『もう解散したのだから政策を』──その一言が壊したもの
今日もテレビでは、衆議院議員選挙の話題が繰り返し流れている。
議席予測、政党の勢い、誰が有利か不利か。画面の多くは、選挙を「勝ち負けのイベント」として消費している。
そのなかで、ひとつ気になるやり取りがあった。
あるコメンテーターが、今回の解散についての高市総理の「高市に政権を託すのか?」という解散理由は、
「大統領選挙ではないのだから、これは議会制民主主義の破壊ではないか」
と発言したのである。
至極まっとうな指摘だ。
日本は議会制民主主義であり、本来、国会は政府を監視し、政府は国会に対して責任を負う。解散権は、その緊張関係のなかで、あくまで例外的に行使されるべき制度である。
ところが、その発言はすぐに遮られた。
最高齢のコメンテーターが
「もう解散したのだから、政策の話をしましょう」
と話題を切り替えてしまったのである。
この瞬間、違和感は確信に変わった。
解散したから、政策論でよいのか
ほんとうに、解散したのだから政策論だけでよいのだろうか。
選挙とは、政策で投票する場であることは確かだ。
しかし、それだけではない。
選挙とは、本来、政府与党がこれまで何をしてきたのかを評価する場でもある。
むしろ議会制民主主義においては、「これまでの政治の通信簿」を国民がつける行為こそが、選挙の核心である。
解散の理由は正当だったのか。
解散の時期は国民のためだったのか。
解散権は、権力者の都合で私物化されていないか。
これらを問わずに、いきなり「政策の話に進もう」という姿勢は、選挙の意味そのものを矮小化している。
それは、「なぜ選挙が行われるのか」という問いを、意図的に棚上げする行為に等しい。
私物化された解散権と、強者有利の政治
解散権は、内閣にのみ与えられた極めて強力な権限である。
だからこそ、厳格な政治的・倫理的制約のもとで行使されるべきだ。
しかし現実にはどうか。
・支持率が高いとき
・野党が混乱しているとき
・経済指標が一時的に良く見えるとき
こうした「勝てるタイミング」で解散が繰り返されてきた。
これは、制度として明らかに 強者有利 である。
与党は解散権を持ち、野党や国民にはその選択権がない。
本来、選挙は権力を制約するための制度であるはずだ。
ところが日本では、選挙が逆に「権力を延命させる装置」として機能してしまっている。
その異常性を指摘せず、
「もう解散したのだから政策論で」
と話を流してしまうことは、結果としてこの構造を追認している。
メディアは誰の側に立っているのか
この発言をしたコメンテーターが、与党寄りとされる放送局の出身であることを考えれば、ある意味「想定内」なのかもしれない。
しかし、それでも悲しい。
なぜなら、メディアの使命は本来、権力の監視にあるからだ。
・解散は妥当だったのか
・議会制民主主義は形骸化していないか
・国民の意思は、制度の中で正しく反映されているか
これらを問い続けることこそが、ジャーナリズムの役割である。
それを
「もう決まったことだから」
「今は政策論を」
という言葉で打ち切る姿勢は、権力にとっては都合がよいが、民主主義にとっては有害である。
劣化しているのは、視聴者ではない
よく「視聴者が難しい話を嫌うから」と言われる。
だが、それは責任転嫁だ。
本当に劣化しているのは、視聴者ではない。
問いを立てる力を失ったメディアとジャーナリズムである。
「なぜ今、解散なのか」
「その判断は誰の利益になるのか」
こうした問いを避け続けるかぎり、政治はますます私物化され、選挙は単なるイベントになる。
メディアが沈黙すれば、民主主義は静かに壊れていく。
今回のやり取りは、その劣化が、もはや隠しきれない段階に来ていることを象徴していたように思う。
