国家の精神年齢
8月の新聞は、毎年同じだ。
広島、長崎、原爆、終戦、お盆。そこに、平和という言葉がたいていセットで付いてくる。今朝の朝刊もそうだった。悪いことではない。ただ、何十年も同じだったし、これからもずっと続くのだろうと思う。この習性には「8月ジャーナリズム」という名前まで付いているらしい。1年分の戦争と平和の記事が、8月に集中する。毎年、判で押したようにである。
毎年同じであることを、怠慢だと言う人もいる。僕はそうは思わない。あれはたぶん、報道というより法要なのだ。お盆に毎年同じように果物を供えるのと同じで、儀式というものは、同じであることが機能である。内容が更新されないことに意味がある行事を、新聞は記事の形式でやっているのだ(^-^)
で、今朝ふと思ったのである。これは、国家の精神年齢の話ではないかと。
日本という国は、8月になると、毎年同じ年齢に戻る。1945年の、あの夏の年齢にである。80年経っても、あの夏の話を、あの夏の言葉でする。国家の精神年齢は、この月だけ、同じところを行ったり来たりしている。成長していない、と言えば言える。「いつまで戦後なのか」と言う人もいる。でも、精神年齢の上がった国家というものを想像してみると、それはそれでホントか?と思う。
大人の国家というものを、僕はイメージ出来ない。世界中見渡しても、あるのか?ってね(^-^)
8月の日本は、この月だけ、同じ場所に戻れる。考えてみればたいしたものだ。戻る場所を忘れた国のほうが、たぶん怖い。
白状すると、実は、僕も同じなのだ。
noteでは老人であることを強調しているが、本当のところ、僕の精神年齢は15から35のあいだを行ったり来たりしている。67年生きて、上限が35で止まっているのである。
ゾロ目の日付を特別に思い、手品の種は明かさず、晴れたらパークゴルフ、雨ならプールに行き、半額のサンドイッチを3つ買って喜んでいる日の僕は、たぶん15のほうにいる。彼女によく笑われたり、呆れられたりしてるのは、だいたいこちらの精神年齢の日である(^-^)
特許だの契約だのの話をしている日は、35のほうまで精神年齢も上がるが、それより上の精神年齢のほうまでは成長しなかった。老成とか、達観とか、円熟とか、そういう能力が、そもそも僕にはないのだ。
ただ、成長していないことを、恥じてはいない。面白がってはいる。僕は恥知らずだ(^-^)
ずっと同じ自分の中に閉じ込められていて、それを突き破っている自覚もない。そもそも、破る理由が見当たらない。8月の新聞と同じである。新聞は毎年同じ記事を、毎年同じように書く。僕は毎日同じ僕を、毎日同じように生きる。どちらも怠慢ではなく、たぶん儀式なのだ。同じであることが、機能なのである。20年の幅はあるのに同じという言い切りが出来る、アバウトさが機能?っていうツッコミは遠慮なく、どうぞ(^-^)
ただ、今朝は少しだけ先のことも考えた。ずっと続くと思っていたが、続かないかもしれない。8月の記事がなくなるのではない。新聞のほうが、先になくなるかもしれないのだ。そうなると、国家が毎年同じ年齢に戻るための、あの便利なお知らせの紙の束がなくなる。
SNSも検索もAI君も、興味のあるものしか運んでこない。誰も検索しない記事を、全員の視界に置く、この芸当は、頼みもしないのに毎朝届く紙の専売だった。まぁ購読料を払ってるから、頼んではいるのだが(^-^)
しかも、あの夏を自分の言葉で語れる人は年々少なくなっていて、語る人と運ぶ紙が、同じ時期に薄くなっていく。語る人と運ぶ紙が消えたら、儀式はどこに宿るのだろう。
それはそれで、どうなのだろうと思う。
まぁ、国家の心配は僕の手に余る。精神年齢35では、このあたりが考察の限界である(^-^)
結局のところ、精神年齢が15の日は、世界を15歳の高さから見上げる。35の日は、35歳の高さから見渡す。つまり僕は、いつも自分レベルでしか世界を理解していない。
ほぼ成長しないで、そろそろ死んでもおかしくない年齢になってしまった(^-^)
笑い事ではない(^-^)
