寺田ヒロオ「私の漫画史」16)安孫子素雄くん
それは昭和二十九年二月二日、突然やってきた。
ノックの音で、部屋の引き戸を開けると、「漫画少年」の加藤宏泰さんと、手塚治虫さんが、学生服の青年と立っていた。
「この人は、富山県高岡市の安孫子素雄くんです。藤本弘くんと二人で、"足塚不二雄"のペンネームで、大阪の『毎日小学生新聞』や『冒険王』『漫画王』(秋田書店)に漫画をかいている有望な新人で、こんど漫画家になるための下準備に上京したのだが、手塚さんが忙しくて、ゆっくり相談できない。手塚さんはこれから仕事でカンヅメになるので、一晩だけ泊めてやって下さい」
私は人との付き合いが、下手な漫画よりもっと下手で、四畳半に初対面の人を泊めるなんてとんでもないことなのだが、尊敬する手塚さんと、世話になっている加藤さんに頼まれては、「いや」とは言えない。「はいっ、どうぞ!」と招じ入れたが、二人きりで向かい合った時は、悲愴(そう)であった。
何を話したらいいか、食事や寝具はどうしようか。急ぎの仕事があったかどうか、もう忘れてしまったが、とにかく安孫子くんの接待に動転してしまったのである。
ところが、安孫子くんは、泊まり上手だった。適当に遠慮をしながら、私が出したうまくもない茶菓や料理をたべ、やおら旅行鞄(かばん)から、自分の作品を集めたスクラッププックを取り出して見せた。
安孫子くんの作品群に、私は驚嘆した。
漫画はもちろん素晴らしかったが、安孫子くんが勤務する「富山新聞」に連載した名士の訪問記と似顔、文学や映画の造詣(けい)の深さに、敬服してしまったのである。
翌日、手塚さんは戻らない。
その翌日も…。
安孫子くんは、両国の親戚(せき)の家や、出版社や、映画館へ行ったりして、手塚さんが戻るのを待ち続けたが、とうとうあきらめ、十二日に高岡へ帰って行った。
その後も一~二度上京して立ち寄ったが、六月二十九日、コンビの藤本くんとともに、"藤子不二雄"として、本格的に東京へ進出して来た。
それから三十年間、私が安孫子くんから直接間接に受けた影響や恩恵は甚大で、彼があの日私の部屋に泊まらなかったら、私の漫画史が半分消えるであろうと思うほどの、運命的な出会いであった。
この新聞連載の2年前(昭和56年)に『トキワ荘青春日記』で藤子不二雄と寺田は対談しているが、その時藤子不二雄A(安孫子)は当時の話をこのように語っている。
安孫子 寺さんおとくいのキャベツ炒めとカレーライスをごちそうになって。なんせ、毎日その二つのくり返しじゃなかったかな?(笑い)
(中略)
それで一週間泊まっているうちにうちとけて、漫画のグループを作ろうという話になって……。
安孫子は、「新漫画党」結成していた頃に6号だけ発行された「新漫画党 機関紙」でも、この時の思い出を書き記している。
「この男はなかなか腹のできた人物だな。毎日よくもいやな顔をしないで俺につきあってくれている。仕事も休みっぱなしで、こっちの気焔に一々相手になってくれるし、人ごみアレルギーなのにアスピリンをのみのみ映画館へ案内してくれる。食事時ともなれば、せっせとキャベツをいため、味のないカレーライスを精魂こめて製作してくれる。
人みしりのする俺が、初めてあった男の処に六日間も居心地よく居続けたのは、決して俺が図々しい訳じゃなくって、それだけこの部屋の主人に包容力があるって事だな。決して俺が図々しい訳じゃない」と安孫子が安心した時、眠っていたと思った寺田がパッと目を開いていった。「どうだ、俺達で新しいグループを作ろう」

お互いに「人見知りする、人付き合いが苦手」と言ってるが、気が合ったのはやはり漫画という共通の話題があったからなのだろう。
中川右介『手塚治虫とトキワ荘』によると、おそらくこのトキワ荘に一週間滞在した後に、安孫子は手塚治虫『ジャングル大帝』(「漫画少年」)最終回の原稿を手伝ったのだろうという。
寺田は手伝いを頼まれることもなかったので、そういうことがあったことすら知らなかったのかもしれない。
