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名前のない労働 ―見えない価値の行方―

気づかないまま、支えられている世界があった。

家の中は、いつも誰かの手が動いていた。

それを仕事と呼ぶ者は、ほとんどいなかった。

けれど、その静かな連なりが止まったとき、初めて人は気づくのだ。

自分が、何に支えられていたのかを。


第1章 見えない場所の仕事

「家事育児は立派な労働だぞ!」

修二の声が、食卓に落ちた。

中学二年のなぎさは、箸を止めたまま視線をそらす。反発というより、面倒くささに近い沈黙だった。父の言葉は正しい、ということは分かっている。分かっているからこそ、いちいち真正面から受け止めるのが億劫だった。

「……別に、そこまで言ってないけど」

小さく吐き出すように言う。

修二は眉をひそめたまま、続けようとして、やめた。代わりに、ゆっくりと息を吐く。その動作ひとつで、場の空気が少しだけ柔らかくなるのが分かるのは、理沙子だけだった。

理沙子は、テーブルの端で手を止めたまま、二人の間を見ていた。

張り詰めた空気は、いつも突然やってくる。そして、どちらかが折れるか、話題が逸れるまで居座る。

「なぎさ、言い方があるでしょ」

理沙子が静かに言うと、なぎさはようやく彼女を見た。

その視線に、わずかな冷たさが混じる。

「……別にさ、事実じゃん」

短い沈黙。

理沙子の胸の奥で、何かが小さく沈んだ。

事実、という言葉は、時々刃になる。特に、まだ削られていない言葉ほど鋭い。

修二が間に入ろうとしたその時、なぎさは立ち上がった。

「俺、もういいわ」

椅子がわずかに音を立てる。

「どこ行くの」

理沙子の声は、止めるというより確認だった。

「塾。……その後は友達の家に寄るだけ」

そう言って、なぎさは玄関へ向かった。

その背中は、家の中よりも外の空気の方が自分に合っていると言っているようだった。

玄関の扉が閉まると、食卓には再び静けさが戻る。

修二はため息をつきながら、箸を取り直した。

「悪気はないんだよ、あいつ」

「分かってるわよ」

理沙子はそう答えながらも、手元のご飯に視線を落としたまま動けなかった。

“分かっている”という言葉ほど、曖昧なものはない。

どこまで理解していて、どこからが理解していないのか。その境界は、いつもぼやけている。

そのとき、ダイニングの隅で小さな声がした。

「お母さん、大丈夫?」

茉凛だった。

まだ小学生の彼女は、箸を置いたまま理沙子を見ている。その目は、場の空気を敏感に読み取っているのに、まだ割り切ることを知らない。

理沙子は無理に笑った。

「大丈夫よ。ちょっと言い合いになっただけ」

「でも、お兄ちゃん、ひどいよね」

茉凛の声には、怒りというより戸惑いがあった。

修二が軽く咳をして言う。

「なぎさも、まだ自分の言葉を整理できてないだけだ」

その言い方は、責めていないようでいて、どこかで“成長途中”という枠に収めていた。

理沙子は、その言葉に小さくうなずくしかできなかった。

その夜、家の明かりが少しずつ落ちていく。

食器を洗いながら、理沙子はシンクに流れる水をぼんやりと見ていた。

今日一日、特別なことは何もなかったはずだ。

朝起きて、朝食を作り、洗濯を回し、買い物をして、夕食を作る。

その合間に、学校から帰ってくる茉凛の宿題を見て、なぎさの無言に気を配り、修二の帰宅時間に合わせて温かいものを用意する。

どれも“誰かに見せるため”ではない。

けれど、確かに時間は使われている。

水の音が止まり、最後の皿を拭き終えたとき、リビングからテレビの音がかすかに聞こえた。

修二がニュースを見ている。

「共働き世帯が過去最多に――」

アナウンサーの声が、淡々と数字を並べる。

理沙子は手を止めた。

“共働き”。

その言葉を、もう自分は持っていない。

視線を少しだけ上げると、茉凛がソファでノートを広げているのが見えた。その隣で修二が、何気なく宿題を覗き込んでいる。

そこには、理沙子の知らない別の時間の流れがあった。

必要とされる場面と、されない場面。

名前のつく仕事と、つかない仕事。

同じ一日なのに、何かが違う。

理沙子は、濡れた手をエプロンで拭きながら、小さく息を吐いた。

そのとき、スマートフォンが振動した。

画面には、なぎさの名前。

短いメッセージ。

『今日、遅くなる』

たったそれだけ。

理由も、場所も、感情もない文章。

理沙子はしばらく画面を見つめたあと、既読をつけた。

そして、何も返さなかった。

キッチンの明かりだけが、まだ静かに灯っていた。

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