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推しの墓

あなたは「推しの墓参り」をしたことがあるだろうか。

例えば推しが歴史上の人物であるとか、若くして亡くなっただとか、とにかく様々な理由で既にこの世にいない者が対象でなければできない行為ではある。
かくいう私も、一番の推しはとっくの昔にこの世を去っており、墓参りへ出かけた経験もある。そして現在のところは、その時が最初で最後となってしまっている。7年前のことである。

お墓に行っても故人がそこにいるわけではないと思っていたし、親族の墓参りをしても「その人がそこにいる」という感覚になったこともなかった。しかしこれは故人に対する思い入れだとか関係性で、おそらく違ってくるのだろう。

「推しの墓」は、やはり特別な場所だったのだ。




私の推しがこの世を去ったのは、1973年10月7日のことだった。

私は1984年の生まれである。
推しが存在していた時代を共に生きることはできなかった。生まれてくる時代を間違えたと思っている。

推しとの出会いは、今から30年近く前まで遡る。当時の私は古い日本映画にハマりたての中学生であった。BSの、きっと黒澤明特集だったのだろうと思うが、とにかくその時に「七人の侍」だとか「用心棒」なんかを観て、他の黒澤作品も観たいと思ってレンタルビデオ屋へ走った。
その時に観た1本の映画の主役が、私の推し、その人であった。その作品における彼の、全てを見透かしているかのような眼差しに一目惚れをした、といったところである。

好きになった人のことは何でも知りたい性分だから、大昔の映画雑誌など、インタビュー記事やポートレートが掲載されているものを片っ端から調べて集めてきた。そうして得た情報で、SNSで発信したりプリントを作ったりしたこともあった。

今のようにテレビ番組のVTRが普通に残るような時代ではなかったから、「素」で話している姿が収められた映像はいくら探しても出てこなかったし、いまだに出てこないのだ。残された活字や撮影スナップに写る姿から、推しがどんな人であったのか、どんなことを考えて生きていたのか、ただ想像するのみであった。

そうして彼のことなら何でも知ってるんだぞみたいな気持ちになっている反面、「彼は本当に現実に実在した人物だったのだろうか」という、ふわふわした感情も同時に持ち合わせていた。
生きていた頃を知らなければ、亡くなった時のことだって知らない。ほとんど歴史上の人物みたいな感覚に近かったと思う。幻を追いかけている、そんな気持ちになることもあった。




2019年。
私は推しの墓参りをすることに決めた。ファンたる者、一度はお参りしなければならぬという長年抱いてきた使命感を、ついに果たす時がやってきたのだ。

お墓は神奈川県鎌倉市にある「材木座霊園」にある。ここはおそらく私の推しの墓よりも、日活スターだった赤木圭一郎の記念碑があることで知られているだろう。

この頃、ソフト化されていない推しの出演作品を観るために関東地方の名画座へ頻繁に遠征していたが、鎌倉へは行ったことがなかった。
神経症持ちのせいもあるかもわからないが、やはり初めて行く場所は遠かろうが近かろうが、ひとりで行くとなると相当の緊張と不安に襲われる。数日前からやはり睡眠に支障をきたすようになったので、とにかく移動にかかる時間や列車の乗り場など事細かに調べ上げ、現地で困らないように準備をすることで不安を解消した。
推しパワーで神経症を乗り越えたのである。

当時のメモ
しかし結局新横浜駅で迷子に…


10月7日。命日、そして出発日を迎えた。
新幹線に乗ってからはやはり予定どおりとはいかず、新横浜駅で迷子になり右往左往した。たしかブルーラインの乗り場がわからないとかそんなことだったと思う。駅員さんに尋ねると、結局最初に向かった場所が正しかったとなり自分にガッカリした。
しかし現地でわからないことや困ることがあっても、いざ行ってしまえばどうにかこうにかして辿り着くものである。だから行く前から不安になる必要はないとわかってはいるのだけど、また出かけるとなればやはり不安になるのだろう。

やっと初めて降り立った鎌倉駅は、今ほどではないかもしれないがやはり外国人観光客が目立ち、「ほんとに外国人ばっかりだな」と思ったことを覚えている。

鎌倉駅から霊園のあるお寺「長勝寺」まではバス移動となる。普段はバスなど乗る機会が全くと言っていいほどない私にとって、この旅の難関のひとつがこのバス移動であった。恥ずかしながら、前から乗るのか後ろから乗るのかもわからなかったのである。バスの乗り方についても相当調べたが、実際にバスが来て乗るまで不安でしょうがなかった。

しかもこの時は駅周辺で大きな工事をしており、乗り場も通常とは変更になっていたのである。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、ようやくバスに乗って座った瞬間、どっと脱力した。




