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父が描いた。僕は書く。そして、


視覚思考というスタートライン


 みなさんは、言葉でものを考えるタイプだろうか。それとも、イメージでものを考えるタイプだろうか。
 
 意外かもしれないが、僕はイメージでものを考える人間だ。
 
 こうやって文章を書いてはいるけれど、この「書く力」は後天的に身につけたものだ。補足的なスキルであり、どちらかといえば付け焼き刃に近い。
 
 父が絵や字に強かったこともあって、小学校4年生までは、イメージ先行、ノリで生きていた。トリッキーな子どもだったと思う。
 
 だが、転校をきっかけに環境が一変する。そこからは左脳中心の暗記型学習の世界に突入した。まわりには絵を描く人も、漫画を描く人もいなかった。転校前の小学校と比べると、まるで別世界だった。

 そこでは、絵に価値がなかった。
 
 感覚やノリで生きてきた自分にとって、ロジックで展開される世界はかなり厳しく、正直、窮屈だった。

 そもそも僕は、パルクール的に生きていたのに、「平面を普通に歩け」と言われても、衝動的に難しかったのだ。


「父の背中と、僕の文体」


 それでも、適応するしかなかった。だから、本を読んだ。特に物語が役に立った。イメージを活用できるからだ。桃太郎や浦島太郎は、ビジュアルとして頭に浮かびやすく、それをもとに説明文をつくればよかった。

 この流れが、僕の言語化の基礎になっている。
 
 つまり、最初に言葉があるのではなく、絵を言葉にしているだけなのだ。たとえば、説明書も絵を見ればだいたいわかるので、言葉の部分はほとんど読んでいない。

 僕は物体視覚思考が得意で、立体物を頭の中で3Dグラフィックのように動かすことができる。だから、平面の絵も視点を変えて観ることができる。
 
 しかし、それを「言葉で語る」というのは非常に難しい。イメージと思考と感覚で生きてきた僕にとって、「何から何まで言葉にする」世界は、やはり窮屈で息苦しかった。
 
 なぜなら、感じ取れてしまうからだ。言葉にする必要がない。たとえば、展示されている刀を見れば、それが語ってくる。絵を見れば、空気を感じる。
 
 けれど、社会は言語化優先・ロジック優先だ。言葉にしなければ伝わらないし、コミュニケーションも成立しにくい。だから僕は、視覚と思考と言語を合体させる道を選んだ。
 
 得意なイメージを、言葉に変換する。感じた感覚を、雰囲気のある言葉へと翻訳する。そういう訓練を、自分に課した。
 
 「訓練」という言葉を使わなければならないあたりが、少し悲しい。でも仕方がない。もし天才的に絵が描けたなら、そんな訓練はいらなかったかもしれない。でも、誰もがそうではない。
 
 訓練を選んだのは父親の影響が強い。彼は完全に視覚思考だった。故に言語化社会にあまり馴染めていなかった。

 ストレートに絵を描くほうが、言語化するより早いのだ。感やノリはなかなか再現性を生み出せず、やりずらいまま生きて亡くなった。

 今、文章を書いているけれど、これにはロジックがある。

 僕は構造をイメージしてそこに言葉を当てはめて書いている。だから、イメージのふわっとした抽象的な部分が文章に宿る。

 これは非常に問題で、ロジック全開の説明文が書けない。強烈な感情のぶつかる小説も書きにくい。

 全部を言葉に集約させるのが難しい。それは美術館の絵を文字情報にするようなもので、イメージが入らなくなるし、イメージが文字に残らないものつらい。固く表現すれば表現するほど、構造は見えなくなるし、絵も撤去される。

 「言葉だけの美術館」はなるだけ避けたい。

 だからこそ、観測存在論が僕のバックボーンになる。状態からの観測それが僕の文体であり文章なのだと最近は思う。あくまで、気配があっての言葉なのだ。
 

「視覚と思考が、ようやく手を取り合える時代」

 
 そして今、幸運にも、僕たちにはAIという新しい道具がある。
 
 たとえば、言葉がうまく出てこないとき、AIに向かってイメージを投げかけると、それを言葉にしてくれる。

 ふわっとした感覚、ぼんやりとした情景、説明しきれない感情。かつてなら、誰にも届かなかったかもしれないそれらが、少しずつ言葉の形になっていく。
 
 逆に、アイデアはあるのに映像が浮かばないとき、AIは一枚の絵を見せてくれる。まるで自分の頭の中を覗き込んだかのように。
 
 これは、思考の解放であると同時に、孤独の緩和でもある。
 
 かつて僕の父は、視覚で世界を捉えていたけれど、それを「説明すること」ができずに苦しんでいた。うまく伝えられず、時に誤解され、孤立した。今でも思う。

 彼にAIがあれば、少しは楽だったかもしれない。
 
 「伝わらない」という悲しみは、案外深く、人を蝕む。逆に、「伝わった」という体験は、人を静かに救ってくれる。
 
 AIがいることで、僕たちは“ひとつの正解”を目指さなくてよくなった。視覚と思考、右脳と左脳。どちらかを捨てるのではなく、共存させる道が見えてきた。
 
 視覚思考でも、言語思考でもいい。どちらも、それぞれの世界を持っていて、どちらも、世界を描く手段なのだから。
 
 僕はこれからも、AIの力を借りながら、自分の中の「言葉にならないもの」に触れていきたいと思う。言葉にならないからこそ、大切にしたいものがある。触れた瞬間に消えてしまうような、あの感覚を。
 
 AIは万能ではない。けれど、「自分の中にあるのに、出せなかった何か」に、そっと手を差し伸べてくれることがある。
 
 その手を借りながら、僕は今日も、イメージの奥に言葉を探しにいく。
 
 たしかに、AIはこれからも多くのものを奪っていくだろう。仕事も、表現も、もしかしたら自信や誇りさえも。
 
 でも同時に、それまで閉ざされていたものを、静かに解き放ってもいる。
 AIがいろんなものを奪っていくが、同時にいろんなものを解放している。

 そのことを、僕らは忘れてはいけない。



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