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寺田ヒロオ「私の漫画史」6)手塚治虫さん

 「トキワ荘」は、南北に細長い二階建てで中央の廊下をはさみ、五、六室ずつの四畳半が並んでいた。炉事場も手洗いも共同で、部屋には押し入れ以外に何もなかった。
 後には、斬人漫画家が、二階部分をほとんど占領し、マンガアバートと言われたほどだが、私が昭和二十八年の大晦日(みそか)に入居した時、漫画家は向かいの部屋の、手塚治虫さんだけだった。
 手塚さんはそのころすでに、「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「ぼくの孫悟空」等、ほとんどすべての子供雑誌に連載を持つ超売れっこで、仕事でホテルにカンヅメになったり、宝塚のお宅へ帰ったりで、「トキワ荘」にいるのは、月に十日くらいのものだった。
 顔が合えば、「いつでも遊びにきて下さい」と、きさくに声をかけて下さるのだが、部屋には常に原稿待ちの編集者が三、四人、こわい顔で付いているし、仕事が一区切りつけば、ゆっくりお休みになりたかろうと思うので、訪問できるものではなかった。
 私が遠慮しているのを感じてか、手塚さんの方から、時々私の部屋へ入って来られた。「いま何をかいているのですか」と、原稿を見て下さったり、「これ、新しく買った紙だけど、安くてとてもかきやすいから、テラさんも使って下さい」と、わけて下さったり、会いたくない人を避けるために私の部屋にかくれて、一時間も話し込んでいかれることもあった。

寺田ヒロオ「私の漫画史」6

手塚治虫オフィシャルサイトの年表を見ると1953(昭和28)年頃の手塚はまさしく、既に引っ張りだこの大人気漫画家だったことが窺い知れる。

手塚治虫オフィシャルサイトから

 手塚さんは、二十九年秋、別のアパートに移られ、私の"お向かいさん"だったのはわずかな期間だし、二メートルの廊下を横切って手塚さんを訪問する勇気が、ついに出なかった私だから、それほど、手塚さんについてくわしいわけではないし、"親しかった"などと言うのは、恐れ多いことなのだ。
 しかし手塚さんは、その後三十年間、全く変わらぬ優しさで、陰に陽に、私をたすけて下さった。

寺田ヒロオ「私の漫画史」6

寺田は若き頃の新漫画党の会合の中で「手塚さんの作品は東京へでる迄、知らなかった。」と述べている。
手塚に憧れて漫画家を目指した藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎らとはスタートの地点から違っている。

手塚もまた、これだけ近い距離に住んでいた寺田にアシスタント等頼んだことはおそらく一度もない。
若き頃の安孫子素雄(藤子不二雄A)や石森章太郎などは手塚の依頼で手伝ったというエピソードが残っているのに。

手塚治虫の半自伝的短編『がちゃぼい一代記』
手塚治虫の半自伝的短編『がちゃぼい一代記』

 手塚さんが引っ越して空いた部屋に、新しく入ったのは、ふたりで一つの名前を使う怪しい男たち“藤子不二雄”。
 いわゆる「トキワ荘物語」が、始まるわけである。

寺田ヒロオ「私の漫画史」6


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