夜だった。かおりは運転を誤り、徘徊している老婆を撥ね、そのまま逃げてしまう。

轢き逃げという一個の結果に至るまでの一連の場面描写が、あまりに真に迫っていて胸が悪くなった。
鳴り続ける携帯電話、ハンドル操作の誤り。亡き伯母の顔が、雨の中に浮かぶ。幻影、そして衝撃。降りしきる雨。助手席の夫とのやりとり。

これはただの物語で、自分は関係のない安全なところから眺めているのだという感覚が怪しくなるほどだった。何か重いものを、おそらくは間違いなく人を、撥ねあげたという衝撃までが自分の手に伝わってくるようで、手が震えた。

そして、轢き逃げというたった一度の過ちが、その後のかおりの人生ほとんどすべてにわたって、巨大な影を落とし続ける。
かおりは服役し、刑務所内で子を産み、罪を償って社会に出る。子の誕生や、服役中のことは作中ほとんど描かれず、むしろ刑務所を出た後に始まる長い苦悩と、それでもやがて、たしかに灯る光に、この物語の主眼があるように思う。

事故を起こして逃げ出すところから、物語の中盤頃まで、かおりはまるで亡霊のように見えた。いきいきとした人間らしい感覚を、かおりから感じ取れなかった。
親戚の助けもあり職を得て、徐々に目標も持ち、淡々と、しかし懸命に働くが、周囲はかおりを放っておいてはくれず、過去を穿鑿されたりお金を騙し取られたりする。感染症の蔓延により転職を余儀なくされ、ようやく新たな職を得ても、今度は前科が発覚して職を失う。周りの人たちの人柄は、特に意地悪でも冷徹でもなく、親切な人も多いのだが、前科という一点で選択肢が異常に狭まり、それはもちろん当たり前だよね、という空気になることに薄ら寒さを感じた。これが、一度過ちを犯した人が、あなたはみんなとは違うのだからと選別され、歩かされる道筋のようなものなのだ。人間はこれほどまでに、執拗に線を引きたがるのだな、と思った。

かおりはやがて、ただ金銭を得るために自分を無にして働く、というあり方から徐々に離れ、将来を見据えた、長く続けられる働き方ができないかと考えたり、そのために学ぶ準備をしたり、同僚の一人と友人と呼べそうな関係を築いたりする。この、非常にゆっくりとした、しかし確実な、けっして誰にも奪われることはない、かおりの人生の成熟の過程は美しい。
とてもさりげなくて、当たり前の積み重ねが、当たり前にそこにある、その感じが美しい。ラストへ向かう劇的展開などはなく、謎解きとか最後に明かされる秘密とか、そういう読者の心を強く引き回すような演出もなく、ただ同じ速度で進んでゆく、かおりの静かな覚悟と歩みが綺麗だと思った。
 
かおりが少しずつ心惹かれ、やがて心を預けるようになる(その予感がする)土居さんとの穏やかなやりとりは、この物語のもっとも明るい光の部分だ。土居さんは稀有な人だけど、しかし物語の中でだけ存在するようなヒーロー的人物ではない。
現実が思い通りにならないことばかりでも、悪意に打ちのめされても、その時、その時どうにか誠実に生きようとしていれば、本当にこういう人と出会えることってあるものだ。そして、その人から大切に思ってもらえたりもするものだ。まるで、人生にちゃんと用意されるご褒美みたいに。そんなふうに思った。

二の矢をうけてなお、そこからの静かな再生は起こりうる。読後には、消化しきれない重たさがありつつも、不思議なあまみのある物語だった。

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