だから私は服を作る-思想と産業の矛盾に、別の構造で応答するために
1. はじめに
私が服を作りたいと思った出発点は、美しい服への憧れだけではない。
その始まりは山本耀司だった。
私が強く惹かれたのは、たくさん買うな、長く着ろ、という態度である。
服を流行としてではなく、時間のなかで育っていくものとして考えること。
消費の速度に従うのではなく、一着と長く付き合うこと。
私はそこに、服の本質があると思った。
けれど、その思想に惹かれれば惹かれるほど、別の現実も見えてきた。
現実のブランドは産業として動いている。
店舗には売上があり、スタッフにはノルマがあり、流通は止まらない。
長く着ろという思想と、売り続けなければならない構造が同じ場所に共存している。
私はこの矛盾を見過ごせなかった。
そして山本耀司を起点にして調べていくうちに、この矛盾は一人だけのものではないと気づいた。
思想を持ったデザイナーたちは、結局みな同じ方向を指している。
もっと少なく、もっと深く、もっと長く。
にもかかわらず、ファッション産業はその反対側で動いている。
私が作りたいのは、単に美しい服ではない。
思想を裏切らない構造のなかで存在できる服である。
そこに、私が服を作る理由がある。
2. 私は何を解決したいのか
山本耀司を起点に考え始めたとき、私は最初、その矛盾を個人の問題だと思っていた。
だが調べていくうちに、そうではないとわかった。
デザイナーたちは、みな似たことを言っている。
アン・ドゥムルメステールは、出来上がったものに無駄を足さないと言う。純度こそが美しさだと言う。
ルメールは、買う量を減らせと言う。静かな反消費の時代へ向かうべきだと言う。
リック・オウエンスは、要らないものを削れと言う。欠けを受け入れろと言う。
ヴィヴィアン・ウエストウッドは、少なく買い、よく選び、長く使えと言う。
つまり、優れたデザイナーたちは皆、別々の言葉で同じ方向を指している。
もっと少なく。もっと深く。もっと長く。
けれど現実のファッション産業は、その反対側で動いている。
速く作り、速く売り、速く更新し続ける。
思想としては消費を減らしたいのに、構造としては売り続けなければならない。
私が見たのは、山本耀司一人の矛盾ではなく、思想を持った服が最後には産業の速度に回収されてしまうという、ファッションそのものの構造的な矛盾だった。
キャロル・クリスチャン・ポエルやポール・ハーデンは、その矛盾から距離を取ろうとした存在だと思う。
量を絞り、流通を限定し、既存の速度や均質化に抗おうとしてきた。
けれど、それでも完全に産業の外に出たわけではない。
複数制作され、販売され、ブランドとして成立している以上、産業との接続は残る。
だから私は、矛盾を美しく引き受けるブランドではなく、矛盾の前提そのものを疑うブランドを作りたい。
服作りは、私にとって美学の実践であると同時に、構造の実験でもある。
3. 服は私にとって何なのか
私にとって服は、商品である前に、身体の外側に置かれる構造である。
身体と世界のあいだにあり、摩擦を引き受け、時間を受け止めるものだ。
私は服を、眺める対象ではなく、使われることで意味を持つものとして考えている。
その感覚には、物を単なる対象ではなく、人間の生のあり方に深く関わるものとして捉えたハイデガーの視点に通じるところがある。
私にとって服は、着るための道具である以上に、どう生きるかを支える存在である。
だから服は、完成した瞬間に終わらない。むしろそこから始まる。
皺が入り、擦れが出て、補修の跡が残り、着る人の身体に沿って変化していく。
その過程のなかで、服は匿名の製品ではなく、特定の身体と時間を引き受けた存在になる。
私はその変化を劣化とは呼びたくない。
そこにこそ固有性が生まれるからだ。
均一な新品だけを価値の中心に置くと、服はいつまでも交換可能な商品にとどまる。
けれど、着用によって刻まれた痕跡は代替できない。
それは見た目の情報ではなく、関係の記録である。
だから私は、服を売って終わるものではなく、関係が始まるものとして考えたい。
何の予定もない日におしゃれする人が、おしゃれなのだと思う。
服がイベントのためだけにあるなら、それは予定に従属している。
何もない日にそれでも着る。
そのとき服は演出ではなく、生き方に近づく。
4. なぜ今、作るのか
今は、速く、安く、多く作ることが正しさとして流通する時代だ。
SNSは更新を促し、AIや自動化は形を生み出す敷居を下げていく。
形そのものを作ることは、以前よりはるかに容易になった。
だからこそ、いま問われるべきなのは何を作るかではなく、なぜ作るかである。
どれだけ早く出せるかではなく、それを出す必然があるのか。
どれだけ目を引けるかではなく、どれだけ時間に耐えられるか。
形を作る能力が広く配布された時代には、形の背後にある理由のほうが厳しく問われる。
私はこの時代に、すぐ消費されるものではなく、時間を受け止めるものを作りたい。
ただし、それは丁寧なものづくりという言葉だけでは足りない。
物だけが遅くても、構造が速ければ、結局は同じゲームに吸収される。
だから私は、服だけでなく、それを支える構造も作り直さなければならない。
40歳で服飾学校に出願したのも、そのためだ。
思想が本気なら、身体を差し出さなければならない。
技術を学び、素材に触れ、縫製の現実に向き合い、未熟さを引き受ける。
語るだけでは済まされない地点まで降りる必要があった。
私にとってそれは遅れではなく、条件だった。
5. 見えない時間をどう扱うか
