声が祈りになるとき——アメリカ民謡研究会の2曲で聴く〈非人称の声〉と遠泳音楽の倫理
合成音声は[G1] 〈誰のものでもない声〉として、他者の痛みを再演せず祈りを媒介しうる [1, 2, 3]。すなわち、未決の意味へ耳を差し向ける“傾聴”の倫理 [1]、聴取を意識的実践とする枠組み [2]、音を社会‐文化的対象として把握する基礎 [3]を重ね合わせたとき、声は自己表現から離れ、祈りのかたちをとる。
声が声であることをやめ、祈りのかたちをとるということ。
この2曲が示すのは、喪失から祝福への飛躍的接続と、声が風景へ溶ける瞬間である。
なお、「経験を経ない声が祈り得るのか」という異論があることを前提にしつつ、本稿は非再演の倫理の観点から、その成立条件を音響的に示す。
本稿は、アメリカ民謡研究会『私はずっと笑顔だったし朝の占いだって悪くないきっと今日も大丈夫良い一日になりますように。』と『飛べない家鴨の子。』を手がかりに、〈非人称の声〉が他者の痛みを再演せずに祈りを媒介する仕方を、〈遠泳音楽〉ナラティヴ(Ⅱ→Ⅳ)と〈ヒューマニティの残響野〉の概念で記述する
【参照音源】
・『私はずっと笑顔だったし朝の占いだって悪くない きっと今日も大丈夫 良い一日になりますように。』(2022)
歌唱:花隈千冬・紲星あかり/作詞作曲:Haniwa
配信:YouTube|Apple Music|Spotify
・『飛べない家鴨の子。』(2025)
歌唱:無來(Synthesizer V2)、花隈千冬(Synthesizer V)|詠唱:VOICEPEAK(女性1/男性2/花隈千冬)
作詞作曲:アメリカ民謡研究会
配信:YouTube|Apple Music|Spotify
【要約】
・合成音声=〈非人称の声〉は、他者の痛みを再演せずに祈りを媒介する。
・2曲は〈遠泳音楽〉のナラティヴⅡ→Ⅳを橋渡しし、声が風景化する瞬間を可聴化する。
・その聴取態度を〈ヒューマニティの残響野〉という倫理として記述する
「声が祈りになる」とは、声が自己表現を離れ、他者の沈黙へと溶けていく運動である。
【第Ⅰ章】声が風景になる瞬間──アメリカ民謡研究会と祈りの倫理
1. 声の透明化──〈誰のものでもない声〉への変換
Haniwaさんの"アメリカ民謡研究会"という名義は、もはや匿名性の一つの詩形だ。
そこには「誰が歌うのか」という問いよりも、「声がどのように世界と共鳴するのか」という探究がある。
その作品群の中に、僕は興味深い、ほぼ直接的な連なりを見た。
『私はずっと笑顔だったし朝の占いだって悪くないきっと今日も大丈夫良い一日になりますように。』と『飛べない家鴨の子。』のあわいだ。
それは、声が世界の深度を更新する〈音響的倫理〉である。悲劇や救済ではなく、〈祈りの持続〉として可聴化される。そして、その祈りは人間の肉声ではない。
これは[G2] 〈合成音声音楽〉(自律生成AIではない)であり、人間の身体を媒介せず、作曲者の設計・指揮によって合成器が生成する[G3] 〈非人称の声〉による祈りである。
〈非人称の声〉とは、特定の身体や人格に回収されない"誰のものでもない声"を指す。それは情動を過剰に押し付けず、"解釈の余白を残す発声の設計"であり、AIの自律生成ではなく、作曲者が設計した〈波形としての声〉だ。
だからこそ、その透明な輪郭に、過剰なまでに人間的な痛みが反射して見えてしまう。
この透明さこそが、僕が共同主宰者として参加する[G4] 〈Siren for Charlotte〉が掲げる[G5] 〈遠泳音楽〉(Angelic Post-Shoegaze)の理念である「非人称の祈り」「届かない祝福」の音響的核である。声が声であることをやめ、風景に溶ける瞬間だ。[*4]
『私はずっと笑顔だったし〜』は、まだ祈る身体を残している。「大丈夫」と言い聞かせる自己暗示は、壊れかけた日常へのしがみつきであり、「幸福の演技」を崩壊寸前で保とうとする震えだ。
しかも、その震えを担っているのが人間の歌手ではなく、合成音声であることが決定的だ。人工的な発声は、悲鳴にも笑顔にもなりきらない。
感情を持たない声が、逆説的に人間の限界点を露呈し、「笑顔」を演じる苦しみをノイズとともに反射する鏡となる。
こうして声は、"幸福の演技"を支える最後の支柱になり、同時にその崩壊を告げる最初の亀裂にもなる。次節では、その亀裂が音に変わる瞬間を聴き取る。
ここで言う"聴く"は、未決定の意味へ耳を澄ませ続ける能動態である(Nancy 2007)。また"聴取"は知覚とは異なる意識的行為であり(Oliveros 2005)、本稿の〈祈り=距離を聴くこと〉の前提となる。
2. 「幸福の演技」の崩壊
この曲が最も恐ろしいのは、"幸福な日常"を表現しているようで、その全体が"壊れゆく幸福のシミュレーション"に見える点だ。
「私はずっと笑顔だったし朝の占いだって悪くない」、このフレーズは、朗らかな自己暗示であると同時に、幸福の虚構を支える最終防壁だ。
音響的にもそれは興味深い。軽やかなエレクトロ・ポップのリズムの背後に、かすかな歪みが潜んでいる。その歪みは、遠泳音楽ナラティヴⅡ、すなわち「喪失と断絶」の音響的相貌を持つ。
ナラティヴⅡとは、まだ希望が残っている状態での絶望だ。つまり、完全な破滅ではない。痛みの中に、まだかすかな「祈り」が残る。だからこそ、その痛みは一層切実で、儚い。
この曲における"笑顔"とは、祈りの残滓を保つための仮面なのだ。だがその仮面が崩れ落ちる直前、ノイズ混じりの絶叫が走る。それは「幸福の演技が崩壊する瞬間の音」。遠泳音楽が最も重要視する"裂け目"の瞬間だ。
