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風を読む者

夜明け前。

港はまだ薄い霧に包まれておりました。

朱印船の帆は静かに畳まれ、船乗りたちは誰一人、慌てる様子がありません。

お万は不思議そうに空を見上げました。

「今日は出港しないのでございますか。」

船長は風を頬で受けながら微笑みます。

「今日は風が若すぎます。」

お万は首をかしげました。

「風にも年があるのでございますか。」

重蔵も真剣な顔で空を見ます。

「私は追い風が好きでございます。」

船乗りたちは思わず吹き出しました。

「重蔵殿、それは皆そうだ。」

港いっぱいに笑い声が広がります。

その時、一人の白髪の老航海士が、お万を手招きしました。

それは角倉了以が雇った、長年海を知り尽くしたフィリピン人の航海士、ドン・ミゲルでございました。

顔は日に焼け、

手には深い皺。

しかし、その目は海のように穏やかでございました。

「お万さん。」

「はい。」

「海を見てごらんなさい。」

お万は水平線へ目を向けます。

波は静か。

空は青く、

何一つ変わった様子はありません。

「とても穏やかでございます。」

ドン・ミゲルは静かに首を振りました。

「本当に見るべきは、波ではありません。」

そう言って、一羽の白い海鳥を指差します。

海鳥は高く舞い上がることなく、

海面近くをゆっくり飛んでおります。

「鳥でございますか。」

「ええ。」

「鳥は、風を知っています。」

次に老人は海へ浮かぶ小さな木片を指差しました。

木片はゆっくりと港の外へ流れております。

「潮でございます。」

「そう。」

「風だけでは船は進みません。」

「はい。」

「潮もまた、船を運ぶ道なのです。」

お万は静かに胸へ刻みました。

その日の午後。

船乗りたちは帆を張る練習を始めました。

お万も手伝います。

「一、二、三!」

皆で綱を引きます。

ところが……

お万が勢いよく引きすぎて、

帆が一気に開きました。

バサーーッ!

その風で、

重蔵の笠が空高く舞い上がります。

「私の笠が旅立ちました!」

港中、大爆笑。

笠はそのまま海へ。

すると、一羽の海鳥が笠へ降り立ち、

まるで船長のように海へ浮かんでおります。

船乗りたちは腹を抱えて笑いました。

「新しい船長が決まったぞ!」

重蔵は肩を落とします。

「私は笠にも負けました。」

夕暮れ。

ようやく風向きが変わりました。

ドン・ミゲルは静かにうなずきます。

「今です。」

船乗りたちは誰一人声を荒げることなく、

息を合わせて帆を張ります。

朱印船は音もなく港を離れ、

風に乗ってゆっくり沖へ進みました。

お万は、その姿を見つめながら申しました。

「風と争わないのでございますね。」

老人は優しく笑いました。

「商いも人生も同じです。」

「はい。」

「風に逆らえば疲れます。

風を読めば、遠くまで行けます。」

その言葉は、お万の胸へ深く刻まれました。

黒猫のお万は船首へ飛び乗り、

夕日に向かって「にゃあ」と一声。

まるで、

「急ぐより、良い風を待とう。」

そう語りかけているようでございました。



その日、お万はまた一つ学んだのでございます。

「賢い者は、力で道を切り開かない。風を読み、潮を読み、人の心を読みながら、最も良い時を待つのである。」

そして、お万は今日も一つ笑い、二つ学び、三つの自然の声に耳を澄ませながら、世界という大海原へ静かに歩みを進めていったのでございました。



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