見出し画像

「けしからん」と思考停止してはいけない。プーチンの悪魔的シグナルと、日露関係の冷酷な真実

昨日(8月13日)、プーチン大統領がはじめて択捉島を訪問し、あわせて軍事演習を視察した。日本人にとって決して忘れることのできないこの8月に、あえてロシアの最高権力者が紛争の最前線である北方領土の島に足を踏み入れるという行為は、日本に対するこれ以上ない侮辱であり、両国の関係を完全に修復不可能な状態に追い込む暴挙に思える。

しかしその一方で、プーチン大統領は会見で「日本とロシアの接近、両国の立場を近づけるために多大な尽力をした」と安倍元総理の外交を高く評価し、現在の日本側に対しても立場の変化を指摘するなど、奇妙な秋波を送っている。この矛盾に満ちた行動の裏にあるシグナルを、私たちは単なる「けしからん」という感情論で片付けるのではなく、冷静に構造を読み解かなければならない。


8月という残酷な歴史の記憶

そもそも、なぜこの時期の択捉島訪問がこれほどまでに悪辣なのか。

今から81年前の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦を果たした。すでに日本の敗色が濃厚であるにもかかわらず、満州、朝鮮半島北部、そして樺太や千島列島になだれ込んだソ連軍によって、多くの日本人が命を奪われ、筆舌に尽くしがたい地獄を味わった。

さらに歴史の事実を振り返れば、まさにその最中、スターリンは米国のトルーマン大統領に対し、「北海道の東半分(留萌・釧路を結んだ線より以北)をソ連の占領下に置かせろ」と露骨な要求をつきつけ、水面下で激しい交渉を行っていた。もし歴史の歯車がわずかに狂っていれば、日本の一部は東ドイツのように分断統治されていたかもしれないのだ。

そのような、日本人にとって国家の存亡と筆舌に尽くしがえない悲劇が刻まれた歴史的な「8月の記憶」のまさにその時期に、プーチン大統領がわざわざ択捉島を訪れて軍事演習を視察してみせる。これは日本に対して歴史的なトラウマを逆なでし、最大限の威圧をかけると同時に、あえて「お前たちの領土だと思って執着している場所は、こうして完全に実効支配している」という現実を突きつける、極めて計算された悪意あるパフォーマンスに他ならない。

安倍外交と1956年の歴史的妥協

しかし、プーチン大統領はそうした露骨な軍事的威嚇と同時に、安倍外交への称賛という「甘い言葉」を投げかけている。この矛盾を紐解くためには、かつて安倍元総理が直面した現実と、戦後日本が辿ってきた歴史の業を振り返る必要がある。以下はプーチンの会見で語った言葉。

ここで言及のある日本、我々の隣国の立場に触れたいと思います。
ここで強調したいのは、我々は日本を脅かしていないということです。
我々には日本に対して何の主張もありません。
日本はロシアを主要な脅威の一つに位置づけました。
我々が何ら挑発したわけでもないのに制裁を科しました。
日本はウクライナでの出来事を口実にロシアに対して
この紛争の原因には踏み込むことなく
ロシアに対して
むしろ、日本の方が我が国に対して領土的主張をしています。
いわゆるクリル諸島の問題です。
しかしこれは、国際文書において
第二次世界大戦の結果として生じた現実として確認されています。
しかし、この問題についても
ロシアは解決策を模索する用意がありました。
日本との平和条約締結に向けた解決策です。
1950年代半ばには、ソ連が日本との間で宣言に署名したことを思い出していただきたい。
それは日本との平和条約への道を開くものでした。
日本もこれに署名しましたがその後、これを拒否しました。
続いて、ソ連もそうしました。
しかし、新生ロシアは日本政府の要請に応じ
平和条約締結への道を探る対話を再開しました。
しかも当初から
この作業は、今言及した宣言を基礎として進めることも合意されていました。
当時、我々の間には日本の複数の指導者との
建設的な関係が築かれていたことを確認しておきたいと思います。
その中には、悲劇的に亡くなった安倍晋三元首相もいました。
彼は日本とロシアの接近、両国の立場を近づけるために多大な尽力をしました。
しかし残念ながら、現在我々は日本側の立場の変化を目にしています。
強調したいのは
我々が何ら挑発したわけでもないにもかかわらず
隣国である日本の立場が変化したということです。(プーチンの会見より)

そもそも、安倍政権が2018年に事実上舵を切った「2島返還(歯舞群島・色丹島)」という方針、その意味を正確に理解している人はどれほどいるだろうか。なぜ4島一括ではなく、あえて2島での着地を模索したのか。

1956年、鳩山一郎政権は日ソ共同宣言に署名し、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すことで合意し、国交を回復した。この最大の意図は、二国間関係の正常化そのものにあった。

そもそも、なぜ2島という形での着地が可能だったのか。その背景には、1951年のサンフランシスコ平和条約における「千島列島」の範囲を巡る複雑な解釈がある。同条約で日本は千島列島を放棄したが、その具体的な地理的範囲は条約内に明記されていなかった。

現在の日本政府の公式見解は、「択捉島と国後島は千島列島には含まれず、したがって放棄していない(ゆえに四島すべてが日本領である)」という立場をとっている。しかし、地理的・歴史的にフラットに考えれば、択捉島や国後島を千島列島の一部と捉えるのが自然であり、逆に歯舞群島や色丹島は本来は北海道の付属諸島(一部)であるため、千島列島の放棄には含まれないと解釈される。

つまり、1956年の日ソ共同宣言の時点で、日本側は「歯舞・色丹は千島に含まれず、放棄していない(あるいは返還されるべき)もの」としつつ、北方領土全体の一括返還という従来の高望みを一旦脇に置き、二国間関係の正常化を最優先して現実的な妥協を選んだ――そこにこそ、当時の政治的決断の核心があった。

