海へ向かう商人
まだ星が空に残るころ、マニラの港はもう目を覚ましておりました。
船大工が槌を打つ音。
船乗りたちの掛け声。
潮の香り。
お万は少し胸を高鳴らせながら、朱印船の前へ立っております。
サンティアゴが静かに申しました。
「今日からは、商館の中だけではありません。」
「はい。」
「海の上で商いを学びます。」
お万は深く頭を下げました。
「よろしくお願いいたします。」
今日の役目は、積荷の確認でございます。
絹織物が何箱。
砂糖が何樽。
香辛料が何袋。
帳簿と積荷が一致しているか、一つ一つ確かめていきます。
お万は帳簿を胸に抱え、真剣な表情で声を出しました。
「絹織物、二十箱!」
船乗りが答えます。
「二十箱!」
「砂糖、十五樽!」
「十五樽!」
「香辛料、三十袋!」
「三十袋!」
順調そのものでございました。
ところが最後の一箱。
「茶葉、一箱!」
船乗りたちは顔を見合わせます。
「あれ?」
「ないぞ。」
港中が急に静まり返りました。
重蔵は慌てます。
「大変でございます!」
「盗まれたのでございましょうか。」
お万も顔を青くしました。
皆で港中を探し回ります。
倉庫の裏。
船の下。
荷車の陰。
どこにもありません。
その時。
「にゃあ。」
黒猫のお万が、小さな木箱の上へ飛び乗りました。
その木箱には……
『茶』
の文字。
「ありました!」
重蔵が飛び上がります。
ところが番頭は笑いました。
「その箱は最初からそこにありました。」
お万は目を丸くします。
「えっ?」
「帳簿には、積み込み前の場所まで書いてあるのですよ。」
港中が大笑い。
重蔵は肩を落としました。
「私どもだけ、大冒険でございました。」
サンティアゴは優しく申します。
「商人は急いで結論を出しません。」
「はい。」
「まず帳簿を見て、
次に現場を見て、
最後に人へ尋ねます。」
お万は何度もうなずきました。
昼になると、いよいよ積み込みです。
重たい荷物を、船乗りたちが見事な息で運びます。
ところが、お万は気づきました。
「重たい物が下、
軽い物が上でございます。」
船長が笑います。
「その通り。」
「どうしてでございましょう。」
「海は気まぐれだからです。」
「気まぐれ?」
「嵐になれば船は大きく揺れます。」
「はい。」
「重い物が上にあれば、船は倒れてしまう。」
お万は思わず海を見つめました。
「船も人も、土台が大切なのでございますね。」
船長は満足そうにうなずきます。
夕暮れ。
朱印船は静かに港を離れ、湾内をゆっくり一周いたしました。
初めて海から見るマニラの町。
教会の鐘。
市場。
商館。
すべてが夕日に包まれております。
お万は胸の帳簿を抱きしめながら、小さく申しました。
「私は、この町で世界を学んだのでございますね。」
サンティアゴは静かに答えます。
「まだ半分です。」
「えっ?」
「帰国して、その学びを日本で生かして初めて、本当の学びになります。」
お万は静かに空を見上げました。
茜色の空を、一羽の白い海鳥が大きく羽ばたいております。
その姿はまるで、
遠く駿府への道を教えているようでございました。
黒猫のお万は船べりに座り、「にゃあ」と一声。
その鳴き声に、船乗りたちも思わず笑顔になります。
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その日、お万はまた一つ学んだのでございます。
「商いとは、荷物を運ぶことではない。
人の知恵と約束を、安全に未来へ届けることである。」
そして、お万は今日も一つ笑い、二つ学び、三つの国の架け橋となる夢を胸に、静かに海風を受けていたのでございました。

