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寺田ヒロオ「私の漫画史」25)七対一

 「少年サンデー」の創刊が、五月から三月に早まったため、七本の月刊誌連載を抱えたままで、「スボーツマン金太郎」を始めてしまった。
 早く月刊誌の仕事をへらさなければと、担当者と話し合いを重ねたが、「他誌も全部同時にやめるなら、いいですよ」と言われては、どうにもならない。
 一流は別として、私程度の漫画家はいくらでもかわりがいるから、出版社をおこらせては後が不安だが、八方美人はあきらめ、自分の考えを押し通すことにした。
 物語が終わりに近いものは、人気があっても引き延ばさず、自然な形で完結させよう。
 「スポーツマン佐助」(野球少年・二十一回)と、「ホープくん」(ぼくら・十七回)を五月号で、「ラッキーちゃん」(たのしい四年生・二十四回)を九月号で終わる。
 「背番号O」(野球少年)は一番古い連載だが、最も私の性格に合った作品だし、「漫画少年」なきあとの私のホームグラウンドの仕事だから、絶対にやめたくない。
 「もうれつ先生」(少年)はTVドラマ化が進行中だし、「五九郎さん」(おもしろブック)と「わんばく記者」(少年画報)は、連載を始めたばかりで、すぐにはやめにくい。
 「スポーツマン金太郎」は、秋の日本シリーズで、金太郎と桃太郎を立派に対決させるまでは、絶対に面白くかきつづけなければならぬ。つまらないから人気がないからと、途中で打ち切られてはみじめだし、私の将来も危ないと、必死であった。

寺田ヒロオ「私の漫画史」25

『野球少年』の『スポーツマン佐助』終了とはいえ、同誌に引き続き『背番号0』を連載中。
しかし、『ホープくん』の『ぼくら』と『ラッキーちゃん』の『たのしい四年生』はどちらも講談社。
『週刊少年マガジン』に連載断られただけでなく、ライバル誌『週刊少年サンデー』の連載のせいで二本も連載終了。講談社にとっては何ともやるせない。

『ホープくん』(「ぼくら」1958.1月号)
『もうれつ先生』(「少年」1958.8月号)

 幸い、「スポーツマン金太郎」の出だしは、好評であった。
 上昇気流のプロ野球人気に乗ったのであろうか。
 しかし、「私の漫画史」的に分析をすれば、人気の最大原因は、「少年サンデー」創刊号から連載されたからである。
 謙遜(けんそん)ではない。
 「スポーツマン金太郎」が、それまでかいてきた月刊誌七本の連載漫画よりも、きわだって傑作だったとは思えない。
 それなのに、その七本のどれよりも、いや、七本を束にしたよりも人気が高まったのは、小学館が社運を賭(か)けて「少年サンデー」の宣伝・販売に力をそそいだためである。
 それまで月刊誌に七本も連載をしていた私が、「子供漫画をかいている寺田ヒロオです」とあいさつをしても、ほとんどの人が知らないという顔をしたのに、「ああ、あの少年サンデーの!」とか「スポ金ですね!」と言ってもらえるようになったのである。

 ホップ・ステップ・ジャンプ。
 「漫画少年」「野球少年」「少年サンデー」と三段とびした私は、やっと一人前の漫画家になれたと、実感したのであった。

寺田ヒロオ「私の漫画史」25

そうは言っても、創刊当時の『週刊少年サンデー』で『スポ金』が一番人気があったのはどうやら紛れもない事実だ。
だからこそサンデー編集部も約五年もの間連載を続けさせたのだろう(一番期待を寄せていた手塚治虫『スリル博士』は約半年で連載終了となっている)。

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