寺田ヒロオ「私の漫画史」15)四畳半
夏は西日で焼かれ、冬は隙(すき)間風に凍える、「トキワ荘」二階二十二号室は、縁(へり)なし畳の"独房"に似ていた。
事実、お金のない私は、囚人のごとく四畳半にこもり、「漫画少年」向けの原稿を、かきにかいた。
外出は、学童社への往復と、近所の買い物か浴場ぐらいのものだった。

この見取り図で「安孫子素雄」となっている部屋(14号室)が、元々は手塚治虫その後に藤子不二雄の二人で住んだ部屋。
1年ほどのちに藤子・F(藤本 弘)だけ隣の15号室に移る。
寺田の部屋(22号室)が「西日に焼かれる」ということは、手塚や藤子不二雄が住んだ向かい側は東向きで日当たりの良い部屋だったのだろうか。
昭和二十八年九月八日に上京。とりあえず高田馬場の伯父宅に居候、同月二十一日に別の親戚(せき)の世話で芝三田綱町の下宿に割り込ませてもらったが、期限付きで、敷金やら家賃やらを無理算段して、十二月三十一日にようやく転がり込んだ「トキワ荘」であった。
私は内気で気兼ねがひどい。伯父宅でも下宿でも、とてもよくしてもらっていたのに、身が縮む思いの毎日で、やっと独りになれたこの四畳半は、広々とした私だけの解放区であった。
上京以来、誤算と失敗の連続で、自分の甘さと愚かさに愛想がつきかけており、"好きな道なら貧乏でも"と覚悟をしてきたくせに、お金がないことの不安が孤独感をつのらせ、ただでさえ小心な私を痛めつけたが、人に迷惑をかけることを極度に恥じる気持ちが、それを一日延ばしに耐えさせた。
外へ出れば必ず失敗をするし、お金がかかる。とにかく鍵(かぎ)をかけてヤドカリのようにこもり、「漫画少年」の原稿をかいておれば、逃避できる…と思った。
だが、それも誤算の一つであった。
私が出なくても、外からいろんな人が入り込んできた。
漫画家の卵たちが、「漫画少年」で知り、学童社で聞いて、訪れて来たのである。
人との接触が苦手な私は、自分から人をたずねる勇気は、よほどの義務か名目がなければ湧(わ)いてこないが、人は、トイレのドアをノックするほどの気軽さで、私の部屋の扉を叩(たた)いた。来られてみれば私には、とまどいながらも精いっぱいの応接をするしか手がないのだ。よほどのことがない限り、客が腰を上げるまでは、何時間でも向かい合った。原稿をかくより余程疲れ、客が帰るとグッタリして、何もする気がなくなる事が多かった。
優秀な人に啓発されたり、打ちひしがれたり。
後年、有名になった人たちから、「寺田さんの部屋へお邪魔したことがあります」と声をかけられ、思い出せなくて恐縮するほど、この「トキワ荘」の四畳半に足を踏み入れた人の数は、多かったのである。
私の魅力ではない。「漫画少年」は、それほど注目されていたのだ。
こんな私の城に、一週間以上も泊まり込むという、来訪者のスペシャル版が現れた。
"藤子不二雄"の片割れ、安孫子素雄くんである。
寺田22歳、藤子不二雄20歳頃。
藤子不二雄はまだ地元である富山にいたのだが、この年の8月、手塚治虫の紹介で描き下ろしの単行本「UTOPIA 最後の世界大戦」(鶴書房)を刊行している(このときの筆名は足塚不二雄)。
いくつかの漫画誌から依頼もきて仕事をこなし、既に立派な新人漫画家と言える状況だった。
