妻たちは今日も共犯者。
プロローグ ――午前二時の修羅場
「はぁ~……」
一馬は深いため息をついた。
昼休み。会社近くの喫煙所。
ベンチに腰掛けた一馬は、まるで人生が終わったような顔をしていた。
「おい、どうした?」
隣でたばこに火をつけた親友の優吾が、煙をくゆらせながら声を掛ける。
「実はさ……」
一馬は力なく笑うと、昨夜の出来事を語り始めた。
***
昨夜。
取引先との飲み会が長引き、一馬が自宅マンションへ戻ったのは午前二時を回っていた。
「飲み過ぎたな……」
ほろ酔い気分でエレベーターを降り、鼻歌まじりに玄関の鍵を開ける。
カチャ。
「ただいま~」
その瞬間だった。
「おかえり。」
妙に静かな声が聞こえた。
一馬は恐る恐る顔を上げる。
リビングへ続く廊下の先。
妻・茉莉が腕を組み、不敵な笑みを浮かべながら仁王立ちしていた。
「……あ。」
酔いが、一瞬で醒める。
背筋を冷たいものが走った。
「あ・な・た?」
その三文字だけで、一馬の本能が危険信号を鳴らす。
「い、今帰りました……」
茉莉はゆっくりと壁掛け時計を見上げた。
「今、何時だと思ってるの?」
「……午前二時、です。」
「そう。時計は読めるんだ。」
「はい……。」
「遅くなるときは連絡してって、前にも言ったよね?」
「……ごめん。」
一馬は素直に頭を下げた。
言い訳はいくらでもあった。
取引先に二次会へ誘われたこと。
上司が帰らなかったこと。
途中でスマホの充電が切れたこと。
でも、どれも茉莉の前では通用しない。
「ねぇ。」
茉莉は一歩近づく。
「あなたは私と仕事、どっちが大事なの?」
「…………。」
一馬の脳内で、警報が鳴り響く。
(来た……!)
この質問に正解はあるのか。
仕事と答えれば夫婦喧嘩。
茉莉と答えれば「じゃあ仕事辞めるの?」と言われそうな気がする。
(どうする……どうする俺……!)
額に汗が滲む。
「そ、それは……」
「それは?」
「…………。」
十秒。
二十秒。
三十秒。
沈黙だけが流れる。
やがて茉莉は大きくため息をついた。
「もういい。」
そう言って踵を返すと、
「お風呂、冷めちゃったから自分で入れ直してね。」
それだけ言い残して寝室へ消えていった。
一馬は玄関に立ち尽くしたまま、小さく肩を落とす。
「……終わった。」
そう呟きながら、静まり返ったリビングを見渡す。
テーブルの上にはラップのかかった夕食。
その横には、一枚の付箋。
『温めて食べてね。お仕事お疲れさま。 茉莉』
一馬は胸が少し痛んだ。
怒っていた。
でも、夕飯はちゃんと用意してくれていた。
「……悪いことしたな。」
そう呟きながら、ラップを外す。
まだほんのり、茉莉の作ったハンバーグの匂いが残っていた。
***
「……ってことがあってさ。」
話を聞き終えた優吾は、眉間にしわを寄せながら煙を吐き出した。
「『私と仕事、どっちが大事?』かぁ……」
「俺、あれ苦手なんだよ。」
「っていうか、そのセリフ、もう死語じゃね?」
「いや、現役だったぞ。」
「マジか。」
二人は顔を見合わせ、苦笑いする。
「優吾んとこは?」
「うちはないな。」
「いいなぁ。」
「里香は俺の仕事を理解してくれてるから。」
優吾はどこか誇らしげに胸を張った。
一馬は心底うらやましそうにため息をつく。
「いい奥さんだよなぁ。」
「だろ?」
二人は知らない。
本当に、何も知らない。
その頃――。
駅前の小さなカフェ。
窓際の席で、茉莉と里香は向かい合って座っていた。
「昨日はどうだった?」
里香がカフェラテをひと口飲みながら尋ねる。
茉莉は苦笑しながら肩をすくめた。
「午前二時に帰ってきたわ。」
「あらあら。」
「しかも連絡なし。」
「それは重症ね。」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
「やっぱり始めましょう。」
茉莉が静かに言う。
里香もいたずらっぽく微笑み、コーヒーカップを持ち上げた。
「ええ。怒るだけじゃ変わらないもの。」
カチン。
小さくカップが触れ合う。
「ダメ夫矯正計画、スタート。」
その笑顔の裏で、二人の可愛い妻による極秘プロジェクトが、静かに幕を開けた。
もちろん――当の夫たちは、まだ何ひとつ気づいていない。
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