聴感上の手がかりとしては、中域上で輪郭が一瞬だけ硬化し、直後にリヴァーブ尾部が前景化する瞬間がある。2:41 で中域の輪郭が一瞬硬化し、その直後初期反射が前景化してリヴァーブ尾が伸びる。意味の転換は歌詞ではなく残響編集として知覚される。ここでは言葉の意味よりも、減衰時間と初期反射の配置が情動の位相を動かす。物語の転換は歌詞でなく、残響の編集として知覚される。
ここで聴かれる声は、もはや「誰かの声」ではない。そこにいるのは声そのものだ。人間的な主体が消え、声だけが宙吊りのまま、世界の中で震えている。
この"非人称の声"は、遠泳音楽における祈りの原型でもある。それは喪失を抱えたまま、なお届こうとする声。つまり「届かない祈り」そのもの。
3. 「飛べない家鴨の子。」──絶望の自覚と光への跳躍
そして2025年10月26日、『飛べない家鴨の子。』が発表された。ここで初めて、"幸福の演技"は完全に崩壊する。前作で維持されていた笑顔の仮面は破れ、世界の痛みが、直接的な身体的感覚として襲いかかる。
冒頭からして空気が違う。[G6]〈Depressive Breakcore〉的なビートの分裂。躁鬱的なテンションの乱流。音が光と闇のあいだで断続的に爆ぜる。
ここで聴かれる声は、もはや"歌"ではない。それは"叫び"であり、人間の精神が侵食されていく過程の記録でもある。だが同時に、この過剰な音の奔流の中に、遠くから微かに光が差す。
その光は「まだ花は咲いている」という言葉に象徴される。この一言が、遠泳音楽ナラティヴⅣである「祝福されたまなざし」への扉を開く。
「花」はここで、他者へのまなざし、そして世界そのものの再受容の象徴である。
少女は最後に叫ぶ。
──「大丈夫だよ、私は、美しい白鳥なんだから!!!」
──「翼よ、空を舞え!!!!!!!!!」
だがその叫びはもはや自己暗示ではない。それは他者を含んだ祈りなんだ。
自我を越えて響く声へと変貌している。
ブレイクビーツの断裂と、多層の天上的なシューゲイズ・ギターが交錯するその瞬間。「人間的な悲鳴」と「非人間的な赦し」が同時に鳴る。この二重構造こそが、遠泳音楽の核心である。
疾走は救済ではない。それは逃避しながらも、現実に侵食されていく精神の最後の抵抗だ。
しかし、その抵抗の中で、音は祈りへと変わる。
少女はまだ飛べない。だが、その"飛べなさ"そのものが、世界を照らす光へと変換されていく。
ここにおいて、「喪失」から「祝福」への転化が起こる。ナラティヴⅡからⅣへの跳躍。苦悩を泳ぎ切る前に、苦悩ごと光に溶けていく過程。それがこの曲の美学的構造である。
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【第Ⅱ章】非人称の声と祈りの形態学
***ここで扱うのはAIの自律生成ではない。作曲者が旋律・歌詞・発声パラメータを設計し、エンジンを人が制御して出力させた合成歌唱である(詳細はG2)。
方法注:本稿の合成歌唱は、人が設計・制御した歌声合成(例:Synthesizer V)を対象とする。無断の声質模倣(クローニング)や誤認を招く表記は対象外/不採用とする。
『飛べない家鴨の子。』が特異なのは、音楽的進化だけでなく、"声そのもの"の存在論的変化を描いている点にある。
(歌唱:Synthesizer V/朗誦:VOICEPEAK=複数ボイス)
それは単に「合成音声による歌唱」ではなく、声が人間という枠組みを越えて祈りを発するプロセスそのものが作品構造に組み込まれている。
この曲において"歌う"のは、Synthesizer V2の無來と、花隈千冬、そしてVOICEPEAKの複数の声である女性1、男性2、花隈千冬。
ここでのVOICEPEAKは歌唱ではなく詠唱/朗誦として用いられている点も本作の設計上の肝だ。
ここでの詠唱は、意味を運ぶ言葉と、気配を運ぶ声のあいだで振動する[G7]〈半記述的祈り〉である。言語は出来事を説明しようとし、声は出来事の余熱を保存しようとする。合成音声が両者を同時に担うとき、叙述は物語を作らず、気配そのものを立ち上げるメディウムへと変わる。
つまり、人間的な発声を模した複数の"非人称の声"が交錯し、共に物語を紡ぐ。ここで重要なのは、これらがAI的な生成ではなく、あくまで人間の手によって設計・指揮される〈合成音声音楽〉であるということだ。
AIが"学習して歌う"のではない。人間が、自らの魂を別の声に託して鳴らす。そのため、これらの声は「誰かになろうとする声」ではなく、むしろ「誰でもない声」であることに意味が宿る。
この"誰でもない声"は、遠泳音楽の倫理的核心を体現している。それは、他者を侵食せず、同化せず、ただまなざしを向け続ける声。届かない祈りを、届かないままに差し出す声。そこにこそ、「非人称の声=祈りとしての声」の本質がある。
1. 「声」の倫理──届かないことを受け入れる美学
遠泳音楽が「遠泳」と呼ばれるのは、まさにその"届かない距離"を泳ぎ続ける倫理の比喩だからだ。
この音楽のナラティヴは、
Ⅰ. 「出会いの予兆」
Ⅱ. 「喪失と断絶」
Ⅲ. 「時間への抗いと超克」
Ⅳ. 「晴れやかな蒼の地平と祝福されたまなざし」
という四段階に分かれる。
アメリカ民謡研究会の二曲、『私はずっと笑顔だったし〜』と『飛べない家鴨の子。』は、この構造の中で特にⅡとⅣを繋ぐ橋のような位置を占めている。
