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寺田ヒロオ「私の漫画史」19)背番号0

 "はまる"とか"はまり役"という言葉がある。ぴったり当てはまる、その人に最も適当な役割という意味であろう。
 昭和三十一年新年号から「野球少年」に連載した「背番号0」は、結果的に、そうなった。
 初めは四ページだったから、ギャグ漫画に近い軽い内容で、自分ではそれほどうまくかけたとは思えなかったのだが、読者の反応が良いというので、七月号には別冊フロクになった。B7判百二十八ページといえば、豆本に近いスタイルだが、本誌の大きさになおせば三十二ページ分である。八月号は本誌で、二十九ページになった。
 こうなると、四ページの漫画と違い、ギャグだけではもたず、当然ストーリー(物語)性が強くなる。その方が、私には合ったようだ。

寺田ヒロオ「私の漫画史」19

連載第1話は、野球少年が主人公とはいえ、内容は「漫画少年」に掲載されていたようなほのぼのとした日常漫画だ。

寺田ヒロオ全集3『背番号0 野球少年版 前編 上』
寺田ヒロオ全集3『背番号0 野球少年版 前編 上』

だが、『バット君』が人気だったように、『背番号0』も、等身大の野球少年の日常漫画というのがウケが良かったのだろう。

 私の漫画は、ギャグが弱いし、笑いが少ない。
 話の展開で、微笑をさそったり、しんみりさせたり、ほっとさせたりする内容の方が、効果があったし、画調にも合ったのである。
 これは、そういう作品をかいてみて、初めて気がついたことであり、いろいろな機会に手探りで当たってみて、自分の特性や力量がわかっていくのであろう。
 十一月号からは、二~三カ月ごとにB6判百二十八ページ(本誌の量では六十四ページ分)の別冊になった。
 他方、「小学一年生」の十月号から「イワンのばか」「ニルスの冒険」等の世界名作を漫画化する別冊の仕事がつづき、忙しくはなったが、収入もふえた。
 生まれて初めて、一番安い二眼レフカメラを買い、五月に清里高原へ、一週間のひとり旅という、ぜいたくをした。
 七月には、ちょうど上京していた石森章太郎くんのお姉さんを誘い、「トキワ荘」の仲間(藤子・石森・赤塚・森安)と、バンガローで一泊する富士五湖めぐりをしたのである。

寺田ヒロオ「私の漫画史」19
富士五湖めぐりのときの写真か(梶井純『トキワ荘の時代』掲載)

 仕事も生活も楽しく、わずかな金額ではあるが、仲間たちの急場に間に合わせる余力もでき、この三十一年から三十二年にかけてが、私の人生で、特に明るい時期であったろう。
 「野球少年」の三十二年四月号に、特別読み切り別冊B6判百二十八ページの「まぼろし球場」を書き下ろしたが、これが自分でも、どうしてこんなに面白いものをかけたかと、不思議に思うくらいの、野球推理の傑作で、(今ではもうだれもこの本を持っていないと思うので、大ボラを吹いておく)終わりの方が締め切りギリギリになり、「トキワ荘」の仲間が総がかりで手伝ってくれて、ようやく間に合った。
 後で見ると、私の画風とは違う線が入り交じっていておかしいのだが、私にとっては、最も良き時代の、楽しく嬉(うれ)しい記念品になったのである。

寺田ヒロオ「私の漫画史」19

藤子不二雄『トキワ荘青春日記』では、出版社に前借りすることができず寺田に借金を頼んだり、逆に寺田の方から「もしお金困っていたらいつでも言ってよ」と声を掛けられたりする姿が描かれている。

『まぼろし球場』は梶井純『トキワ荘の時代』によると、“石森章太郎の手を借りていた”とあるが、最終ページには新漫画党のマークがあり、寺田の言葉通り他のメンバーも含めた総がかりだったのかもしれない。

寺田ヒロオ『まぼろし球場 復刻版』
寺田ヒロオ『まぼろし球場 復刻版』

この時寺田はまだトキワ荘にいたので、ギリギリになって皆に手伝ってもらうことができたのだが、この年の6月にとうとうトキワ荘を出ていく


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