◆漆黒の紳士の涙 ①静かな出会い
彼との出会いは、25年たってもまだ鮮明に
覚えている。
格安航空券を扱う旅行会社に務めて2年近く。
形のない「旅」を売るこの仕事は、
思っていた以上に難しい。
規定や税金、国ごとに異なるルールは絶えず
更新され、そのどれか一つでも取りこぼせば、
お客様の旅は簡単に崩れてしまうからだ。
朝礼で共有される情報を
必死に頭へ詰め込みながら、
カウンターに立つ。
数字を追い、間違えないことに神経を
張りつめる毎日だった。
それでも、嫌いではなかった。
人と話すことに苦手意識はあったが、
留学で覚えた拙い英語と、
好きだった地理が、ようやくひとつの仕事になっていたからだ。
少なくとも私は、この仕事をそれなりに
こなせていると思っていた。
2001年9月のアメリカ同時多発テロ以降、
渡航のルールは一気に厳しくなっていた。
経由地ひとつで必要になるビザ、
細分化される税金、増え続ける注意事項。
その重さは、日を追うごとに静かに私の中へ積もっていった。
そんなある日だった。
開店準備を終え、自分のデスクで
予約状況を確認していると、
ひとりの男性が入店してきた。
ふと目が合い、私は反射的に声をかけていた。
「Hi, may I help you?」
彼は静かに頷き、
カウンターの椅子に腰を下ろした。
背が高く、無駄のない体つき。
短く整えられた髪に、口ひげ。
年齢は五十歳手前だろうか。
落ち着いた佇まいの奥に、
言葉にしづらい影が差していた。
濃い青のような、重さを含んだ空気。
ふと、どこかで見たことがあると思った。
そうだ、映画『セブン』のモーガン・フリーマンに似ている。
「あー、その、チケットがほしいんだ。
できるだけ早く」
ゆっくりとした英語だった。
強い訛りはあるが、丁寧で、聞き取りやすい。
私は自然と頷きながら、
彼の次の言葉を待った。
「ラゴスだ」
ナイジェリアのラゴス。
当時の池袋には、ナイジェリア人の客が多く訪れていた。
正直に言えば、私は彼らに対して苦手意識を
持っていた。
強い口調や距離の近さに、
何度も戸惑ったことがある。
目の前の彼は、
そのどれにも当てはまらなかった。
視線はまっすぐで、声は穏やかで、
言葉を選ぶように話す。
「実は、入国管理局から……早く日本を離れろと言われたんだ。オーバーステイでね。
できれば、数日以内に」
一瞬だけ言葉を区切り、続ける。
「お金はある。多くはないが……」
漆黒の瞳で私に、
訴えてくるように次々情報を伝えてきた。
私は端末に向き直りながら、
小さく息を整えた。
このパターンは、珍しくない。
いわゆる“ディポーティー”
—自費で出国しなければならない人たちだ。
早めのチケットを取らないと、
私は予約端末をたたいていた。
「KLMオランダ航空で、アムステルダム経由であればお取りできます。」
画面を確認しながら伝えると、
彼の瞳がわずかに明るくなった。
「価格は大体20~23万ほどです、
サーチャージは後で計算しますが・・・」
その言葉が終わる前に、
彼の表情は静かに曇った
「それはむりだ。
私の予算は15万までなんだよ」
私は、最初に予算を確認しなかったことを
後悔した。
けれど現実として、
この条件でチケットを探すのは厳しい。
まして彼は出国期限が迫っている。
祈るような気持ちで、端末を叩く。
エジプト航空、カイロ経由。最も安いルート。
—やはり、空席はない
「申し訳ありません。
ご予算に近いエジプト航空ですが、
現在は満席です」
何度も繰り返してきた言葉だったが、
その日は少しだけ重かった。
「……そうか。何とかならないだろうか。明日には出出たいんだ。
女友達の家にいるが、これ以上迷惑はかけられない。
彼女は……既婚者なんだ」
言葉を選ぶように、静かに続ける。
私は、もう一度端末を見つめた。
条件を変え、ルートを変え、何度も検索する。だが結果は変わらない。
そのとき、ひとつの案が頭をよぎった。
エジプト航空のキャンセル待ち。
席が出なければ費用は発生しない。
確実ではない。
でも、今の彼にとっては、
唯一の“可能性”だった。
判断に迷い、私は館林先輩のもとへ向かった。
視線だけで状況を察していたのか、
先輩は端末を操作しながら言った。
「とりあえず、キャンセル待ちに載せよう」
私はカウンターに戻り、申込書を差し出した。
「エジプト航空、明後日の便でキャンセル待ちをお入れします。空席が出た場合のみ
発券となります」
彼の顔がわずかに明るくなる。
「ただし、デポジットとして2万円をお預かりします」
その一言で、再び表情が曇った。
それでも彼は、ゆっくりとペンを取り、
名前を書いた。
サミュエル・アデイェミ。
「ありがとう。これで、帰れるのか?」
「いえ……空席が出た場合に限ります」
私はそう答えながら、
どこかで“助けたつもり”になっていた。
連絡先は、女友達の家の電話番号だった。
彼は携帯を持っていないという。
「席が取れたら、ここに連絡をください。
彼女から私に伝わる」
そう言って、彼は小さく笑った。
「君の名前を教えてくれないか?」
「遥菜です」
彼は何度も礼を言い、
入口でも振り返って手を振った。
その表情は、来店したときよりも
少しだけ軽く見えた。
私は、ひとつ仕事をやり終えたような
気持ちで、席に戻った。
だがそのときの私は、まだ気づかなかった。
自分の判断が、
彼の“明日”を一日ずらしてしまうことを。
🍡つづく🛫💼
昔、旅行会社に勤めていたころのことを書いてみました。
当時の記憶を掘り起こしながら少しずつ
綴っていきます。事実関係や細かい設定は記憶を頼りに少し整えていますが、
あの時の感覚だけは、今も本物のままです。
感想などいただけたら、執筆の大きな励みになります!
お待たせしました✨✨
続きです!
いいなと思ったら応援しよう!
「ちょっと応援してもいいかも」と思ってくださった方へ🍡いただいたチップは、あんこの執筆燃料として大切に使わせていただきます。