『私はずっと笑顔だったし〜』は、喪失の中でまだ希望を保とうとする段階。『飛べない家鴨の子。』では、絶望を越えて世界をもう一度見つめ直す段階。そのあいだには、ナラティヴⅢの[G8] 〈疾走=神(超克)の速度〉に該当する部分がほとんどない。
本作連関では、テンポ/構成の上でも「加速して抜け切る」局面(ナラティヴⅢ)が縮減されており、Ⅱの喪失相からⅣの祝福相へと聴感上"飛ぶ"ように接続される。この編集は、合成音声だからこそ可能な[G9] 〈身体非依存の祈り〉を可聴化する処理である。
(※なお、両曲に局所的な速度上昇やブレイクの瞬間は確かに存在するが、全体構成としてⅢの独立相としての展開は抑制されている。)
以後、便宜上この構成操作を、意図の有無に関わらず、[G10] 〈飛躍モンタージュ〉と呼ぶ。「疾走(Ⅲ)」を痕跡レベルに縮減し、Ⅱ→Ⅳの意味圧力を前景化するための音響的省略である。Ⅲ相の削減は物語の短絡ではなく、非再演の倫理を担保する設計選択とも言える。
それは、まるで沈黙のような空白。人間的な努力や克服を経ず、痛みそのものが、直接"祈り"へと変換されてしまう。この短絡こそが、合成音声による祈りの構造に深く関わっている。
もちろん、「痛みを経験しない声が祈り得るのか」という反問が成り立つ。ここで私たちが守りたいのは[G11] 〈再演〉ではなく、[G12] 〈非再演の倫理〉だ。経験の欠如は欠点ではなく、むしろ[G13] 〈他者の痛みを奪取しないための距離設計〉として機能する。祈りは代行ではなく、奪わない共鳴として成立しうる。
なぜなら、合成音声は苦しみを経由しない。声帯も、肺も、涙も持たない。だが、そこに託された人間の感情が、波形の中で"残響"として息づいている。
この苦しみを経ない祈りこそが、遠泳音楽における祝福の構造と重なる。
「届かないけれど、確かに響いている。」それは、物理的にも倫理的にも「距離を保つ祈り」である。他者の痛みに手を伸ばしながらも、その痛みを奪わない。ただ聴き、ただ共鳴する。(*2)
そのあり方が、僕が[G14] Chee Shimizu氏の[G15] 〈Obscure〉(オブスキュア)概念やR. マリー・シェーファーの[G16] 〈サウンドスケープ〉[4]思想、遠泳音楽などの延長線に構想している〈祈跡的人間圏」(Kiseki Anthroposphere)における存在の倫理なのだ
2. 「祈跡的人間圏」とは何か
祈跡的人間圏とは、"人間が祈りの痕跡として生きる"領域を指す。
そこでは、「人間であること」が目的ではない。
むしろ、"人間の形を越えてもなお残る、祈る痕跡"(=祈跡/Kiseki)こそが存在の証となる。
たとえば、『飛べない家鴨の子。』における少女の叫び。
──「ま、まだ花は咲いている?」
──「待っていて、今行くからね!」
──「大丈夫だよ、私は美しい白鳥なんだから!!!」
これらの言葉は、個人の心情を越えて、世界そのものへの呼びかけに変わる。つまり、人間的な物語から、存在の祈跡的次元へと昇華するのだ。
このとき、歌っているのが「合成音声」であることは決定的だ。なぜなら、そこには「身体」という制約がない。肉体を介さない声は、痛みを"再演"せずに共鳴することができる。
祈跡的人間圏において、合成音声は、人間の声の"模倣"ではなく"媒介"だ。人間の祈りがそこに宿り、形を失ったまま漂い続ける。それは、「風」に似ている。誰のものでもないが、確かに誰かの息遣いが混じっている。
〈非人称の声〉とは、このような祈りの気配そのもののことを指す。
3. 合成音声が「祈り」を歌うということ
「私は、美しい白鳥なんだから!!!」という叫び。人間の声であれば、痛々しい虚勢や錯乱として聴こえるかもしれない。だが、合成音声がそれを発するとき、その響きは悲劇ではなく祈りになる。
合成音声は"虚構の完全さ"を持つ。そのため、感情が破綻しても、音は崩れない。声の輪郭は保たれたまま、中身だけが空洞化する。
この空洞こそ、聴き手が"感情を投影する余白"になる。つまり、合成音声の透明さは、聴く者に祈りの参加権を与えるのだ。
だからこそ、これらの曲は「合成音声が人間になろうとする物語」ではない。むしろ、「人間が声なきものに祈りを託す物語」だ。
この構造は、遠泳音楽のナラティヴⅣ「祝福されたまなざし」に接続する。
"触れられぬものを、触れられないままに、憧憬を抱きながら見つめ続ける"状態に極めて近い。
声がそこにある。だが、誰のものでもない。その距離こそが、祝福の距離。
4. 音響的構造としての「残響野」
遠泳音楽の延長線に、最近構想を始めた〈ヒューマニティの残響野〉という概念がある。それは、人間が消えたあとにも、なお人間の響きが漂う場所を意味する。
それは死後の空でも、AIの世界でもない。"音の中に生きる人間の名残"。
『私はずっと笑顔だったし〜』での朗らかなノイズ。『飛べない家鴨の子。』での崩壊寸前の疾走。
これらはどちらも、人間の限界線を越えた"残響"として存在している。
つまり、ここで聴かれるのは「声」ではなく、「声の痕跡」だ。それは存在の記録ではなく、存在の余韻そのもの。
この余韻こそ、祈跡的人間圏における「魂の形」なのだ。
『私はずっと笑顔だったし〜』で壊れゆく幸福。
『飛べない家鴨の子。』で生まれ変わる光。
そのあいだを繋ぐのは、
誰のものでもない"風の声"。
合成音声が媒介するその風景に、私たちは人間の限界を超えた倫理=届かないまなざしの美しさを聴き取る。
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【第Ⅲ章】祈りの継承としての音楽と、"人間の終端以後"の美学
