『永遠の0』再考──物語と百田史観の距離
あの当時の私は、終戦特集のモノクロ映像にリアリティを感じられないと書いた。そして映画『永遠の0』を観て涙が止まらなかった、と。
『永遠の0』は、特攻で命を落とした零戦搭乗員・宮部久蔵をめぐる物語である。家族のもとへ生きて帰ることを強く願いながら、最終的に特攻という選択へ追い込まれる人物像は、感情を強く揺さぶる構造を持っている。
当時の私は、この物語を「一人の人間の悲劇」として受け取った。
国家ではなく、家族の物語として読んだ。その読みは間違いではない。
しかし現在の視点から見ると、もう一段階踏み込む必要がある。
原作は作家 百田尚樹による小説である。百田は、戦後日本の「自虐史観」を批判し、日本の戦争責任や加害性の語り方に疑義を呈してきた作家として知られている。現在は日本保守党の代表だ。彼の言説には一貫して、「戦前日本の名誉回復」という志向が存在する。
問題は、この思想的背景が作品にどのように作用しているかである。
『永遠の0』は露骨な戦争賛美映画ではない。むしろ宮部は「臆病者」と罵られ、生への執着を持つ人物として描かれる。そこには明確な戦争批判の要素も含まれている。
だが同時に、この作品は特攻という行為を「個人の覚悟」「愛する者のための自己犠牲」として意味づける構造を持つ。
ここに思想的な思惑が、狡知的に存在する。
特攻とは、国家が個人の命を消費する制度である。
それは構造的暴力であり、制度的強制である。
しかし物語は、その構造を前景化するよりも、そこに置かれた一人の人格の高潔さを描く。結果として、制度そのものへの批判は相対的に弱まり、個人の美徳が前面に出る。
このとき、観客の涙はどこへ向かうのか。
国家の暴力に対する怒りか
それとも、崇高な自己犠牲への感動か
両者は紙一重である。
百田史観は、戦争を「侵略の物語」よりも「やむを得ざる選択」や「個々の兵士の名誉」の物語として再配置する。その意味で『永遠の0』は、直接的な歴史修正主義ではないにせよ、「名誉の回復」という情緒的装置を通じて、戦争の道徳的評価を緩和する方向に作用する。
私が執筆当時、この構造を意識することはなかった。
私は単純に「不条理な死」に涙した。
しかし現在の私は、次の問いを避けられない。
なぜ特攻という制度が生まれたのか。
なぜ個人がそこに組み込まれたのか。
その責任は誰にあるのか。
物語は、責任を曖昧にする傾向を持つ。
悲劇は構造よりも人格に焦点を当てることで、倫理的怒りを鎮静化させることがある。
もちろん、兵士個人の尊厳を描くこと自体は重要である。
だが、その尊厳を描くことが、制度批判を後退させるならば、そこには思想的な問題が生じる。
ここで私は、単純な否定に立つつもりはない。
『永遠の0』は、戦争を全面的に正当化する作品ではない。
しかし同時に、戦争を構造的暴力として徹底的に告発する作品でもない。
それは、「個人の美徳」という回路を通じて、国家の物語を柔らかく包み直す作品である。
だからこそ、この映画に涙した経験を、私は否定しない。
だがその涙を、そのまま歴史認識に接続することには慎重でありたい。
戦争をめぐる物語は常にイデオロギーと隣り合わせにある。
感動は中立ではない。
いま、ウクライナやパレスチナで続く戦争を考えるとき、私が警戒するの は、「美しい死」という物語が再び生成されることだ。
国家はいつでも、死に意味を与える。
だが本来、死は意味づけられるべきものではなく、回避されるべきものである。
私が流した涙は、個人の悲劇に対する誠実な反応だった。
現在の私は、その涙がどの思想装置に組み込まれ得るのかを考える。
物語に心を動かされることと、
物語が何を正当化しうるかを検証すること。
その両立こそが、成熟した鑑賞の態度なのだと思う。
【資料:以前、私が書いた文章】
8月15日、テレビでは今年も終戦記念日の特集番組が放映されています。テレビから流れるモノクロの映像は当時の私には想像もできない光景でした。
爆弾が空から降ってきて周り一面が火の海になっていたり、命からがら逃げる人々の姿だったりと、でも何故かリアリティを感じられませんでした。
そんな事を考えながら、レンタルDVDで映画『永遠の0』を観ました。涙が止まりませんでした。家族のために生きて帰ることを何よりも願った軍人が、自分の部下とお国のために命を落とさざるを得ないという不条理に、ただただ悲しく悔しい思いを抱きました。
私としては、主人公の境遇や考え方に親近感を覚えて、家族や近しい人が犠牲になれば自分はどう考えるだろうかと、映画を観ながら一体化できたからと思いました。
この映画の原作は、作家の百田尚樹氏が書いた同名の小説です。百田氏は当時の「特攻隊」に所属していた方々にリサーチを行い、この物語を構成されています。
先述した宮部久蔵という「戦死した特攻兵」は、実在の零戦エースパイロット岩本徹三氏をモデルに創作された想像上のキャラクターです。
そしてこの小説の主人公、佐伯健太郎は弁護士を目指す26歳のフリーターで、フリーライターである姉・慶子の手伝いとして終戦記念記事の取材に同行するうちに、自分の祖父が実は宮部であることを知ることになります。
初めはお小遣い目当てだった健太郎は、初めに訪れた宮部の戦友長谷川梅男に「あいつは海軍一の臆病者だった」と罵られます。そして引退したやくざの景浦介山には、健太郎には話を聞く資格さえないと追い返されます。
すっかり情気返る健太郎でしたが、同時にもっと祖父のことを知りたいという気持ちが芽生えてきます。
妻である松乃と娘・清子(健太郎たちの母)に会うまでは死ねないという強い信念を持った宮部の気持ちを知るに及んで、健太郎の気持ちに決定的な転機が訪れるのです。
戦争当時の日本は、軍部の命令には絶対に逆らえませんでした。「特攻」というのは自身の体を賭して敵にダメージを与えるという戦法を指しているそうです。
自分の部下たちが次々と命を落としていく中で、宮部は苦悩します。そして、彼が下した決断は悲愴なものでした。エンジンが不調な戦闘機をわざと部下に乗せて途中で不時着させ、自らは命と引き換えに米軍への「特攻」を選んだのです。あれほど望んだ妻と娘に会えないまま、宮部の命は海の藻屑と消えてしまいました。
しかし、宮部の松乃と清子を想う気持ちは、生き残った彼の部下たちによってしっかりと伝えられたのでした。
私の祖父は終戦直前に旧満州に渡ったと聞いた事があります。戦争を体験している世代が次第に亡くなっていく中で、私たち若い世代に求められていることは、過去からの成果だとか教訓だとかを次の世代に繋げていくことだと思います。
今、中東で続いている戦争にリアリティを感じられないとしたら、私たちはどんなに不幸なことでしょう。爆撃で命を落とす子供や老人たちには親がいたり友人がいたりするでしょう。そのかけがえのない命を奪う理不尽な戦争を、私たちは無くしていく努力をしていきたいと思います。

