寺田ヒロオ「私の漫画史」22)小学館
気心の知れた編集者と軽くイッパイやりながら、たあいないことをだべって笑い合い、仕事の疲れストレスを解消して、改めて仕事に取り組もうと、気軽に飛び出して来た私は、全く思わぬ成り行きに、あわててしまった。
タクシーに押し込まれ、小学館に向かいながら、私を誘い出した堧水尾(たみお)さんに、「池袋でちょっと話をするだけと思い、不精ひげのふだん着で来たのに、困りますよ」と愚痴ったが、「かまいません、社長は気さくな人ですから!」と快活に言い切って、すましている。
いくら気さくな人だといわれても、相手は、小学館という大会社の社長であり、私は、「小学一年生」に少し仕事をさせてもらったが、まだ一度も連載していない、駆け出しである。どう考えても、初対面の身なりとしては、ひどすぎるではないか。
私は自分の軽率さを悔い、電話で説明をしてくれなかった堧水尾さんを恨み、タクシーの座席に、からだが重く沈み込んでいくような気持ちになり、神田一ツ橋の小学館に着くころには、身長が十センチも縮み、応接室で待つあいだに、二十センチは小さくなったと思うのである。
練馬の借家から呼び出され池袋へ、池袋からタクシーで神保町の小学館へ。
小学館社長の相賀(おうが)徹夫は創業者である父親の跡を継いだ二代目社長。この時はまだ30代のはずだ(寺田の方もまだ27歳)。
ほどなくドアが開き、おそろしく活気のある一団がどっと入ってきて、私を取り囲んだ。
想像以上に若くてスマートな社長の相賀徹夫さん、堂々たる体格で自信にあふれた編集長の豊田亀市さん、福徳円満な梶谷信男さん、そして、同道した張り切りマンの堧水尾道雄さんの、四人である。
簡単なあいさつが済んだ途端に、豊田さんが口火を切った。
「新しい少年週刊誌に、小学館は、社運を賭(か)けています!巻頭が手塚治虫さんの科学冒険漫画十五ページ、巻末は寺田さんの野球漫画八ページ、この二本を柱にしますので、よろしくお願いします!」
大野茂『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』(光文社新書)によると、編集長の豊田亀市(きいち)は何よりもまず手塚治虫を押さえる、何が何でも描いてもらうために他の連載全て打ち切って独占契約してもらう、そのために莫大なギャラを用意したという。
だが手塚は独占契約には了承せず、他の月刊連載は続けたまま週刊少年サンデーに描くと返事をした。
そこまで手塚にこだわっておきながら、実は豊田はなかなかに舐めた発言をしている。
豊田は、自ら手塚治虫の獲得に乗り出した。意外な事実を含めて、こう証言する。
「当時は、もう正直に言うとね、手塚も峠を越しはじめていたの。ベスト5から落ちることはないけれども、ベスト3には手塚は入らなくなっていました。しかし、手塚というのは神様で、手塚信仰って昔も今もあるんだよね。だから手塚をサンデーに入れないと、ブランドのあるものを作れませんよ。もう当然そうですね。それに人気がちょっと落ちたといっても、ある程度の人気を保ってずっと行くのね、天才だから、あの人は」
この頃までの手塚のヒット作は『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『鉄腕アトム』。
これよりも後に『海のトリトン』『ブッダ』『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』等々たくさんの名作を残す手塚治虫を“峠を越しはじめ”と発言。
『サンデーとマガジン』は2009年発行だから2008年頃の発言だろうか。
豊田本人がもう漫画編集の第一線から退いて、長年興味も関心もなかったからなのだろうか、何ともピントのズレた発言だ。
何はともあれ手塚を獲得できたため続いて寺田にオファー、そこからの紹介で藤子不二雄へとつながる。
私は、漫画の神様と信奉する手塚さんと並べて扱ってもらったことも嬉(うれ)しかったが、何よりも、若々しく率直で、社長を先頭に一丸となって、老舗(しにせ)の講談社に追いつき追いこせと意気込む、この小学館の活気あるスタッフとともに、新しい雑誌づくりをしたくてたまらなくなった。
責任は重いし、その仕事量をこなせるかどうか不安でもあったが、やりがいがあるし、やりとげられたら素晴らしいと思ったのである。
私は、その場で決心した。