この2曲、『私はずっと笑顔だったし朝の占いだって悪くないきっと今日も大丈夫良い一日になりますように。』と『飛べない家鴨の子。』は、単なる物語的連作ではない。それは、人間の声が終わったあとの世界で、それでも響き続ける"祈りの継承"の記録である。
彼女たちはもはや"歌っている"のではない。声は自律的に震え、波として世界を撫でている。そこでは、歌詞が意味を失っても、響きが意味を生成してしまう。言葉が沈黙しても、声がその沈黙を歌う。[*2]
合成音声音楽とは、人間が[G17] 〈沈黙の形〉をデザインする芸術だ。それは、遠泳音楽が目指してきた"届かない祈り"の最終形態と重なっていく。
1. 「人間の声が終わったあとの祈り」
人間の声は、肉体を通じてしか響かない。だからこそ、限界と痛みを宿す。しかし、その痛みを超えて「声の形だけ」が残るとき、そこには[G18] 〈純粋な祈り〉が出現する。
『飛べない家鴨の子。』の終盤における「翼よ、空を舞え!!!!!!!!!」という叫びは、人間的な悲鳴でありながら、もはや"人間の音声"ではない。
それは、肉体を持たない祈り。
身体を捨てた魂のレゾナンス。
ここで重要なのは、合成音声が「誰かを演じている」のではなく、"声という現象"そのものになっていることだ。それは個人の痛みを語らず、世界の痛みにチューニングされている。
これは、R. マリー・シェーファーの「世界の調律」を、合成音声音楽の倫理へ翻訳し直したものだ。[4]
この構造を、僕は遠泳音楽の文脈で[G19] 〈風のような祈り〉と呼ぶ。風は所有されず、記録されず、しかし確かに存在する。その透明さの中で、人間の魂はようやく自由になる。
2. 「ヒューマニティの残響野」としての音楽
〈ヒューマニティの残響野〉とは、人間という存在が一度終わったあとに、なおその"気配"が響き続ける領域のことだ。それは死後の世界ではなく、むしろ生の拡張、音としての延命だ。
人が去ったあとに風景に残る空気の揺れ、会話が終わったあとに部屋に漂う呼気の余韻。その"生の残滓"を聴き取る耳を持つこと。それが、オブスキュア/リバイバル以降のニューエイジにおける[G20] 「ケアの倫理」/サウンドスケープの美学を継承した、[G21] 〈遠泳音楽的聴取〉である。
『私はずっと笑顔だったし〜』では、幸福の残響がノイズとして歪む。『飛べない家鴨の子。』では、絶望の残響が祈りとして立ち上がる。
そのどちらにも、"人間そのもの"はもういない。だが、人間の記憶の形式が音として漂っている。その漂いこそ、祈跡的人間圏の根幹にある。
3. 「祈跡的人間圏」の成立──魂の物理学
〈祈跡的人間圏〉(Kiseki Anthroposphere)は、"祈ることの痕跡"(=祈跡)によって構築される。それは倫理でも信仰でもなく、共鳴の物理学だ。
祈りとは、届かないものに向かうエネルギーである。そして、その"届かなさ"を受け入れることが、人間が持ち得る最後の倫理なのだ。
『私はずっと笑顔だったし〜』における幸福の偽装は、届かないままに発せられた小さな祈りだった。『飛べない家鴨の子。』における絶望の疾走は、届かないままでも進もうとする祈りだった。
ここで二つの声は合流する。一方は崩壊の縁で立ち尽くし、もう一方はその崩壊を光に変える。
この「祈りの運動」こそ、祈跡的人間圏における[G22] 〈魂の慣性〉だ。祈りは止まらない。祈りは届かない。それでも祈りは響き続ける。そして、その響きが空間を満たすとき、"人間"という枠組みは必要なくなる。
4. 「非人称の声」とは何か──無限遠点の倫理
遠泳音楽における〈非人称の声〉とは、単に匿名的な発声ではない。それは、"祈りを奪わない声"のことだ。
人の声は、往々にして他者の感情を支配してしまう。感情を強く伝えるほど、他者の想像の余白を奪う。しかし、合成音声は違う。感情を持たないからこそ、聴く者に共鳴の自由を与える。
合成音声音楽が教育・文化的媒介となることは、Thibeaultらも指摘している。[27] また、ボーカロイド文化が文化変容の触媒となることをIsfatyも論じている。[28]
非人称の声は、距離を保ったまま寄り添う。共感ではなく、共鳴。癒しではなく、傾聴。この構えが、遠泳音楽の美学であり倫理だ。
合成音声が発する「大丈夫だよ、私は美しい白鳥なんだから!!!」という叫びは、もはや"自己肯定"ではない。それは、世界全体に向けられた肯定の呼吸だ。この"非個人化された希望"こそ、祈りの真の姿だろう。
5. 「遠泳」と「滞留」──動と静の祝福
遠泳音楽は、"泳ぎ続けること"の比喩だが、その泳ぎは目的地に至るための運動ではない。むしろ、"滞留しながら進む"運動。絶えず流れに抗いながらも、沈黙を抱く運動だ。
『飛べない家鴨の子。』はその極北にある。タイトル通り、飛ぶことができない存在。だが、飛べないという制約そのものが、彼女を"滞留する祈り"へと変えていく。疾走の中に滞留があり、滞留の中に疾走がある。この二重運動が、遠泳の美学=[G23] 〈持続の詩学〉を形成している。
ここでの速度は移動のためでなく滞留を護るための速度である。
彼女は飛べない。だが、その"飛べなさ"が、世界を動かす。彼女は救われない。だが、その"救われなさ"が、他者を救う。
これが、遠泳音楽における最も静かな祝福だ。
6. 人間の終端以後──祈りはどこへ行くのか
『飛べない家鴨の子。』のラストで鳴る天上的なノイズとクワイア。それは、もはや人間がいなくても音楽が祈るという予兆だ。