しかしその後、池田勇人政権などの高度経済成長期を経て、日本は「4島一括返還」へと方針を硬化させ、1956年の合意は実質的に反故にされた。冷戦が深まる中、アメリカからの強い圧力(ex.沖縄は返さないぞと言うダレスの恫喝)もあり、日本がソ連とあえて敵対するポーズをとり続けること――つまり、北方領土問題を事実上の「生贄」に差し出すことで、西側陣営の盟主であるアメリカとの同盟関係をより強固にし、戦後の経済繁栄を築いてきたという歴史の側面は否定できない。

とはいえ、国家の冷徹な地政学の犠牲となり、祖国の土を踏むことなく高齢となった旧島民の方々の無念を思えば、この問題はいつの日か必ず解決すべき日本の戦後最大の懸案であることもまた事実なのだ。

誘い水に乗った私の「一瞬の迷い」と、その直後の現実的恐怖

だからこそ、今回プーチン大統領が発しているシグナルに直面したとき、私自身の中でも激しい揺れがあった。

もし仮に、かつて安倍元総理が目指したように、1956年の共同宣言をベースにして「2島返還+非軍事化(米軍基地を置かないこと)」という条件で決着をつけるならば、それはウクライナ戦争で窮地に陥るロシアにとっての活路になり得る。そして同時に、日本にとっても中国とロシアの間に決定的な「楔(くさび)」を打ち込める千載一遇のチャンスではないか――。

そんな考えが、一瞬頭をかすめた。長年の懸案が解決し、戦後の呪縛が解けるかもしれないという誘惑に、心が揺らいだのも事実だ。

しかし、冷静に思考を巡らせたとき、背筋が凍るような恐怖と現実が立ちはだかった。 もしこの誘いに乗れば、G7との協調関係や日米安保条約の信頼関係に致命的な、不可逆的ダメージを与えることになる。いまや現実味を帯びてささやかれる「台湾有事」の際、もしアメリカが「勝手にロシアと裏取引をした日本を信頼できるか」と背を向けたらどうなるか。アメリカの支援や抑止力が失われ、日本が単独で中国と対峙するような事態になれば、国家そのものが崩壊する。わずか2島の返還と引き換えに、国益の根幹である日米同盟を破壊するなど、どう考えても割に合わない「地獄への片道切符」だった。

プーチンの「悪魔のシグナル」と分断工作の正体

ここで私たちは直視しなければならない。これはプーチンの罠であり、日本と諸外国の仲を引き裂こうとする分断工作にほかならない。択捉島訪問という露骨な威嚇と、会見での安倍外交への称賛。この訪問と会見の目的を統合して見据えたとき、その正体がはっきりと見えてくる。

プーチン大統領は、日本がこの歴史的・地政学的な文脈において、今のタイミングでこの条件に絶対に飛び乗ってこないことなど、百も承知でこの発言をしているのだ。

これ以上ない歴史的侮辱(択捉島での軍事演習と8月の記憶の喚起)と、安倍外交への甘い称賛。この一見して矛盾する二つの要素を同時に繰り出すことこそが、彼の狙いである。 日本側がどうしても乗れないことを見越した上で、あえて「ハードルを下げて誘い水を送った」というポーズだけを世界に向けてアピールする。これにより、日本の世論や有識者層の中に「本当はロシアは2島なら返す気があるのではないか」「なぜ対話の窓口を閉ざすのか」という不協和音を生じさせ、日米同盟やG7の結束に亀裂を入れる。まさに、巧妙に仕組まれた「認知戦(情報工作)」であり、悪魔のような揺さぶりだと言っていい。

それでも残すべき「未来のオプション」

では、私たちはロシアと完全に縁を切り、永遠に対話を断絶させるべきなのだろうか。それもまた現実的ではない。

エネルギー資源の観点から見れば、天然ガスプロジェクト「サハリン2」の権益は日本のエネルギー安全保障の生命線であり、完全に手放すことはできない。さらに中長期的な視点に立てば、地球温暖化に伴って開通が進む「北極航路」の要衝として、ロシアの地政学的価値はむしろ高まりつつある。表向きは厳しく抗議しつつも、水面下で関係のパイプをつなぎ止めなければならないという、日本が抱える逃れられない地政学的な呪縛がある。

また、国家の冷徹な損益計算の裏で、旧島民たちの悲願という「人道的な問題」も無視することはできない。ゴルバチョフ政権の末期からエリツィン時代を経て約30年間にわたり続けられてきた「ビザなし交流」のようなプログラムは、現在の極度に冷え切った関係では当分再開が難しいだろう。しかし、それでもなお、旧島民の墓参や人道的な補償に向けた糸口だけでも模索し続けることは、国家としての道義的責任である。

この先、ロシアがウクライナでの消耗戦の果てに、かつてのソ連崩壊以来となるような深刻な大混乱に陥る日が来るかもしれない。もちろん、それはプーチン大統領がその座を去った後の話になるだろう。

その時が訪れたならば、私たちは再び領土交渉のテーブルにつく選択肢を持つべきだ。ただしその際も、決して高望みをしてはならない。西側諸国との同盟関係と国際協調の維持を最優先し、それが微塵も揺るがないという絶対的な条件がクリアできるのであれば――その時に初めて「2島返還プラスアルファ」の実質的な2島決着で着地する。

感情的な怒りでただ「けしからん」と叫ぶのは簡単だ。しかし、相手が仕掛けてくる悪魔的なシグナルの裏側を冷徹に分析し、国益を損なわずに未来のオプションを残し続けることこそが、いま私たちに求められている本当の知性なのではないだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!