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第9話 敵

第9話 敵の力を道へ流す

――真正面から受け止めず、危険の向きを変える――

小田原城を囲む豊臣の陣は、日に日に大きくなっていた。

山には旗が並び、海には軍船が浮かぶ。

それでも家康公は、城を攻める準備より、陣の中を行き交う人々を見ていた。

兵だけではない。

米を運ぶ人足。

薪を集める村人。

傷ついた者を運ぶ僧。

商いの機会を求めて集まった商人。

大軍が一か所へ集まれば、戦わなくても道は乱れ、井戸は濁り、食べ物は足りなくなる。

「城が落ちる前に、周りの村が疲れ果ててしまいますね」

アキラが言うと、雨宮先生は静かにうなずいた。

「強い力は、敵だけを傷つけるとは限らぬ。行き場を失えば、弱い者へ流れていく」

その時、坂道の上から大きな荷車が下りてきた。

米俵を高く積みすぎている。

ぬかるみに車輪を取られ、荷車は急に傾いた。

「どけ!」

人足が叫んだ。

道の先には、井戸の水をくむ女たちと子どもがいる。

荷車を押さえようと、二人の侍が正面へ飛び出した。

しかし、米俵を満載した荷車は重い。

押し返せば、侍ごと押しつぶされる。

雨宮先生が素早く前へ出た。

荷車の正面には立たない。

横へ回り込み、長い棒を車輪の脇へ差し込んだ。

「アキラ、右の縄を切れ!」

「はい!」

アキラが荷を縛る縄を一本切ると、上に積まれていた米俵が道の脇へ落ちた。

荷車が少し軽くなる。

雨宮先生は棒を使い、車輪の向きをゆっくり変えた。

荷車は井戸へ向かわず、道端の柔らかな畑へ入って止まった。

米俵はいくつか泥に落ちたが、誰も傷つかなかった。

家康公は、その一部始終を見ていた。

「荷車を止めたのではないな」

雨宮先生は頭を下げた。

「止められぬ力でございました。ゆえに、進む先を変えました」

「それが影武流か」

「はい。敵の力を消そうとすれば、こちらも大きな力を使わねばなりませぬ」

雨宮先生は、泥の中に止まった荷車を指した。

「力には、必ず流れがございます。その流れを見つけ、人のいない場所へ導く。それが影武流の守りにございます」

家康公はしばらく考えていた。

やがて、陣の地図を広げた。

地図の中央には、小田原城が描かれている。

その周りを、豊臣方の大軍が取り囲んでいた。

「この大軍も、荷車と同じかもしれぬ」

家康公が言った。

「戦うために集まった力を、そのままぶつければ、多くの命が失われる」

アキラは地図をのぞき込んだ。

「では、その力をどこへ流すのですか」

家康公は、兵糧を運ぶ道、負傷者を運ぶ道、村人が使う道を指でなぞった。

「兵の道と、民の道を分ける」

すぐに家臣たちが呼ばれた。

兵糧を運ぶ荷車は東の道。

負傷者は寺へ続く西の道。

村人が水をくむ道には兵を入れない。

夜は松明の数で進む道を示す。

道が交わる場所には、案内役を置く。

さらに家康公は命じた。

「農家の井戸を勝手に使うな。軍の水場を別に掘れ」

一人の武将が不満そうに言った。

「戦の最中に、そこまで民へ気を配られるのですか」

家康公は静かに答えた。

「戦が終わった後、荒れた土地を治すのは誰だ」

武将は答えられなかった。

「兵は去る。だが、民はここで暮らし続ける」

その日のうちに、道を示す立て札が置かれた。

荷車の流れが整い、井戸の周りから兵の姿が消えた。

子どもたちは安心して水を運び、村人たちの顔にも少しずつ落ち着きが戻った。

雨宮先生はアキラへ木剣を渡した。

「打ち込んでみよ」

アキラが正面から木剣を振り下ろす。

雨宮先生は受け止めなかった。

半歩だけ横へ動き、木剣の側面へ軽く手を添える。

アキラの剣は先生の体を外れ、地面へ流れた。

「力を奪われた感じがしません」

「奪ってはおらぬ。おぬしの力を、安全な方へ案内しただけじゃ」

黒猫のお万もまねをするように、飛んできた木の葉を前足で横へ払った。

しかし、葉はそのまま家康公の顔に張りついた。

「お万、まだ修行が足りぬな」

家康公が笑うと、お万は何事もなかったように毛づくろいを始めた。

アキラは帳面を開き、新しい言葉を書いた。

『止められない力は、安全な道へ流す』

その時、雨宮先生が突然、森の方へ顔を向けた。

「どうされました」

「先ほどから、誰かがこちらを見ておる」

家康公の家臣たちが刀へ手をかけた。

だが、木々の間には誰も見えない。

地面にも足跡はなかった。

ただ一本の細い枝だけが、風もないのにわずかに揺れている。

雨宮先生は目を細めた。

「わしらが見える危険を流すなら、あの者は、見えぬ危険を先に探す者じゃ」

闇の中で、黒い影が一瞬だけ動いた。

そして次の瞬間には消えていた。

アキラの耳に、低い声だけが届いた。

「正面ばかり見ていては、背後の気配を見失うぞ」

雨宮先生は静かに笑った。

「どうやら、次の先生が近くまで来ておるようじゃな」

小田原の夜に、梟の声が響いた。

戦わずに力を流す影武流。

その教えの先には、姿を見せずに危険を見つける忍の道が待っていた。

次回予告

第10話 見えない一人を探せ

小田原の陣から、兵糧が少しずつ消えていく。

足跡もなく、見張りも気づかない。

雨宮先生とアキラは影武流の感覚を使い、姿なき侵入者を追う。

そして暗闇の中で、忍の継承者・習志野先生が初めて姿を現す。

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