【短編小説】⑮レンタル子ども事務所
第15話 真夜中の少女 ―午前零時の来訪者(後編・約束)
心の扉は 閉じられていない 重いだけ
ほんの少しの「希望」が残っていたから
――曜は対話までたどり着けた
彼もまた 阻まれた痛みを知っている
その夜も、曜は住宅街の奥にある一戸建ての離れの前に立っていた。
空気は冷たく、街はすでに眠りの底に沈んでいる。遠い道路の「しゃあ…」という流れが、誰かの寝息みたいに続いていた。
呼び鈴を押すと、少し遅れて足音が返ってきた。
扉が開き、白いパジャマ姿の紗夜が顔を出す。
「曜くん……ありがとう。……また来てくれたのね」
笑ったが、声は少し掠れていた。
「こんばんは。昨日のこと、覚えてますか」
「ええ、少しだけ。絵を……描いてた。あの子が、あなたと」
曜は頷いた。
部屋に入ると生活の匂いがする。洗剤、インスタントのスープ、乾きかけのタオル。
テーブルの端には、音に反応して弱く光る小さなおもちゃ。拍手すると、ほんのり瞬くタイプだ。
壁の鳩時計は口を閉じたまま、腹の奥で歯車を回しているみたいに「ぎ…」と小さく鳴った。
机の上には、昨日のクレヨンの絵がそのまま残っている。青と白の夜空。大きな月と沢山の星。
そして、その端に――二つの影。
「昨日、あの子は『朝が来なきゃいいのに』って言いました」
紗夜が小さく息を呑んだ。
「……そう。あの子、いつもそう言うの。朝が来ると、消えちゃう気がするから」
「消えるって、感じるんですね」
「うん。置いていかれるみたいで……こわい」

曜は急いで言葉を足さなかった。
沈黙は、責めるものじゃなくて、呼吸を整えるための余白だと知っていた。
「曜くん」
「はい」
「夜だけの世界って、寂しい?」
紗夜は、答えを聞くのが怖いみたいに笑った。
「寂しいです。でも、だからって一人で抱える必要はないです」
「……私ね、昼が怖いの。人の声がするから。視線があるから。鍵をかけたくなる」
「鍵」
「うん。勝手に入ってこられないように。……でも夜は、私が少しだけ開けちゃう。鍵をかけっぱなしだと、心が壊れそうで」
その時、壁の鳩時計が、鳴く前の前触れみたいに「ぎ……ぎ……」と歯車を強く擦った。
次の瞬間、短い金属音が二回――チン、チン。
音に反応するテーブル端のおもちゃが、遅れて「ぱっ、ぱっ」と弱く光った。
紗夜の肩が跳ねる。呼吸が浅くなり、視線が鳩時計に吸い寄せられた。
「……今の、音」曜が小さく言う。
紗夜は首を振ろうとして、うまく振れなかった。
「……来る」
声が、途中でほどけた。
追い打ちみたいに、離れの外――どこかで玄関ドアが勢いよく閉まった。
バン、という乾いた一撃。
鳩時計の振動と重なって、部屋の空気が一枚ずれた気がした。
曜は立ち上がらなかった。大げさに焦らない。ただ声だけを落とす。
「大丈夫。ここにいます。逃げなくていい」
紗夜がゆっくり顔を上げる。目の光が少し幼くなる。
――零時じゃない。音で、スイッチが入った。
「お兄ちゃん、こんばんは」
少女の声だった。
少女は床に座り、積み木を並べ始めた。指先が迷わない。迷路じゃない世界の手つきだ。

「また来てくれた?」
「来たよ。君に会えた」
「ねえ……夢を見たの。お母さんが笑ってた。でも、私のこと見えなかった」
曜の喉が詰まる。
けれど、言葉は優しく手渡すものだ、と自分に言い聞かせる。
「見えないんじゃなくて、見失ってるだけかもしれない」
「……じゃあ、私、いらない子じゃない?」
「いらない子は、この世にいない。君はここにいる。話してる。今、ちゃんと」
少女は積み木を握りしめ、しばらく黙ってから小さく言った。
「でも朝になったら……」
「朝になったら、消えるんじゃない。休むんだよ」
「休む……?」
「うん。帰る。元の場所に、いったん戻る。――それは“いなくなる”とは違う」
少女の肩がふっと下がった。
安堵って、こんなに小さな形で出るのだと曜は思った。
「ねえ、お兄ちゃん」
「うん」
「また夜が来たら……また会える?」
「会える。約束する」
少女は、やっと笑った。
それからクッションを抱えて目を閉じる。月明かりがカーテンの隙間から差し込み、頬を淡く照らした。
その光の中で、少女の表情は少しずつ戻っていく。静かに眠りにつくみたいに。

深呼吸のあと、紗夜がゆっくり目を開けた。
「……曜くん?」
「はい」
「私……寝てたのね」
曜は頷き、机の上の紙をそっと示した。
「絵、描きましたよ」
紗夜はクレヨンの絵を見つめた。大きな月と沢山の星。
そして、涙が一筋こぼれた。
「……この子、ほんとうにいるのね」
「います。ここに」
曜は軽く胸を指した。
「ここにも」
紗夜は泣きながら、笑おうとした。今度は途中でやめなかった。
「曜くん……お願いがあるの」
「はい」
「友だちになって。……話を聞いてほしい」
言い終えた瞬間、紗夜は視線を落とした。
弱みを出した自分を叱りそうな顔で。
「昼とか、そういうのは……まだ無理。今の私は、鍵を強く握ってないと崩れそうで」
「うん。大丈夫」曜はゆっくり頷いた。
「鍵は、今はそのままでいいです」
紗夜が顔を上げる。
「じゃあ……」
「約束するなら、夜にしましょう」
曜は言った。
「同じ時間に。ここに来ます。鍵の外で待って、開けられる時だけでいい」
紗夜の呼吸が少し深くなった。
要求されないことが、彼女には救いだった。
「……毎晩じゃなくても?」
「毎晩じゃなくても。来られる夜に来ます。来られない夜は、来られないって伝えます。勝手にいなくならない」
紗夜は、ようやく笑った。小さく、でも本物の。
「それなら……怖くないかも」
曜は立ち上がる。
帰る準備をしながらも、声は置いていくみたいに静かだった。
「怖いのが消えたわけじゃない。怖いまま、息ができたんだと思います」

玄関で靴を履く。
紗夜は扉の内側に立ったまま、外には出ない。出られないのではなく、出ない選択をしている。
「曜くん」
「はい」
紗夜は少しだけ笑って、でも目は揺れていた。
「いつか、明るい時間に会えるようになったら……その時、私も明るい私に戻ってるかな」
曜はすぐに答えなかった。鍵を握る手を急かしたくなかったからだ。
それでも、言葉はちゃんと渡した。
「その時のあなたは、きっと戻るんじゃなくて……以前《まえ》よりも、もっと輝いてますよ。あの絵のように」
紗夜は珍しく深く息を吸って、一気に吐き出した。
「……輝く、か」
曜は小さく頷く。
「夜のあなたも、明るいあなたも、あなた自身ですよ」
紗夜の口元が、少しだけ緩んだ。
扉の向こうの暗さが、ほんの少し薄く見えた。
「……また、夜に」
「はい。また、夜に」
扉が閉まる。
けれど閉まった音は、昨日より少しだけ柔らかかった。
外の空気は冷たく澄み、遠い道路が「しゃあ…」と流れている。
曜はその音を聞きながら思う。
昼は、まだ遠い。
でも夜に、鍵の外で待てる場所ができた。
それは迷路の中に一本だけ引かれた、帰り道の線みたいだった。
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