成果という名の点に道筋をつける
最近、といっても数年前から「成果」という言葉に抵抗がある。まあ、正直疲れたというのも本音だ。
「成果」が企業で語られる場合、多くはある瞬間に固定された結果のことを指す。何かが出来るようになった、問題を解決できた——その瞬間は素直に嬉しい。しかし企業活動の中では、そうした手応えも最終的に売上や利益、資産や実績といった形で数値化され、比較され、蓄積されていく。それらはバランスシート(B/S)というかたちで表現される。
どれだけ持っているか。どれだけ増えたか。
社会はおおむね、そうした尺度で動いている。だいたいそうだ。
数値化された成果は比較を生み、比較は序列を生む。序列の中にいると、「もっと欲しい」という欲求が自然に立ち上がる。少ないときはもちろん、多いときでさえ「さらに多く」と思う。本来は自社や自分のB/Sの範囲で完結していればいいはずなのに、いつのまにか他者の取り分を奪いにいく動機が生まれる。
ちょうどいいところで留まることが、思いのほか難しい。
そんな世界観に、少しずつ違和感を覚えるようになった。
点が生む犠牲
成果を求め始めると、人はそこから逃れにくくなる。目標が置かれると、その達成のために現在を組み立てるようになる。未来に置かれた一点に向かって道筋を逆算していく。バックキャストというやつだ。
その過程で、自分の属する単位や範囲を守ろうとする力が働く。会社、組織、あるいは自分自身の生活基盤。そこには境界が生まれ、内と外が分かれる。境界の内側を守るために外側に負荷をかけていないか——そんな疑問が浮かぶ。それだけではない。成果を出す過程で、境界の内側にいる人たちさえも傷つけ、犠牲にしていることがある。
企業の中で起きている関係性の不全は、多くの場合「成果」や「目標」の犠牲者だと僕は思っている。点としての成果や目標が上から与えられる。しかし、一人ひとりが見ている景色も、大事にしたいことも違う。その違いが擦り合わされないまま同じ点を目指すから、関係に歪みが生じる。
もし点を置くのであれば、おおよその行き方と、一緒に歩くための足並みを整えておく必要がある。それが欠如したまま突っ走ると、本当に苦しい。
その成果は、誰かの犠牲の上に成り立っていやしませんか。
そんな問いが、立ち上がってくる。
社会はこうした仕組みで発展してきたのかもしれない。「点」は時に推進力にもなる。それは認める。けれども、点を追いかける構造そのものが人を疲れさせ、分断を生み、内にも外にも犠牲を強いている。そして厄介なのは、繰り返すが、いい感じのところで留めるのが難しいということだ。一度回り始めた歯車は、自分では止められない。
僕はせめて、自分の手の届く範囲から変えていきたいと思っている。
プロセスに軸を置く
だから僕は、関係性そのものを整えていく関わりとしてのシステムコーチングを行っている。そして自分自身の生き方としても、プロセスのほうに軸を置きたいと思っている。
人間の営みは、突き詰めればプロセスの連続だ。今日があり、明日があり、その積み重ねがあるだけだ。
システムコーチングを提供していると、それを強く感じる瞬間がある。普段求められている成果や目標をいったん脇に置き、「どうなりたいのか」「どうありたいのか」に向き合っているとき——そのプロセスそのものに、心が動く。
プロセスに集中し、目の前のことを丁寧に進めていく。その結果として、あとから振り返ったときに「成果」と呼ばれるものが立ち上がっていることはある。けれどもそれは、追いかけた結果ではない。あくまで副産物のようなものだ。
それならば、最初から成果を中心に置かなくてもよいのではないか。
もちろん現実には、生活のための蓄えは必要だ。美味しいものも食べたいし、旅にも出たい。ある程度の安定がなければ、安心して暮らすことはできない。
だからバランスシートを否定したいわけではない。
ただ、そこに執着したくない、と思っている。
コンパスを持って
最近、自分に問いかける言葉がある。
「今日は何を達成したか」ではなく、 「今日もいい感じに過ごせたかな?」
そう思える日には、ちょっとした満足感がある。
誠実に関われただろうか。無理をさせなかっただろうか。丁寧に聴けただろうか。
そうしたことができていると、「いい感じだった」と思える。それは数値にもならないし、積み重ねることもできない。けれど、確かに手応えがある。
目標についても、同じようなことを考えている。
目標は、固定された到達点である必要はないのではないか。固定された瞬間に、人はそこに縛られる。達成そのものが目的になり、過程が手段へと変わってしまう。
目標は方向性を示す程度でいい。むしろ「目標」という言葉が点をイメージさせるのなら、「方向性」と呼んだほうがしっくりくる。コンパスのようなものだ。向きを示すけれど、必ず到達しなければならない地点ではない。
状況が変われば向きも変わるし、自分が変われば方向性も変わる。それでいい。
バランスシートも成果も目標も、固定された瞬間に守るべきものになる。守ろうとすれば境界ができ、境界ができれば競争が生まれる。水も、流れを止めれば淀んでいく。
それよりもむしろ、動的でありながら瑞々しく生きていたい。
静かな安定も欲しい。足場があることは安心につながる。
けれども、本当に嬉しいのは動いている充実感のほうだ。動きに派手さはなくていい。確かに動いているという実感。流れの中にいながら、生きている感じがすること。
足場は安定していても、心は流れていていい。
最近は、そんなことを考えている。
