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【読書メモ】エッセイストのように生きる

昨日1つのニュースに関してあれこれと思考を巡らせ2000字を超える記事を書けた私は、エッセイストとしての自覚が少し芽生えたのであった(生意気)。というわけで、本日読んでいく本はこちら。

誰かのnoteを見て気になり、kindleまとめ買いセールで購入していた。ちなみにこのセール、10冊まとめ買いすると12%ポイント還元みたいなセールだが、当時「noteで書評ハイ」になっていた私は狂ったように「カートに入れる」ボタンを連打していた。

もしリアル本屋さんだったら、10冊も買うのはその圧倒的な物量を眼の前に躊躇していただろう。これが電子書籍のいいところでもあり悪いところでもある。しかし、5MBもないiPhoneで撮った写真よりも小さいデータに1000円も2000円も払うなんて冷静に考えるとすごい話である。「情報 = 価値」の最もわかりやすい例だろう。

では、さっそく中身に入りたいが、その前に私が漠然と考える「日記」と「エッセイ」の違いを事前に整理しておくと、

日記 = 事実 70% + 自身の考え・思い 30%
エッセイ = 事実 30% + 自身の考え・思い 70%

である。つまり日記とは、基本的に発生した事象を記録するのがメインで、エッセイとは発生した事象について自身の思いや考えが言葉にしたものがメイン、という理解だ。

例えばイヌのウンコを踏んだとしよう。

日記は「今日イヌのウンコを踏んだ。めちゃくちゃ腹が立った。おわり。」だが、エッセイは「今日イヌのウンコを踏んだ。懐かしい気分になった。子どもの頃はよくイヌのウンコを踏んでいたが、大人になってからはあまり踏まなくなった。なぜだろう。飼い主のマナーが良くなりウンコを片付ける人が増えたから。そもそも野良犬が少なくなったから。そんな理由をすぐに思いついたが、おそらくそうじゃない。子どもの頃はいつも前を向いて歩いていたからだ。しかし大人になってからは下ばかり向いて歩くようになっていた。だから自然とウンコを回避できていたのだ。あの頃の希望に満ち溢れた感覚を取り戻すべく、これからはもっと前を向いて歩こう、もっとたくさんウンコを踏んでいこうと思った。」である。これが私の考えるエッセイ的な文章だ。

ではこの理解が正しいのかどうか、エッセイストとしての生き方を教えていただくとしよう。


まず著者は松浦弥太郎さん。

あまり存じ上げなかったが、たまに美容室とかで見る気がする「暮しの手帖」という雑誌の編集長をやっていた方だった。wikipediaの著書の数が異様に多いなと思ったので数えたら86件だった。書きすぎである。「エッセイストのように生きる」は2023年10月に出版された意外と新しい本。

少し読み進めるとこんな章があった。

「会社で先輩から豆大福をもらった。とてもうれしかった」というできごと。これは、そのまま書けば2行で終わってしまう「日記」です。エッセイではありませんね。そこで、「うれしい」という感情からもう一層、二層と深いところをさぐってみるのです。「なぜ自分はそう感じたのだろう?」と、自分に問いかけていく。もしかしたら、忘れていた記憶がよみがえるかもしれません。そうすることで「秘密」が見つかり、日記からエッセイへと近づけます。  

豆大福をもらうと、ほかのお菓子よりもうれしい気持ちになる。 そういえば、どうして自分は豆大福がこんなに好きなんだっけ。 そうだ、子どものころにおばあちゃんの家に行くと、いつも和菓子を食べさせてもらってたんだ。 おばあちゃんはいつもにこにこ優しくて、はたらき者だったなあ。 そういえばおばあちゃんの畑作業を見ながら豆大福を食べたことがあって、あのときの風は最高に気持ちよかったな。 そうか、だから自分にとって豆大福は、尊敬と愛情の証なんだな。僕はおばあちゃんにはじめて「尊敬」を教えてもらったのかもしれない。この「尊敬」の原体験は、僕にどんな影響を与えているのだろう。

松浦 弥太郎. エッセイストのように生きる (pp.70-71). 光文社. Kindle 版.

