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寺田ヒロオ「私の漫画史」21)少年週刊誌

 週刊誌の連載一本は、月刊誌の四~五本分に相当する。
 月刊誌の仕事だけでパンク寸前の私が、週刊誌の連載に手を出すことは、不可能に近い状態であった。
 しかし、日本で最初の少年週刊誌誕生という歴史的な瞬間に、私は漫画家として、ぜひとも参加したかった。
 月刊誌全部に不義理をし、連載を中止してでも、…そんな無茶ができないことはわかっているが…創刊号から、連載をかきたいと思ったのである。
 では、講談社と小学館の、どちらの週刊誌にかくか。
 当時の私は、講談社の月刊二誌に連載を持っており、しかも、昭和六年生まれの私は、幼少年期を講談社文化で育てられ、「漫画少年」も、元講談社の加藤謙一さんの産物である。
 それにひきかえ、小学館の看板である学習雑誌には、私は無縁の育ち方をしたし、連載もしていない。

寺田ヒロオ「私の漫画史」21

講談社の月刊二誌に連載”というのは『ラッキーちゃん』(「たのしい三年生」)、『ホープくん』(「ぼくら」)のこと。

『ラッキーちゃん』(「たのしい三年生」1958.6月号)

 講談社から最初の打診に来た人は、「二ページか四ページで、題材は自由、気楽にかいて下さい」といった。
 もちろん即答できる状態ではなかったが、その程度ならば、いまの月刊誌の仕事の合間に、かけるかもしれない。
 同時に持ち込まれた小学館の方は「週刊誌を出しますからよろしく」という程度で、具体的な話は無かった。
 だから当初、私の心は、講談社に傾いていたのである。
 どちらにかくにしても、やはり月刊誌の仕事量は減らしておかなければいけなけい。目前の仕事を消化しながら、頭はもう、週刊誌に飛んでいた。
 最初の打診から一週間程した二月九日、小学館の堧水尾(たみお)道雄さんから「いま池袋にいるのですが、ちょっと出てこられませんか」と、さりげない電話がかかった。

寺田ヒロオ「私の漫画史」21

三十四年二月初め、講談社と小学館から、日本で初めての少年週刊誌が出ることになり、ほとんど同時に両方から、連載の打診があった。

藤子不二雄(A)『トキワ荘青春日記』には、2月11日に突然小学館記者がやってきたとある(最初の依頼では長谷川公之原案『警視庁物語』の予定だった)。
おそらく二人その場で相談してOKの返事をしたのだろう、講談社から依頼が来たのは2日後の2月13日だったが、先に来た小学館の方をすでに引き受けてしまったため講談社は断った。

大野茂『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』(光文社新書)によると、寺田から“トキワ荘に住むメンバー、とりわけ藤子不二雄を強力に推薦”されたため、寺田のあと藤子不二雄に依頼に向かったという。
だが、まだ年若い藤子不二雄に全幅の信頼を寄せてはおらず、原案付きで依頼するかたちになった。

 堧水尾さんは、豊田亀市編集長がひきいる「小学一年生」の精鋭で、昭和三十年夏の、私の同誌への初仕事以来、読み切り漫画・カット・別冊等、一貫して私を担当してくれている人で、時々一緒に酒を飲んでは、漫画や雑誌の意見をぶつけ合い、面白い話で、世間にうとい私の目を開かせてくれる、良き先輩であり、私は彼が「小学館は、わが『小学一年生』で、もっているんですよ!」とか、「戦前の『少年倶楽部』は、最高でしたねえ!」とか、率直に言い切って呵々(かか)大笑する、稚気と快活さに好感を持っていたので、連日の仕事の疲れをほぐすには、願ってもない相手の誘いだと喜び、無精ひげでふだん着のまま、練馬駅から西武電車に乗ったのである。
 ところが、池袋駅で落ち合うや「社長がお待ちしておりますので」と、さっとタクシーを止め、一直線に小学館へー。

寺田ヒロオ「私の漫画史」21


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