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寺田ヒロオ「私の漫画史」12)投稿漫画

 漫画懸賞募集
 ①用紙はがき
 ②ペンで墨色でかくこと

 「漫画少年」の素晴らしさは、その良心的な内容とともに、新人漫画家の発掘養成に力を尽くしたことにある。その一つとして、創刊号から右記のように、読者の漫画を募集し、良く出来た作品を掲載すると同時に、もう一息だ、頑張れと励まし見守る意味で、選外佳作者の名前を、大量に発表し続けた。
 私も十六歳の時から「漫画少年」に投稿を始め、二十二歳で上京する直前まで続けていた。青年にもなって子供雑誌にと思われるかもしれないが、そこが「漫画少年」の特異性で、他の子供雑誌が単なる読者サービスであったのに対し「漫画少年」はあくまでも、すぐれた漫画家の出現を期待し、年齢は無制限に、才能のある者には援助を惜しまず、入選作品の批評も親切で、漫画のかき方を指導するページまで設けたので、熱心な青少年が投稿を競い、編集部に直接持ち込む者も相次いだ。

寺田ヒロオ「私の漫画史」12

寺田ヒロオと棚下照生は「漫画少年」投稿が縁で、それぞれまだ地元(新潟と宮崎)にいた頃から文通をするようになり、やがて親しくなっていった。

藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫たちも「漫画少年」投稿からトキワ荘へ。

他に投稿していた者として筒井康隆、田島征三、横尾忠則、和田誠、篠山紀信、楳図かずお 等々。

 私も、初めは見よう見まねで送ってみたが、全然入選しない。当時は、「プロンディ」(チック・ヤング)の緻(ち)密な漫画に驚いたり、近藤日出造、清水崑の似顔や政治漫画に感心したり、横山泰三、加藤芳郎の新しい線に目をうばわれたりで、描くより見る方が楽しみで、投稿も、漫画を募集している新聞・雑誌どこでもよく、それに、おもしろい案はめったに浮かばぬし、草野球が忙しければ、漫画をかかなくても平気であった。
 それが一年ほどして、ポツ、ポツ、入選しだすと、事情がかわった。
 見覚えのある筆跡の"私の漫画"が、やや縮小されて、のっている。"新潟県 寺田博雄"という活字まで、新鮮だ。

寺田ヒロオ「私の漫画史」12

寺田は「漫画少年」以外にも「野球少年」「アサヒグラフ」などあちこちに投稿し、徐々に採用されることも多くなったようだ。

 昭和二十四年五月に郵送した漫画が、六月の「新潟なかよし新聞」にのり、七月に「新潟日報社」から、金百円なりが送られてきた。生まれて初めての、原稿料である。
 自己顕示欲に物欲が加わって、創作欲を刺激した。気ばかり焦って思いどおりにかけず、おれはスランプだなどと、一人で苦悶(くもん)していた。かくて、漫画家熱は、病膏肓(こうこう)に…。

寺田ヒロオ「私の漫画史」12


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