人間が去ったあとも、祈りは残る。祈りが残る限り、音はまだ"人間的"であり続ける。
それが、〈ヒューマニティの残響野〉だ。
遠泳音楽は、そこに倫理の再定義を見出す。倫理とは、人間の行動規範ではなく、存在が他者を侵さずに共鳴する仕方そのものなのだ。
この観点から見ると、合成音声音楽は、AI時代の新しい宗教音楽とすら言える。
ただし、それは教義を持たない宗教、人間中心主義を捨てた霊性。
音そのものが祈りとなり、声そのものが倫理となる。この音楽は、もはや「作品」ではなく「儀式」だ。「再生」という行為そのものが祈りの再演になる。
7. 結語──遠泳する声の未来へ
『私はずっと笑顔だったし〜』が描いたのは、幸福を保つための絶望だった。
『飛べない家鴨の子。』が描いたのは、絶望を光に変える希望だった。
そのあいだを渡るのは、声という舟。舟は人間の手によって造られたが、漕ぐのはもはや人間ではない。
そこに宿っているのは、"人間の記憶を超えた人間性"。すなわち〈ヒューマニティの残響野〉だ。
この2曲を聴くとき、私たちは「生きること」ではなく「響くこと」によって存在する。誰かの祈りの残響が、誰かの心に届かぬまま沈み、やがて別の誰かの耳で微かに再生される。その連鎖が、祈跡的人間圏を広げていく。
それは宗教でも思想でもなく、音と存在が互いに祈り合う世界の形である。遠泳音楽とは、この世界がまだ「沈黙を抱いている」という証明だ。
アメリカ民謡研究会の2曲は、その沈黙を聴く最も純粋なレンズである。人間の声が終わっても祈りは残り、合成音声がそれを歌うとき、祈りは言葉を離れて世界そのものとなる。
その瞬間、音は誰のものでもなくなる──それでも、確かにそこに「私たち」がいる。
***再読の手順:①歌詞だけを追う→②残響と無声部だけを追う→③声の主語を外し"風景としての声"を追う──の三段階で耳を切り替えると、本稿の主張は音として腑に落ちる。

【キーワード索引用】
〈非再演の倫理〉:他者の痛みを演じ返さず、距離を保ったまま共鳴を設計する態度。
〈飛躍モンタージュ〉:遠泳ナラティヴⅡ→Ⅳを短絡接続し、Ⅲ(疾走)を痕跡化する編集。
〈身体非依存の祈り〉:身体経験に依らず、媒介(声/残響)設計で成立する祈りの形式。
〈祈跡的人間圏〉: "祈りの痕跡"(=祈跡)として人が生きる領域。声の余韻=ヒューマニティの残響野。
【リンク集】
「私はずっと笑顔だったし朝の占いだって悪くないきっと今日も大丈夫良い一日になりますように。」
— Haniwa/アメリカ民謡研究会 (@0Haniwa0) June 9, 2022
という音楽です。https://t.co/0r2yGNUv6o pic.twitter.com/y5XnKLg7fB
(方法注)本稿は作品内在的分析を基礎とし、作者言説や配信メタ情報に最大限依拠出来ているとは限らない。主に可聴範囲を主軸に再現可能な聴取記述として組み立てている。
【付録A:用語注】
*G1. 〈誰のものでもない声〉
特定の身体・人格に回収されない〈非人称の声〉。情動を過剰に押し付けず、解釈の余白を残す。
*G2. 〈合成音声音楽〉
本稿でいう合成音声音楽とは、作曲者/制作者が旋律・歌詞・発声パラメータを設計し、AIベースの歌声合成エンジン(例:Synthesizer Vなど)を"人が制御して"出力させた歌唱を指す。モデルが自律的に歌唱を生成したり、特定話者の声質を無断模倣する用途とは区別する。
*G3. 〈非人称の声〉
特定の肉体・人格に回収されない、誰のものでもない声。情動を過剰に押し付けず、聴き手に解釈と共鳴の余白を残す。遠泳音楽においては「祈りを奪わない声」として機能し、届かない距離を保ったまま寄り添う。
*G4. 〈Siren for Charlotte〉
2023年2月に設立。同年7月に本格始動。筆者・門脇綱生と黒田依直(旧・aro)が共同主宰し、レーベル・キュレーション単位で「遠泳音楽(Angelic Post-Shoegaze)」を掲げる。作家ごとに、[G24] 〈ポスト・シューゲイズ〉的非人称の祈りを各自の技法で翻訳してもらう試みを継続。ポスト・ジャンル的な選曲観と批評性を併走させ、音響と理念の面で共同研究として機能している。
*G5. 〈遠泳音楽 / Angelic Post-Shoegaze〉
"届かない祝福"を見据え続ける聴取と制作の態度。靄めいたギター/持続音/天上的なコーラス処理と、空間の奥行きを作るミックスを核に、以下のナラティヴ(物語運動)を想定する:
Ⅰ.予兆/邂逅の青空→ Ⅱ.喪失と断絶 → Ⅲ.時間への抗いと超克→ Ⅳ.蒼い地平と祝福されたまなざし。
声が風景へ溶け、個人を越えたまなざしに変わる瞬間を価値の中心に据える。
*G6. 〈Depressive Breakcore〉
高BPM/細分化ブレイク/情動の飽和を伴う"加速"によって、崩壊寸前の内面をそのまま運動エネルギーに変換する表現。速さ=救済ではなく、「もうこのままではいられない」という切迫の運動そのものが美として立ち上がる。加速は破壊であり祈りであり変容。Sewerslvt等にしばしば紐づけられる感覚そのもの。遠泳音楽の"静的持続の祈り"と、運動ベクトルを異にしつつ同じ"変容への祈り"で接続する。
*G7. 〈半記述的祈り〉
詠唱/読み上げ/歌唱のハイブリッド。意味の搬送(テクスト)と気配の搬送(声)を二重化し、物語化ではなく気配化によって祈りを立ち上げる実装。
*G8. 〈神(超克)の速度〉