バス停「長勝寺」で降りた。
霊園はお寺の裏山を登ったところにあるが、霊園の事務所は麓にあるようだった。霊園は広そうなので、とにかく場所を尋ねなければならない。そっと事務所へ入ると係の方が2名、パッと私の方を見た。心臓がギュッとなった。

「森雅之さんのお墓のお参りをしたいのですが、場所を教えていただくことは可能でしょうか?」

緊張のあまりテンプレみたいなセリフが出た。私の声は震え、おまけに上擦った。
係の人たちは無言できょとんとして、顔を見合わせた。いきなり尋ねてきたおまえは誰だ?という顔でもあったし、まず森雅之って誰?という顔でもあった。
そういえば芸名を言ったところで通じないのである。よほど年配の人であるかよほど古い映画が好きな人でもなければ、ほぼわからないだろう。気を取り直して、本名を伝えた。

「あの、有島行光さんという方のお墓なんですけど…」

すると、係の人がやっと口を開いてくれた。
「管理されている方のお名前で登録されているので、故人のお名前ではお調べすることができないんですよ。どなたのお名前で登録されているか、わかりますか?」

管理はおそらく2人の息子さんのどちらかである。幸い、どちらのお名前も存じ上げている。昔の芸能雑誌って恐ろしいもので、誌面に俳優の住所、家族構成、家族の名前など、個人情報が普通に掲載されていたのだ。今じゃとても考えられない。
息子さん2人のお名前を伝えると、「確かにそのお名前で登録されています」と、霊園全体の地図を渡してくれた。しかし詳しい位置までは、ここではわかりかねるという。

「山を登ったところに小さな管理室があって、そちらに高齢の管理人さんがいらっしゃるので、そちらで尋ねていただければ教えてもらえると思います」

ありがとうございましたとお礼を言い、霊園へ続く坂を登った。
尋ねなければならない場所が増えて不安になった。実は出発前にお墓参りについて調べていた時、「お墓は私有地だから、身内でない者が尋ねても場所を教えてくれないところが多い」との情報も多く出ていた。

「もしかしたら教えてもらえないかもしれない…」
教えてもらえなければ自力で歩いて探すしかないが、「教えない」と言われたにも関わらずウロウロ歩き回るのもどうなんだろうかなどと考えつつ、急な上り坂のせいだけではない汗をかきながら、ついに霊園へ辿り着いた。

着いてすぐ右側に、木造の小さな管理室を見つけた。中へ入ると、この人なら推しのことを知っているのではないかというくらいに高齢の女性が奥から出てきた。この人が管理人さんである。

「どんなご用ですか?」
「あの、俳優の森雅之さんのお墓参りがしたいのですが」
「…どんなご関係?親戚の方?」
「いえ、全然親戚とかではないんですけど…」
「どこの誰かもわからない人に、人様のお墓の場所を教えるわけにはいきません」

管理人のおばあさんは怪訝な視線を私に向けて、そう言い放った。

「あの、森さんのファンなんです。今日が命日なので、お参りがしたくて」
「それはわかっています!お墓というのは私有地ですから、突然家族でもない人がやって来られても、はいどうぞと教えるわけにはいかないんですよ」

不安は現実となってしまった。どうしてもお参りがしたかったが、ダメだと言われて何も言葉が出てこない。どうしよう…

そこに何秒ほど立ち尽くしていたのだろうか。

「あなた、どちらからみえたの?」

おばあさんに声をかけられて、ハッと我に帰った。

「愛知です」
「愛知?このために愛知からわざわざ来たの?」
「はい」

おばあさんは、下の事務所でもらった地図と同じものを取り出し、ある部分にマーカーで印をつけた。そして、番号を書いたメモを渡してくれた。区画の番号だ。

「ここが森さんのお墓の場所です。でも約束事を必ず守ってお参りしてくださいね」

おばあさんとの約束は、「お墓やその周辺の写真は絶対に撮らないこと」だった。万が一撮ってSNSなどに出した場合、そのお墓のご家族だけでなく周辺のお墓のご家族の迷惑になることもあるためである。
絶対に教えないぞ的な姿勢だったおばあさんの反応がどうして急に軟化したのかわからないが、とにかくお礼を言って、教えてもらった場所へと足早に向かった。

少し奥へ進むと、新しめのきれいな墓石が多い中にひとつ、小さくて古い墓石がポツンと立っているのが遠くから見えた。

「あれだ」

その墓石だけを見つめてどんどん進んだ。私は走っていたのか歩いていたのかわからない。やっとここまで会いにこれたのだという気持ちで胸がいっぱいになっていた。
ついに、私は推しの墓前に立ったのである。




