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「誰が話しても同じ」という違和感の正体―生成AIが暴いた政治とメディアの現在地

国政選挙のたびに、同じような違和感を覚える。
街頭演説を聞いても、テレビ討論を見ても、「誰が話しているのか」が分からなくなる瞬間がある。語られているのは政策のはずなのに、語り口はどこか既視感に満ちていて、結局は決まりきったフレーズの組み合わせとして耳に残る。街頭インタビューで「誰に投票しても同じ」とうそぶく人たちを許したくなってくる。

政治家の言葉がテンプレ化している、という指摘は今に始まったことではない。繰り返し同じ演説を行い、党の基本方針から逸脱しないよう慎重に言葉を選ぶ。その結果、個々の候補者の語りは均質化し、無難で一般的な表現へと収斂していく。失言を避けるためには合理的な選択でもあるが、その合理性が、言葉から「今ここで語られている」という手触りを奪ってしまう。

興味深いのは、それに対して批判を行うマスメディアの言葉も、また別の意味でテンプレ化しているように見える点だ。政権批判の語彙、論調、フレーミングはある程度共有されており、視聴者や読者の側には「またこのパターンか」という受け止めが生まれやすい。批判の内容が妥当であるかどうかとは別に、その語られ方自体が既知のものとして消費されてしまう。

ここで見えてくるのは、政治家の言葉とマスメディアの言葉が、対立関係にあるようでいて、実はよく似た構造を持っているという事実だ。どちらも、無難で、一般化され、角の取れた言語運用へと向かう。

まるで生成AIのようだ。

ただし、生成AIがこの構造を新たに生み出したわけではない。むしろ、もともと社会に存在していたテンプレ的な言語運用を、驚くほど正確に模倣してみせたのが生成AIだと言ったほうがよい。
だからこそ、私たちは気づいてしまったのだ。

「これは誰でもない存在が口にしている言葉だ」と。

生成AIは原因ではなく、鏡として機能している。

この鏡によって可視化されたのは、政治やメディアに限らない。だが、選挙という場面では、その影響がとりわけ顕著に表れる。具体的な現実から切り離された抽象的な言葉の応酬は、政治を難しく遠いものに感じさせ、結果として政治離れを加速させてしまう。

では、どうすればよいのか。

簡単に「自分の言葉で」「誠実に」と言ってしまえばそれまでだが、それが難しいからこそ、ここまでテンプレ化が進んできた。重要なのは、空中戦を避け、具体的な出来事や事実に言葉を接地させることだろう。限られた時間の中でも、何らかの現実に触れ、それをどう解釈し、なぜ今語るのかを示す。その積み重ねが、言葉を再び「人のもの」に引き戻す。

たとえば、
・「数字」を言ったら、その根拠(財源/対象/期間)まで言う。
・「守る」と言ったら、何を犠牲にしてでも守るのかを言う。
・「危うい」と言ったら、どの手続きがどう損なわれるのかを言う。

生成AIの時代に問われているのは、AIがどこまで語れるかではない。
人間が、語るべき場所に、自分の足で立っているかどうかだ。


※いつものように、思いついたことを、ChatGPT 5.2 に車の中でボイスモードで語りかけ、車を降りてからChromebookを開いて壁打ちを重ねて原稿を作成。草稿をGeminiに持ち込んで推敲を重ね、最後にNanoBananaにバナー画像を生成させました。 #HITL

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