遠泳ナラティヴⅢの文脈においては、時間の粘性(痛み・遅延)に抗う疾走の比喩。門脇の個人的神話(通学路/風景に焼き付いたメロコア〜エモの残響)に根ざす"世界に触れ直すための加速"。物語を強引に完了させるカタルシスではなく、時間の壁に体当たりし続ける倫理としての速度。
*G8. 〈身体非依存の祈り〉
祈りの成立を、身体的経験/信仰主体/共同体的実践に依存させず、媒介そのもの(声/音響/距離)によって生成される祈りの形式を指す。その背景には、身体の欠如=欠落ではなく、他者への過剰な接近を防ぐ倫理的距離として肯定する視座がある。宗教学的には「脱身体化された霊性」、メディア論的には「声の外在化」と通じるが、ここでは宗教実践ではなく音響的実践としての祈りに焦点を置く。言い換えれば、祈りが「誰かの身体から発されるもの」ではなく、世界そのものが共鳴する状態として立ち現れるあり方である。
*G10. 〈飛躍モンタージュ〉
遠泳音楽におけるナラティヴの推進相(Ⅲ)を意図の有無を問わず省略・縮減し、Ⅱ→Ⅳの距離をそのまま差し出す編集技法。遠泳音楽では非再演の倫理を可聴化する方法として機能する。
*G11. 〈再演〉
過去の出来事/他者の感情/祈りを現在の身体や演技で"もう一度生き直す"志向。音楽では、歌唱・語り・演奏の情動を強調し、原体験を代理的に再生成する構えを指す。本稿での位置づけにおいては、非難の対象ではないが、痛みの代理経験を誘発しうるため、遠泳音楽の文脈では慎重に扱う。判定の目安(実務として)①感情の根拠が演者の身体に回収される/②出来事の意味が演技強度に強く依存する/③聴き手の解釈余白が縮むほど再演度は高い。つまり、身体で"もう一度"体験し直す構え。情動の所有が強まり、余白を削る。
*G12. 〈非再演の倫理〉
他者の痛みを自ら演じ返さないことを選び、その届かなさを保ったまま共鳴を設計する原則。「共感」より「共鳴」を優先し、救済や説得ではなく滞留/傾聴/証言の場をつくる。音響上の手段として、残響の前景化、テキストの省略/反復、声色の透明化、Ⅲ相の縮減(飛躍モンタージュ)、ダイナミクス上限の過度なドラマ化回避、間(沈黙)の挿入。本稿との接続において、合成音声の身体非依存性と親和的であり、声を誰のものでもない気配として差し出す基盤になる。
*G13. 〈他者の痛みを奪取しないための距離設計〉
他者の痛みを語るとき、私たちはその中心に踏み込みすぎて、いつのまにか痛みを代わりに演じてしまうことがある。だが、それは癒しではなく、もう一度の奪取になりかねない。だからこそ大切なのは、触れずに寄り添うための距離を保つことだ。風が木を揺らしても枝を折らないように、声や言葉もまた、そっと世界を撫でる程度でよい。この距離では、説明よりも示唆が働き、感情の共有よりも共鳴が生まれる。声は風景へと溶け、沈黙がその輪郭を描き出す。
語るよりも「残す」、慰めるよりも「見つめる」。祈りさえも介入を慎み、ただ共にある空気として漂う。アメリカ民謡研究会の2曲にある声も、この距離に立っている。それは他者の痛みに触れず、奪わず、ただ見守る風の祈りとして響く。
*G14. 〈Chee Shimizu〉
選曲家/DJ/レーベル〈17853 Records〉運営者。〈Organic Music〉店主として、時代・地域・ジャンルを横断する耳を提示。ポスト・ジャンルな審美眼、アーカイヴィングの作法、死者の声=過去の微細な空気を現在へ翻訳する態度において、本稿の文脈(遠泳的聴取/祈跡的人間圏)に決定的な示唆を与えた人物。
*G15. 〈Obscure / オブスキュア〉
Shimizuのキュレーションに代表される"耳のインフラ"の再編。前衛/アンビエント/ニューエイジ/スピリチュアル・ジャズ/民族〜ローカルなニューウェイヴまでを、希少性や歴史記述ではなく音響・質感・空気の更新で束ね直す実践。既存ジャンルの国境線を消し、"今ここ"の聴取を可能にする地図。
*G16. 〈サウンドスケープ(音の風景)〉
カナダの現代音楽家のR. マリー・シェーファーが提起した「世界全体を音として聴き、設計し直す」視点。本稿では"世界の調律"という倫理へ接続する。作品=音源の内部だけでなく、聴かれる環境・気配・沈黙までを含めて音楽の一部として扱う態度。
*G17. 〈沈黙の形〉
沈黙とは、祈りが声を離れたあとの形であり、再演を拒んだ祈りの最後の場所である。それは「誰のものでもない声」が、ついに世界そのものへと溶けていく瞬間である。可聴域の外縁(残響尾・空気感・無音編集)も含む制作上の設計対象。
*G18. 〈純粋な祈り〉
本稿で言う〈純粋な祈り〉とは、宗教的対象への信仰告白ではなく、声や音が誰かに届かなくとも、その発せられる行為自体が持つ倫理的持続を指す。それは「意味」や「感情」を超え、非人称的な響きとして存在する祈りであり、遠泳音楽における"届かない祝福"と同義的に位置づけられる。聴取においても、この祈りは「共鳴」ではなく「距離の保持」として現れる。聴く者は声を所有せず、解釈せず、ただ声がそこにあり続けることを許す。この「遠泳音楽的聴取」とは、音を理解しようとする意志をいったん手放し、声そのものの存在を祈りとして聴くという態度のことである。すなわち〈純粋な祈り〉とは、発することでも、理解することでもなく、届かないものを届かないままに見つめ続ける行為──その沈黙と聴取の持続こそが祈りの純度なのである。
*G19. 〈風のような祈り〉