さっき自分がしたのとめちゃくちゃ同じコトしてた!自分の理解めっちゃ合ってた!ということでやはりエッセイとは「自分の心と向き合うこと」「考えを巡らせることが」が大事らしい。特に自分だけが発見した、モノやコトの本質である「秘密」を言葉にしたものがエッセイなんだと松浦さんは言う。

さて、それなりに満足したので、心に刺さった箇所をいくつか紹介して終わりたいと思う。

「弥太郎さんはなぜ、毎日のように『書く』のですか?」  そう聞かれたとき、少し照れくさいのですが、かならず返している言葉があります。
「忘れたくないことがあるんですよ」  エッセイとは、いつまでも忘れたくない、ずっと心に残しておきたい宝物を、書き記して残す営みなのです。

松浦 弥太郎. エッセイストのように生きる (pp.30). 光文社. Kindle 版.

忘れたくないことがあるから、そのとき感じたことを文字に残す。いい営みだよなあ。私も最近本当に忘れっぽいので、読書メモだけじゃなくて、感じたことを思いのままに書いて残しておくのも全然ありだと思った。数年後に自分の書いた文章を読み返すのを想像するだけで楽しみだ。そしてnoteがサ終してしまったらすべて無に帰すので、バックアップを取っておこうと思うのだった。

こうして「すべてのことに意味があり、学びがある」ということがわかっていくと、どんなにつらいことも、いやなことも、腹立たしいことも、ありがたいものとして肯定できるようになります。さらにエッセイを書くことが習慣になっていれば、どんなできごとが起こっても「エッセイの種になる」と前向きにとらえられるようにもなるでしょう。あたらしい「秘密」を見つけることができそうだ、と。

松浦 弥太郎. エッセイストのように生きる (pp.30). 光文社. Kindle 版.

オードリーのオールナイトニッポンで毎週エピソードトークを産み出すのに苦労していた若林の言葉を思い出した。ものすごく腹立たしいことやトラブルが起きても、エピソードトークになるから逆に嬉しくなる。感情がおかしくなってしまった。人間こうなったら終わり、と。若林は冗談交じりで言っていたが、自分は「そうなったら人生無敵だろうな。ずっとポジティブに生きていけるな。羨ましい。」と思っていた。

しかし、まったくの一般人でも書く習慣があるだけでそれと同じ境地に達することができたのである。ありがとう、書く習慣。ありがとう、note。

 しかしながら、次から次へと情報をインプットすることがあたりまえになったことで、ほんとうに「わかった」ものはどんどん減っているように僕は感じています。 「知る」と「わかる」は、まったく違うものです。
(中略)
皮肉なことに、「教養至上主義」が、ほんとうの意味で「考える」ことの妨げになっている気すらしてしまうのです。

松浦 弥太郎. エッセイストのように生きる (pp.92, 98). 光文社. Kindle 版

後半は情報のインプット方法について多く書かれている。どれも激しく同意できる内容だった。情報が簡単に手に入る時代だからこそ思考力が大事。ファスト教養と言われるような、タイパを意識して名作映画を早送りして「知る」なんて行為は本当に愚かで、同じ映画を何度も繰り返し見て、感じて、考えるのが大事なんだと。本当にそのとおりだと思う。

私もこのnoteを始めてkindleのライブラリがものすごい勢いで増えたが、一度足を止めて、気に入った本をもう一度読むようなぜいたくな時間の使い方をしたいと思った。


以上である。エッセイの書き方の話は5章だけで、1章から4章は考え方とか生き方の話だったが、それがとても共感できる内容だった。やっぱり今の世の中は慌ただしすぎる。情報過多でタイパ至上主義でみんな頭の中がパンクしてる。「おだやかに生きる」はこの本で松浦さんが言っていた言葉だが、このせわしない世の中をのんびりと「のどか」に生きてほしいという願いを込めて、娘にこの名前をつけた。(ペンネームは、そこから拝借)


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