墓石の側面には、本名の横に小さく「森雅之」と、芸名も刻まれていた。

しばらくの間誰も来ていないのだろうか、手入れされている様子はなかった。草はたくさん生え長く伸び、何も刺さっていない花立は片方が倒れてしまっていた。推しは一応は昭和を代表する俳優のひとりであるけど、そんな人のお墓にしては本当に質素なもので、そして寂しかった。

墓は目の前、2メートルほどの距離にあったが、私の足はまだ区画の外側であった。
来る途中で買ってきたお酒とタバコをカバンから出し、花立を直そうと区画の中へ足を踏み入れようとした瞬間、どっと涙が溢れ、立っていられなくなった。そのまましゃがみこんでオイオイと泣き始めた。頭の中は真っ白だった。

「大丈夫〜?」
向こうの道の方から、誰かの声が聞こえてきた。管理のおばあさんである。私が墓へ辿り着いたか心配して、様子を見にきたのだ。私は振り返って、しかし号泣してるもんだから声も出ず、頷くしかできなかった。おばあさんも「うん、うん」とうなずきながら戻っていったが、来てみたらしゃがみこんで泣いてるんだから、さぞかしびっくりしただろう。

どのくらい時間が経ったか覚えていないが、ようやく落ち着いて、少しぼんやりと佇んでから、足元へ置いていたワンカップとタバコをまたカバンにしまい、おばあさんのいる管理室へ戻った。推しに伝えたいことが山ほどあったのに、全部飛んでしまった。

ありがとうございましたとお礼をして帰ろうとすると、「森さんの叔父さんのお墓もあるのよ。よかったらお参りしてく?」とすすめてくれた。叔父さんとは画家の有島生馬のことであり、子どものうちに作家であった父親を亡くした推しにとって、その兄でもある生馬は父親代わりともいえる大切な存在である。ここに生馬叔父のお墓があることは私も知っていて、場所さえわかればぜひお参りしたいと思っていた。
「はい!」と答えると、おばあさんは「生馬さんのところ、あんまりお手入れされてないかもしれないけど」と言いながら場所を教えてくれた。推しのお墓からさほど離れてはいかなかった。

「あなた、今日帰るの?」
「今日は横浜に泊まって、明日帰るんです」
「そう…。愛知より横浜のが都会だからね、夜は危ないから、あんまり出歩かないように。明日気をつけて帰りなさいね」

生馬叔父のお墓をお参りして、その後は管理室へは寄らずにホテルへ向かった。帰路のことは全く記憶がない。ほとんど抜け殻状態だったのだろう。

最初は頑なにお墓の場所を教えてくれなかったおばあさんは、どうして気が変わって、お墓の場所を教えようと思ってくれたのかはわからない。当時、私はまだ30半ばであった。普通に考えたらどう見たって何十年も前に亡くなっている「俳優 森雅之」のファンなわけがないのだから、何者かと思ったに違いない。

推しがおばあさんの耳元で「通してやってくれ」とでも囁いてくれたのだろうか。おじいちゃんっぽい、あの声で。




後になって、正気の沙汰ではなかったから仕方がないとはいえ、花立も直さずに帰ってきてしまったことを後悔した。命日はこれからも毎年やってくる。毎年お参りして、ご家族からしたら余計なお世話かもしれないが今度からは少し掃除でもできるように支度をしていこう。そう決めた。

ところが、この2019年が最初で最後の墓参りとなってしまった。

翌年、世界はコロナ禍に巻き込まれ、自粛自粛で県をまたぐ移動もできなくなった。もちろんしようと思えばできないこともなかったが、私の推しパワーも世間体には勝てなかった。そのままなんとなくタイミングを逃し続け、気づけばもう7年である。

あの墓参りを境目に、私の推しに対する感情に少し変化が起きた。
うまい言葉で表現はできないが、少なくとも、それまで抱いていた「まぼろし」を見ているかのような感情はなくなったと思う。

小さくて古くて寂しいあのお墓の前に立った時、私はそれ以上足を踏み出すことができなかった。そのお墓がまるで推し本人であるかのような錯覚を起こした。
いや、錯覚なんかではない。彼はそこにいたのだ。絶対に。

その瞬間、おそらく本当の意味で推しの「死」を目の当たりにしたわけで、同時に、まぼろしではなくひとりの人間としての彼に初めて出会えたということなのだろう。

この7年の間に私の環境も変化し、あの頃ほどの熱量で推し活に力を注ぐことも段々となくなっていった。それでも迷った時や困った時にふと思い出し支えとなったのは、やはり推しの残した言葉であったり、考え方であった。

7年間の不躾を詫びながら、もう一度会いに行こう。
もし花立が倒れていれば、まっすぐに直そう。



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