見出し画像

消費される音、心に沈む音

一、仮面としての一人称
日本語には「僕」「俺」「私」「あたし」と、数多の一人称が存在する。これらは単なる代名詞ではなく、選んだ瞬間にその者の性別や立場、心の機微までもを規定する「仮面」のようなものだ。日本の歌い手はこの仮面を付け替えることで、容易に性別すら越境し、他者の人生を憑依させる。英語の "I" が不動の自分を指す記号であるならば、日本語の一人称は、物語を彩るための鮮やかな衣装だと言えるだろう。
二、主語の消失と「風景の独白」
だが、日本語の真骨頂はまだその先にある。主語を消し去ることだ。
昭和の名曲『津軽海峡・冬景色』を思い浮かべてほしい。冒頭、「上野発の夜行列車 おりた時から / 青森駅は 雪の中/北へ帰る人の群れは誰も無口で/海なりだけを聞いている」。ここまで「私」という主語は登場しない。ただ静かに、冬の厳しさと、張り詰めた空気の中にある青森駅の情景が映し出されるだけだ。
もしこれを英語に訳して歌うならば、どうなるか。
"I stepped off the night train..." (私は夜行列車を降りた)
どうしても文法上、「誰が(I)」という主語を立てなければ文が成立しない。英語では「私」という存在を風景の前に置かなければ、物語が始まらないのだ。
しかし日本語は、主語をあえて伏せ、風景そのものに語らせることができる。歌い手である「私」が風景の中に溶け込み、消えている。だからこそ、聴き手はその余白に自分自身の孤独を重ね、冬の凍てつく寒さが直接心に染み渡ってくる。説明を省くことで、かえって「泣けてくる」ほどの情念が溢れ出すのだ。
歌ではないが川端康成の雪国の冒頭も同じように主語がなく

この「自己と世界の境界が消える感覚」こそが、日本人が古来大切にしてきた調和の精神であり、自分を自然の一部と捉える死生観の表れではないだろうか。
三、意味を超えた響き「風あざみ」
主語を消すだけではない。日本語は時に、意味さえも手放す。
井上陽水の『少年時代』に登場する「風あざみ」という言葉。植物図鑑を開いてもそんな花はどこにも存在しない。陽水の造語である。しかし、この言葉を聴いた瞬間、私たちの脳裏には、夏の終わりの少し寂しげな風と、揺れる野草の風景が鮮やかに浮かび上がる。
これを英語で説明しようとすれば、おそらく "A thistle swaying in the summer breeze" といった具体的な説明にならざるを得ないだろう。
英語では『夏風に揺れるアザミ』と具体的に説明しなければならないが、日本語は『風あざみ』という四文字だけで、その情景だけでなく、心の機微までをも一瞬で想起させてしまう「風あざみ」という響きそのものが持つ情緒は、翻訳した瞬間にこぼれ落ちてしまう。論理や意味で理解する「脳」ではなく、もっと深い、魂の根源的な部分を揺さぶる言霊。それが日本語の持つ力だ。
説明がないからこそ感受性に委ねてくれる。
こんな楽しいことはない。
四、去年の流行歌を、何曲歌えますか
ここで少し、自分自身に問いかけてみてほしい。
「去年、街中で溢れていた流行歌を、あなたは何曲、最後まで歌い上げることができますか?」
情報は溢れ、音楽は指先一つで無限に流れ込んでくる。しかし、脳の報酬系を刺激するためだけに設計された「消費用の工業製品」は、通り過ぎる風のように、私たちの魂を素通りしていく。英語のヒットチャートを模倣し、サビの数秒だけを切り取った音楽に、果たしてどれだけの「体温」が宿っているだろうか。
情報の多さが、豊かさを意味するわけではない。心に残らない音は、存在しないのと同じなのだ。
五、魂の隙間にあったもの
本来、音楽とは「喜怒哀楽の隙間」を埋めるためのものだった。
神への畏怖を音に託した雅楽の静謐。数百年の時を超えて、人間の根源的な寂寥を奏でるクラシックの旋律。あるいは、過酷な労働や差別の底で、生きるために絞り出されたジャズやブルースの叫び。
これら「本物」の音楽には、それが生まれた背景――血、汗、祈り、そしてその土地の空気――が濃密に詰まっている。それらは「消費」されることを拒絶し、聴く者の細胞に、しがみつくようにして沈殿していく。

六、教育はいらない、ただ「本物」を
だからこそ、音楽に「教育」や「テスト」はいらないと私は断言したい。
多感な時期に、ただ本物の音に身をさらす。それだけでいいのだ。
学校の硬い椅子に座り、評価のために音符を追う必要はない。退屈なら寝てしまっても構わない。その音が心地よいのか、あるいは耐え難いほどの違和感があるのか。それこそが、その子の魂が下した「正しい判断」なのだから。
必要なのは、机に向かう生徒たちに、正解のある「科目」を押し付けることではない。ただ、勉強漬けの脳を休め、五感を解放するための「ゆとり」の時間。そこでたった一人でも、理屈を超えた音の震えに涙する者がいれば、音楽という灯火は、次の百年も消えることはない。
七、十四歳のスイッチ
音楽とは、目には見えない空気の振動だ。あまりに抽象的で、掴みどころがない。
けれど、それは確実に「魂」に届き、そこに居座ることを人間は知っている。
十代の多感な時期に聴いたあの音楽を、数十年ぶりに耳にした時。私たちは一瞬にして、当時淡い匂いや、恋の痛み、震えるような青春のワンシーンを思い出す。こんな芸当ができるのは、この世で音楽以外に他にはない。
甲本ヒロト氏が作った、ザ・ハイロウズの『十四才』という曲がある。
あの日の僕のレコードプレーヤーは
少しだけいばって こう言ったんだ
いつでもどんな時でも スイッチを入れろよ
そん時は必ずおまえ 十四才にしてやるぜ

音楽を「売れるか売れないか」の物差しで語るのは、あまりにももったいない。
スイッチを入れれば、いつでも自分を「あの日の自分」へと引き戻してくれる。そんな奇跡のような振動を、私たちはもっと大切にしてもいいのではないか。
脳で考えるのをやめ、五感を研ぎ澄ます。
その先に響く音こそが、私たちが自然の一部として生きていくための、本当の「声」なのだから。

音楽談義は熱くなってしまう。
まだまだ話し足りない。

いいなと思ったら応援しよう!