【文章学校・世阿弥断章07】「駿河の虎」ノート
この【文章学校・世阿弥断章】シリーズは、昨年亡くなった村松恒平さんの文章学校で、10年くらい前に創作したものです。各回ごとに課題があり、2500字くらいの短編小説を書いていました。私はいつも世阿弥をテーマに書いていましたので、創作順ではなく、世阿弥の年代順に番号を振って公開しようと思います。
この「「駿河の虎」ノート」の時の課題が何だったのか、メモがなくてわかりません。この観阿弥の死の謎については、最近やっと納得のいくストーリーが浮かんだのですが、この時は思い付きの始まり、そういう意味で「ノート」と題をしています。このあとも同じモチーフが繰り返されます。
なお、このノートに初期の頃公開した【羽衣の家】シリーズも、ここから始まった作品です。
この出来事については、最近の探求の成果を踏まえて、いずれ新たに別の作品にしなければいけないと思っています。
西暦一三八四年は、古来革命が起きるとされる甲子の年にあたるため、それを避けるため元号が改められた。北朝では六歳で即位した後小松天皇即位の三年目にあたり、二月に至徳元年となった。一方南朝では、大和國宇智郡の栄山寺に行宮を構えていた後亀山天皇が、前年に即位したことを受け、四月に元中元年となった。
室町将軍足利義満の講和策により、後亀山から後小松へ三種の神器が譲り渡されて、南北朝の統一が実現するのは、この八年後のことである。
その年、駿河守護の今川泰範は、祖父五郎入道範国の九十歳の祝いのため、浅間神社の御会式に、都で評判の観阿弥の一座を招いた。
これは入道のたっての希望であったが、泰範自身は面白くない。くだんの猿楽の者どもは妙に南朝に近い。そもそも今川の家は将軍補佐の家柄である。主家の吉良家は足利に人が絶えた時には、代わりに将軍となる家であり、吉良にも人がいなければ今川がその任を負う。
南朝の間者とも思しき観世座の者どもが将軍に巧みに取り入り、五郎入道までもが誑かされている。泰範は心中苦虫を噛み潰していた。
招かれた観阿弥にとって、浅間神社のある賤機山は、大和猿楽の祖である秦氏の霊の祀られているところである。足利将軍が源を名乗るように、観世の人々は自らの姓を秦と名乗っていた。その地での法楽の舞ならば、一座の総力を注いで良い舞台を奉納せねばなるまい。まして入道今川範国は、近江の佐々木導誉、播磨の赤松円心とともに、早くからまだ若い観阿弥を導いてくれた恩人である。五十歳を過ぎて名人と呼ばれる今の、最高の芸を見せてこそ過ぎし日の恩に応えるというものではないか。
その五月四日の舞台に観阿弥は生涯の傑作「自然居士」を選んだ。
親の供養のために我が身を人買いに売った少女を、説教者の自然居士が人買いから救い出すお話で、少女の可憐さ、居士の義侠、居士と人買いの対決、人買いに要求されるまま次々と見せる芸尽しなど、巧みな場面転換と相まって一座の演目の中でも最も人気の高い曲である。
しかし、次の観世太夫と目される三郎(後の世阿弥)はこの選曲に異議を唱えた。
「オシさま。居士は畢竟物真似の曲ではありませんか。」
物真似というのは、今で言えば演技とか芝居とかいうのに近い。面白さに主眼があり、芸位はさほど高くないというのである。
「物真似とて富士の山に登る。それにこの居士は少年でなければならぬぞ。まだ目配りが足らぬな。」
三郎は虚をつかれた。人買いと渡り合う居士は、ひとかどの説教者でなければならないが、少年とはどういうことなのだろう。
「我らをお招き下されたのは泰範様ゆえな。」
「あっ」
今川泰範はもともと建長寺で出家していたところを、父と兄の死を受けて、祖父範国と叔父了俊が還俗させて家督を継いだ。その出家だが正式の禅僧としてのものではなく、前髪を垂らした姿で雑務を司る喝食として仕えていた。
観阿弥の演じようとする「自然居士」はこの喝食姿の説教者である。
「それに見所は入道様お一人ではない。都振りに反感のある者とて多かろう。」
観阿弥の目は東国武士だけに留まらない。御会式当日、さて自然居士の装束にかかろうかとする頃に楽屋を訪ねた者がいる。摂津に座を構える丹波猿楽の榎並であった。観阿弥の若い頃に諸所の楽頭であった榎並大夫は先代であったが、当代は泰範の庇護のもと毎年この御会式を宰領していた。今日も朝からの番組を切り盛りし、留の一番を観阿弥に譲っている。表面を笑顔で取り繕っているぶん、内心の鬱積も知れよう。
観阿弥の「自然居士」は素晴しいものだった。そこにいたのはまさに少年の居士だった。それでいながら海千山千の人買いと堂々と対峙している。才走った若者ではなく、神聖な雰囲気を湛えた宗教者がそこにいた。
その夜の宴席では観阿弥を称える言葉が飛び交い溢れた。九十歳の五郎入道範国はもとより、領主の泰範も賛嘆の言葉を連ね、最後に榎並大夫までが杯を求めに膝を進めた。
この奉納能の後、早々に駿河を退出するつもりであったが、範国、泰範の勧めもあり、観世の一座は富士の周辺で日を過した。霊峰を前に詩想も高まろうというものである。
ある日、三保の松原に遊んだ夜の座敷でのこと、泰範は即興の曲舞を所望した。和歌や詩などと違い、曲舞の即興はいかに観阿弥でもままならない。同席していた榎並は
「曲舞は観世の得手でございまして、私どもにはとても無理でございます」
と辞退し、早々と傍観する側に廻ってしまった。名乗り出たのは三郎である。一座の囃子の得手と暫く打合せていたが、やがて座敷を舞台に設えて謡を始めた。古来の形式を踏まえて見事に三保の松原を称える出し物である。
あまつさえ途中から三郎は立って舞いを添える。大柄な観阿弥と対照的に小柄な三郎であったが、その舞姿の美しさは見る人々の胸を打った。
事件が起ったのはその数日後のことである。
五月十九日の早朝、範国が寝床で亡くなっているのを家人に発見された。九十翁の大往生である。
しかし、前日の夜泰範に呟いたひと言が惨事を招いた。
「来年の御会式では観世三郎に留の一番を舞ってもらいたい。」
周囲には限られた者しかいなかったにも関わらず、この話はその夜のうちに榎並の耳に届いていた。それはその場の内々の会話の中の一言でしかなかったが、範国の最後の言葉となれば話が違ってくる。
榎並は一座の者たちを引き連れて観世座の宿所に押し寄せた。役人が駆けつけた時には観阿弥は胸を刺されて絶命していた。三郎も手傷を負っていたが、命に別条はなかった。観阿弥が身をていして三郎を守ったのだった。
