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寺田ヒロオ「私の漫画史」4)「漫画少年」

 「漫画少年」が、どんなに良心的で面白く、当時の少年読者に、どれほど大きな感動と影響を与えたか。
 それに比べ、いま洪水のように生産されている少年雑誌が、いかに愚劣な代物で、子供たちを毒し続けてきたか。
 「漫画少年」の原本が、ほとんど散逸消滅しかかっている現在、当時の愛読者や投稿家から、芸術家、教育関係者等数多くの人材が志の高い活動をしているという、間接的な証明か、たとえ不備でもその資料を集大成した「漫画少年・史」で、推測していただくしか方法がないのだが、私は「漫画少年」そのものの復刻の夢を捨ててはいない。

寺田ヒロオ「私の漫画史」4

1981(昭和56)年『「漫画少年」史』(湘南出版社)を刊行した寺田ヒロオ。
この新聞連載と同じ1983(昭和58)年(7月?)に『復刻版 漫画少年』全7巻セット(国書刊行会)を刊行する。

子供たちのために、良い漫画をかくという私本来の使命とともに、「漫画少年」をなんとか復刻し、志の低い人たちによってつくられているいまの子供雑誌がすべてだと思いこんでいる不幸な青少年に、過去にはこんな素晴らしい雑誌があったのだ、近い将来、きみたちが「漫画少年」を継ぎ、それを超えるものをつくってくれと、呼びかけることを宿願にしている。

寺田ヒロオ「私の漫画史」4

 「漫画少年」が最も充実した時期は、創刊二年目の昭和二十四年から二十五年の約二年間であったろう。
 創刊以来、私が最も敬愛した「バット君」の井上一雄が、二十四年三月号を最後に、病を得て急逝したことは、惜しみてもあまりあり、加藤謙一さんにとっても、最大の痛手だったと思われるが、原一司の「カンラカラ兵衛」、島田啓三の「だんご仙人」が健在で、山川惣治の絵物語、下村湖人・佐藤紅緑・千葉省三の連載小説、サトーハチローの少年詩、椛島勝一のペン画、中野正治の絵とき等、内容は豊富であり、ページ数もふえ続けていた。
 事実、書店に出るとすぐ売り切れ、部数を増やしたくても紙が手に入らず、取次店の人が加藤さん宅に押しかけ、奥様が頭を下げ続けていたという。

寺田ヒロオ「私の漫画史」4
原一司「カンラカラ兵衛」

大資本の出版社が次々と雑誌を出し、別冊フロク競争に突入すると、「漫画少年」は急激に経営が悪化し、二十五年十月号から始まった手塚治虫さんの、東京進出第一弾「ジャングル大帝」の連載が、絶大な人気を得たにもかかわらず、部数は減少し続けた。
 加藤謙一さんの長男宏泰さんが後を継ぎ、天才的な編集感覚で、何度か話題を集める号もあったが、手塚さん以外の有能な漫画家が、小部数と安い稿料にいやけがさして「漫画少年」を離れて行き、私が、投稿漫画からようやく漫画家になる決意を固めて上京した昭和二十八年九月には、もう、いつ倒産してもおかしくない状態だったという。

寺田ヒロオ「私の漫画史」4

学童社の場所は手塚治虫オフィシャルサイトのこちらに詳しく書かれている。
千代田区神田淡路町の加藤謙一自宅→文京区本郷へ移転、その後1951(昭和26)年に飯田橋の近くの満州会館(現在の日中友好会館)へ移転。
寺田ヒロオや藤子不二雄たちが通ったのはこの満州会館にあった頃。
売れ行き不振な「漫画少年」の返本が山と積まれていたという。

「まんが道」青雲編
「まんが道」青雲編で描かれた加藤宏泰


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