寺田ヒロオ「私の漫画史」10)ブロンディ
中学二年になっていた私は、せっかく芋畑にした校庭をこんどはならして、復活したばかりの野球部に入り、敵機を見上げた青空に、白球を追う身となった。
鈍足で運動オンチの私に、野球だけは、性に合った。
単に足がはやい力が強いということよりも、複雑な要素をもった"野球"というゲームが、非力の者でも功をなせる喜びを、与えてくれたからだろう。
そういう点は、図画・工作・習字という学科が、全くだめだった不器用な私が"漫画"という、単に絵の力、文の力だけではない複合芸術で、活路を見いだすことになった経緯と、よく似ているように思われる。
しかも、勉強ぎらいの怠け者で、進学も就職も、お先まっ暗だったオチコボレが、芸にもならない"草野球"と"投稿漫画"を組み合わせ、強引にメシの種にしてしまったわけで、たとえ趣味でも遊びでも、好きならトコトンやりなさい、必死でやれば何とかなると、わが子にも、人の子にも言う、昨今である。
二人の兄も野球をやっていたようなので、寺田が野球少年になったのは兄の影響が大きいのかもしれない。
昭和二十二年、アメリカ漫画「ブロンディ」(朝日新聞社刊)に出会った。当時としては紙も印刷も上等で、英文に和訳のついた、華麗で高価な本だった。
ブロンデイは金髪美人の奥さんで、夫のダグウッドは、アメリカでは平凡なサラリーマンだが、芝生の庭のある一戸建てに住み、電気冷蔵庫からハムやソーセージを取り出して、何層ものパンにはさんだ手製のサンドイッチを、夜食にほうばる。食糧難の日本人には、その多段式ダグウッド・サンドは、文字どおり、垂涎(ぜん)の的であった。
だが、私をもっと興奮させたのは、「作者チック・ヤング氏が、全米の人気を集めばく大な収入を得ている」という、巻末の解説記事であり、私の漫画家志向が、その時に始まったように思われる。
昭和二十三年、学校制度がかわり、旧制中学五年になるはずの私は、新制高校二年に編入された。親不孝な話だが、学校嫌いな私の学生生活が、一年延びたことになる。
その時に起こった「漫画少年」との遭遇が、私の人生を決定づけた。
『ブロンディ』について詳しくはこちらに書かれている。
アメリカの新聞連載漫画で、日本でも戦前は「國民新聞」、戦後は「週刊朝日」や「朝日新聞」に掲載されていたようだ。
