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バタフライエフェクト的思考でnoteを書くと、世界の見え方は変わるのか。

僕は「バタフライエフェクト」という言葉が好きだ。

なんか、いいじゃないですか。
語感もいいし。ちょっと知的っぽいし。
言ってるだけで、こっちまで賢そうに見える感じがある。

……いや、見えるだけなんですけど。

でも本当に、この言葉にはずっと惹かれてきた。

『ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こすか』
という表現が有名だが、

そんなふうに、小さな変化が、思いもよらない大きな結果につながるという考え方のこと。

これ、自然現象の話としてもおもしろいけど、僕は最近、別のところでよく思い出す。

noteを書くときだ。

たった数百~数千文字。
たった一つの体験。
たった一回の投稿。

そんな小さなものに、いったい何の意味があるのか。

正直、思うことがある。

「こんなの書いて、何になるんだろう」って。

ある。めちゃくちゃある。
むしろ、書くたびに思う。

反応が少ない日なんて、尚更。
「今回も見事に無風だな…」と。
なんなら風どころか、空気が止まって見えるときがある。
もやは真空。宇宙でnote書いてる?と思わせるぐらいね。

でも、そこで終わらせるには、少しだけ惜しい気がしている。

なぜなら僕たちは、目に見える結果だけに「意味があった」と判断しがちだからだ。

けれど本当は、見えていないところで何かが動いていることのほうが、人生では多い。

たまたま開いた記事。
なんとなく目に入った一文。
別に刺さるつもりもなかったのに、なぜか残った言葉。

そういうものに、あとからじわじわ効いてくることがある。

その瞬間は「へぇ」で終わったのに、数日後、数か月後にふと思い出して、行動が変わることがある。
そして行動が変われば、会う人が変わる。
使う時間が変わる。
選ぶ言葉が変わる。
すると当然、見える景色も変わっていく。

そう考えると、noteってちょっと不思議じゃないですか?

書いている側は、自分の部屋で、スマホかパソコンを前に、わりと地味な顔で文章を打っているだけなのに。
見た目だけで言えば、世界を変えそうな人のそれではない。
普通に猫背だし。
コーヒー冷めてるし。
さっきまで「今日の夕飯どうしよう」も考えてたし。

でも、その地味な作業が、誰かの思考のどこかに小さな波紋を起こしている可能性はある。

ここで大事なのは、「noteを書けば世界を変えられる!」みたいなキラキラした話をしたいわけじゃない、ということだ。

いや、そんな壮大な話にすると、逆に一気に胡散臭くなる。

世界は変えられる!
あなたの言葉が未来を作る!
今すぐ発信しよう!

みたいな感じになると、もう急にセミナーの匂いがしてくる。
ちがう。そうじゃない。

僕が言いたいのはもっと地味で、もっと現実的なことだ。

自分の言葉が、思っているより遠くまで届くことがある。
そして、その可能性を前提に書くと、書く側の世界の見え方そのものが変わるということ。

たとえば、これまでの僕は、書くことを「出す」で考えていた。

今日も一本出す。
とりあえず投稿する。
反応を見る。
伸びない。
ちょっとへこむ。
でもまた出す。

完全に“出荷”である。

書いてるのか、工場を回してるのか、自分でもよく分からない瞬間がある。

でも、バタフライエフェクト的に考えると、noteはただの投稿ではなくなる。

それは、すぐに結果が出ることだけを目的にしたものではなく、どこでどう作用するか分からない小さな種みたいなものになる。

そう考えた瞬間、文章との向き合い方が少し変わった。

目の前の「スキ」やPVだけで、自分の文章の価値を決めきらなくなった。
もちろん、気になる。
めっちゃ気になる。
気にならない人はたぶん仙人にでもなったんだろう。

でも、見えている反応だけが全てではないかもしれない、と思えるようになると、書く意味が少しだけ延命される。

これは大きい。

発信って、派手に伸びないかぎり、わりとすぐ心が折れるからだ。

しかも厄介なのは、反応がないと、人は自分の文章そのものを否定し始めることだ。

「この内容じゃダメなのかな」
「自分の視点なんて弱いのかな」
「もっと分かりやすく、有益に、尖らせないとダメかな」

その気持ち、すごく分かる。

でも、そこで一度立ち止まって思う。

本当にそうだろうか。

もしかしたら今必要なのは、もっと強い言葉ではなく、もっと遠くを見る視点なんじゃないか。

目の前の数字は“今日の反応”であって、文章が起こす変化の総量ではない。
たった一人が読んで、少し考え方が変わる。
その一人が、次の日、誰かとの会話で少し優しくなる。
あるいは、何かを始める。やめる。続ける。
その小さな変化がまた別の人に伝わる。

それって、十分おもしろい連鎖じゃないだろうか。

そして何より、その前提で書いていると、自分の中で「書く」という行為の重さが変わってくる。

大げさな意味じゃない。
“責任を感じろ”とか、そういう息苦しい話でもない。

むしろ逆。

今すぐ結果を出さなきゃ、という焦りから少し自由になれる。

今日の一記事で何かを証明しなくていい。
この一本で人生を変える名文を書こうとしなくていい。
ただ、誰かのどこかに残るかもしれない小さな羽ばたきを置いていく。

その感覚のほうが、僕にはずっとしっくりくる。

たぶん、noteを書くことの価値って、「世界を直接変えること」じゃない。

まず変わるのは、自分の世界の見え方。

反応が少ない日でも、「ゼロだった」とは思わなくなる。
何も起きていないように見える日でも、「見えていないだけかもしれない」と思える。
すると、不思議と書くことを雑に扱えなくなる。

一つの投稿。
一つの体験。
一つの問い。
一つの言葉。

それらは、思っているより軽くない。

だからといって、毎回すごいことを書こうとしなくていい。
むしろ、すごいことを書こうとした瞬間に、たいてい変な文章になる。

ありますよね。
「今日は深いこと書くぞ」と意気込んだ結果、なんか一人だけポエムの山に登って帰ってこれなくなるやつ。

あれ、危険です。

そうじゃなくて、
自分が本当に引っかかったことを、自分の言葉で、ちゃんと書く。

その積み重ねが、いつかどこかで何かを変えるかもしれない。
少なくとも、そう信じられるほうが、書くことはずっと楽しい。

バタフライエフェクト的思考でnoteを書くと、世界は変わるのか。

たぶん、いきなり世界そのものは変わらない。

でも、
自分の言葉に対する見方は変わる。
書くことに対する姿勢は変わる。
そしてその変化は、誰かの見え方にまで、静かにつながっていくかもしれない。

それだけで、もう十分おもしろい。

今日書いた一文が、未来の誰かの中で、思いがけず羽ばたくこともある。

そう思うと、noteを書く手つきは少しだけ変わる。

少なくとも僕は、そういうふうに書いていきたい。

見える結果だけに一喜一憂しながら。
しっかり一喜一憂しながら。
そのうえで、それでもなお、見えない連鎖のほうも少し信じてみたい。

だって、たった一匹の蝶が、どこかの空を変えるかもしれないなら、

たった一つのnoteが、誰かの明日を少しだけ変えても、全然おかしくないので。

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