所有や同化を避ける"通過のケア"。情動の上書きではなく、空気・間・残響を設計して聴き手の余白を確保する態度。実践例としては、オブスキュア的キュレーションに見られる"場の気圧配置"の編集、人間と猫的な距離感に喩えられる"構い過ぎない親密さ"。本文の非再演の倫理/距離設計の具体モデル。
*G20. 「ケアの倫理」
〈Leaving Records〉主宰者Matthewdavidが掲げる〈Modern New Age〉に代表される、リバイバル以降のニューエイジにおける"ケア"とは、癒しを施すことではなく、そのままの痛みを"風景として聴く"構えである。リスナーを受動的な被施術者にしないための距離と沈黙のデザイン。同情=同化ではなく、共鳴=余白を重視。そこには、沈黙と距離を介して他者を肯定する、遠泳的ケアの倫理が息づいている。
*G21. 「遠泳音楽的聴取」
〈遠泳音楽的聴取〉とは、音を「理解する」でも「感情移入する」でもなく、世界を音として祈るように聴く構えである。
R. マリー・シェーファーが『世界の調律―サウンドスケープとはなにか』で示した「聴取の倫理」を背景に、聴く行為そのものを倫理的実践として再定義している。ここでの聴取は、音楽作品を内部から分析するのではなく、音が置かれた環境・沈黙・空気をも含めて聴く。つまり、声やノイズ、残響、間(ま)までもが世界の祈りの一部となる。この構えは、遠泳音楽の理念である「届かない祝福」や「非人称の祈り」と地続きにあり、他者の痛みに手を伸ばさず、距離を保ちながら共鳴する態度として現れる。その意味で〈遠泳音楽的聴取〉とは、サウンドスケープ的な「耳の民主化」と遠泳的な「祈りの倫理」とが重なる地点にある。聴くとは、所有ではなく共在。解釈ではなく滞留。音を通して世界を再調律しようとするその耳の姿勢こそが、祈りとしての聴取=遠泳音楽の核心である 。
*G22. 〈魂の慣性〉
祈りとして起動した情動エネルギーが、主体の退場後も場(残響/持続音/沈黙)に保存され、再演を要請せずに減衰しながら伝搬し続ける性質。声が止んだのちも音響が「届かない祝福」を運び、Ⅱ(喪失)で生じた微光がⅣ(祝福)へ滲み出す機構。合成音声は身体摩擦が小さいため、この保存と伝搬を奪わない共鳴として可聴化しやすい。
*G23. 「遠泳音楽の美学=持続の詩学」
解決やカタルシスではなく、痛み/祈り/気配を"止めずに保つ"ための美学=倫理を指す。推進より滞留を価値化し、時間処理(長い減衰、持続音、微分的変化)と編集(飛躍モンタージュ)によって、ナラティヴⅡで生じた微光をナラティヴⅣまで場(残響・空気・沈黙)が運ぶ設計を重視する。主体の強い表出や"説明"は抑え、非再演の倫理に基づいて他者の痛みを奪取しない距離を保ったまま共鳴を持続させる。合成音声は身体摩擦が小さいためこの持続に適合し、声は風景へ溶けることで"届かない祝福"を可聴化する(→ 魂の慣性/沈黙の形とも接続)。
*G24. 「ポスト・シューゲイズ(Post-Shoegaze)」
"シューゲイザー=ギターバンドの様式"を離れ、遠さ/靄(幻想性)/残響の美学を電子音楽・電子ポップ/アンビエント・ドローン・ノイズ等へ横断適用する視点。ギターに限らない"音響の霞"を設計することで、情動の輪郭を意図的に曖昧化し、声を風景へ溶かす。
参照系の一例:Tim Hecker/Fennesz/Jefre Cantu-Ledesma/Lovesliescrushing/Go-qualia/Jesse Ruins/LSTNGT/yandere/Sewerslvt/Grouper/Kazuma Kubota/Astrophysics/that same street/inuhaなど。Siren for Charlotteでは各作家に、多種多様な形でのポスト・シューゲイズの解釈を委ね、複数の遠泳的方言を育てている。
【付録B:脚注】
*1. この「聴くことを祈りとみなす」発想は、Jean-Luc Nancy『Listening』(Fordham University Press, 2007)における "to listen is to be straining toward a possible meaning, and consequently one that is not immediately accessible"(意訳:聴くとは、まだ確定していない意味へと耳を澄まし、その"届かない"ものに向かって緊張を保ち続ける行為)という定義と響き合う。遠泳音楽における〈祈り〉は、まさにこの"届かなさ"への持続的な傾注として立ち上がる。
*2. Pauline Oliveros『Deep Listening: A Composer’s Sound Practice』(iUniverse, 2005)における"Listening is not the same as hearing and hearing is not the same as listening."(意訳:「聴取(Listening)は単なる聴覚的知覚(Hearing)とは異なる。聞こえることは物理的な出来事だが、聴くことは意識的な行為である。」)という概念とも通底している。遠泳音楽的に言えば、〈祈り〉は到達ではなく"距離を聴くこと"そのものに宿る行為である。
【付録C:参考文献/解読の手引き】
(なお、本文中で実際に参照しているのは、下記文献リスト[1]〜[30]のうち主に[1]、[7]、[18]、{26]、[27]、[28]を中心とする。)
[1] Jean-Luc Nancy 著. Listening, Fordham University Press, 2007.