私は以前から、物の価値が購入の瞬間だけで強く定義され、その後の時間が制度の外側に置かれていることに違和感を持っていた。
新品だけが価値の基準になり、以後の使用、摩耗、補修、継承は副次的なものとして処理される。
けれど実際には、その後の時間のほうが物の実質を形づくる。
価値とは何か。所有とは何か。長く持つとは何か。
なぜ市場は、物と人の関係が深まっていく時間を扱うのが苦手なのか。
この問いは、服を通して私のなかで大きくなっていった。
この問題意識から、私は Byakuya という構想を考えてきた。
ただ、それは現在特許出願中であり、A’ Design Award にも提出しているため、ここで本質までは書かない。
ここで言いたいのは、その理論の中身ではなく、私が服を作りたい理由が、物と時間の関係をどう扱うかという問いと深く結びついているということだ。
服は、その問いを試すのにふさわしい媒体である。
身体に近く、時間の痕跡が現れやすく、修復や継承や記憶との関係が濃いからだ。
私は、買った瞬間ではなく、その後の長い無名の時間を扱いたい。
市場が派手な瞬間を好むなら、私は目立たない持続のほうに価値を見たい。
服を作ることは、その見えない時間の受け皿を作ることでもある。
6. どんなブランドと服を作りたいのか
私が作りたいのは、売上の回転を前提にしたブランドではない。
新作を出し続け、話題を維持し続けることで成立するブランドではなく、一着ごとの必然が強いブランドである。
私が作る服は、すべて一点ものにする。
それは制作数を絞るという戦略ではなく、産業主義の大量生産に対する立場の表明である。
同じものを複数作ることを前提にした瞬間、服は交換可能性の側へ引き寄せられる。
ここで私が拒否したいのは、単なる量の問題ではない。
ベンヤミンが見たように、複製可能性が増すほど、物が持つ一回性や固有の厚みは失われやすくなる。
だが私が作りたいのは、交換可能な商品ではなく、ひとつの存在としてしか成立しない服だ。
一点ものという形式は、希少性の演出ではない。
価値を回転率ではなく、関係と時間の密度によって定義し直すための条件である。
だからデザインも、感性の暴走であってはならない。
なぜこの形なのか。なぜこの素材なのか。なぜこの縫製なのか。
そのすべてについて説明できる状態を保ちたい。
曖昧さを神秘に偽装したくない。
服は、買った瞬間に完結するのではなく、着用、摩耗、補修、経年変化によって深くなっていくものでありたい。
少しの歪み、布の重さ、着るごとに意味が変わる黒、身体に対して従順すぎない構造。
そうした余白のある服を作りたい。
ただ、ここでその具体像をすべて書くことはしない。
すでにスケッチや設計の断片はかなりあるが、今後 Hyères などへのコンテスト提出を予定しているため、この段階では核心にあたる部分までは明かせない。
いま言えるのは、それが見た目の提案ではなく、ここまで書いてきた思想と構造の問題に対する物質的な応答として構想されているということだけだ。
7. 反産業主義とは何か
私が目指しているのは、産業を壊すことではない。
反産業主義とは、産業が当然のものとして要求してきた速度と無責任から、一歩降りることである。
早く作ること、早く売ること、早く更新すること。
それ自体が悪いのではない。
けれど、それが唯一の正しさになった瞬間に、服は時間を失い、作り手は判断の責任を失う。
私はそこから降りたい。
だからデザインも感性だけで済ませたくない。
なぜこの形なのか。なぜこの素材なのか。なぜ一点ものなのか。
そのすべてを説明できる状態で作りたい。
説明できないものを雰囲気で押し切るのではなく、考え抜いたうえでなお残る沈黙だけを服の中に残したい。
私にとって反産業主義とは、量を減らすことだけではない。
判断の回路を短くし、価値の基準を回転率ではなく時間の密度に置き直すことだ。
服を作るとは、その条件を現実に試すことでもある。
8. だから私は服を作る
私は自己表現のためだけに服を作るのではない。
思想と産業の矛盾を見たあとで、それでもなお服を信じるには、別の構造を自分で作るしかないと思った。
その必要に迫られて、私は服を作ろうとしている。
既存の仕組みの内側で、少し美しいものを作るだけでは足りない。
何を価値とし、何を残し、何を更新と見なすのか。その前提から作り直したい。
私にとって服作りとは、物を生産することではなく、別の関係を作ることである。
産業の外に立つとは、孤立することではない。
既存の速度に従わないことでしか結べない関係がある。
大量の共感ではなく、深い理解。
一時的な熱狂ではなく、長い持続。
売れたから正しいではなく、残り続けるから正しいという判断。
私はその基準を、現実の運営として試したい。
思想を語るだけで終わりたくない。
矛盾を見抜くだけで終わりたくない。
美しい服に感動し、その限界を理解したなら、自分で試すしかない。
失敗するかもしれない。
未熟さを思い知るだろう。
それでも試さなければ、思想は姿勢のよさで終わる。
だから私は服を作る。
流行に参加するためではない。
消費を加速させるためでもない。
思想と産業の矛盾を見たあとで、それでもなお服という媒体に賭けるために。
物と人との関係を、購入の瞬間ではなく、時間の厚みの側から考え直すために。
産業の外へより徹底して立つブランドを構想し、別の関係と別の時間を現実に作るために。
だから私は服を作る。
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