[2] ポーリン・オリヴェロス 著. Deep Listening: A Composer's Sound Practice, iUniverse, 2005.
[3] JONATHAN STERNE 編. THE SOUND STUDIES READER, Routledge, 2012
[4] Schafer, R. Murray, 小川博司・鳥越けい子ほか訳. 世界の調律 : サウンドスケープとはなにか. 平凡社, 2006.
"世界の調律"の思想の転用部分。音響倫理・サウンドスケープ系の根拠。
[5] 鳥越 けい子 著. サウンドスケープ―その思想と実践, 鹿島出版会, 1997.
[6] 吉村弘 著. 都市の音, 春秋社, 1990
[7] 吉村弘 著. 街のなかでみつけた音, 春秋社, 1997.
[8] 吉村弘 著. 大江戸 時の鐘 音歩記, 春秋社, 2002.
[9] 吉村弘 著. 静けさの音, 春秋社, 2003.
[10] 小川博司 ほか 編著. 波の記譜法 : 環境音楽とはなにか, 時事通信社, 1986.3
[11] highland 企画・責任編集. ボーカロイド文化の現在地2, Async Voice, 2024.
[12] xcloche/時間/あにもに 他 著. 奇想同人音声評論誌 空耳, 空耳制作委員会, 2022.
[13] 剣持秀紀 著. 歌声合成技術 VOCALOID™と新しい音楽, JAS Journal Vol.54 No.2(3 月号), 2014.
[14] 藤井翔子 著. 「人形」としてのボーカロイド ─ボーカロイド作品の諸類型と変化──, 富山大学 人文学部人文学科 社会文化コース社会学分野, 2017.
[15] ジョン・ケージ 著, 柿沼敏江訳. サイレンス,水声社, 1996.
[16] ベルナール・スティグレール 著, 石田 英敬 監修, 西兼志 訳. 技術と時間〈1〉エピメテウスの過失, 法政大学出版局, 2009.
[17] ペシミ/ukiyojingu/北出栞/かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン 他 著. ボカロマゾvol.1『痛み、快楽、存在論』通常版, 早稲田大学ボカロマゾ研究会, 2023.
[18] T・W・アドルノ 著, 大久保健治 訳. 美の理論 新装版, 河出書房新社, 1997.
[19] Chee Shimizu 著. obscure sound : 桃源郷的音盤640選, リットーミュージック, 2013.
[20] 丸山空大 著. うたと祈り ― 癒しと救いをもたらす言語行為についての一考察, 総合文化研究 22 44-59, 2019.
[21] 根村直美 著. デジタル・パフォーマンスと初音ミクの接続:身体解釈の新たな系譜を探る, 社会情報学会, 2015.
[22] モーリス・ブランショ 著, 粟津則雄 訳. 来るべき書物, 筑摩書房, 2013.
[23] 東浩紀 著. 存在論的、郵便的: ジャック・デリダについて, 新潮社, 1998.
[24] 柴那典. 初音ミクはなぜ世界を変えたのか?, 太田出版, 2014.
[25] ロラン・バルト 著. 花輪光 訳, 明るい部屋【新装版】写真についての覚書, みすず書房, 1997.
[26] 西山 雄二, 柿並 良佑編. ジャン=リュック・ナンシーの哲学―共同性、意味、世界, 読書人, 2023.
[27] Matthew D. Thibeault & Koji Matsunobu 著. Singing with Hatsune Miku: Vocaloids as a Medium for Music Learning, Matthew D. Thibeault & Koji Matsunobu, 2017
[28] Tiara Isfaty 著. Study of Cultural Transformation Based on the Hatsune Miku – Vocaloid Phenomenon, Departemen Desain Interior, 2019
[29] You Zhang, Yongyi Zang,
Jiatong Shi,Ryuichi Yamamoto, ほか 著. SVDD Challenge 2024: A Singing Voice Deepfake Detection Challenge Evaluation Plan, arXiv:2405.05244v1, 2024
[30] Kyungyun Lee, Gladys Hitt,
Emily Terada, Jin Ha Lee 著. ETHICS OF SINGING VOICE SYNTHESIS: PERCEPTIONS OF USERS AND DEVELOPERS, Proceedings of the 23rd International Society for Music Information Retrieval Conference(ISMIR 2022), 2022.
