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なぜ今、「引き算」が高級に見えるのか

現代は「足し算」の時代である。

ロゴ、装飾、トレンド、コラボレーション、限定性、短尺映え、アルゴリズム最適化、SNS上での視認性。服はもはや、布と縫製だけで成り立っているわけではない。そこにはブランドの文脈、発売日の熱量、投稿された画像、着用者の属性、リセール価格、コメント欄の反応まで含まれている。

服は、情報として流通している。

その環境では、情報量が多いものほど見つけられやすい。大きなロゴは一瞬で読める。強い色はスクロールを止める。極端なシルエットは短尺動画に向いている。わかりやすいギミックは、説明される前に目に入る。

現代のファッションは、ある意味で「見られるための足し算」に向かいやすい構造を持っている。

一方で、その反対側にあるようなブランドが、高級性や知性として認識されている。

Yohji Yamamoto の黒と余白。Martin Margiela の匿名性。Carol Christian Poell の過剰なまでの物質性と情報遮断。The Row の極端な静けさ。

これらは、大きなロゴや即時的なわかりやすさとは距離を取る。むしろ、見えにくい。説明しにくい。すぐには理解されない。

にもかかわらず、あるいは、だからこそ、高級に見える。

なぜ今、「引き算」が高級に見えるのか。

この問いは、単にミニマリズムが流行している、という話では足りない。そこには、高級性の歴史、近代の美意識、情報環境の変化、SNSの構造、そして「編集」という行為の意味が重なっている。


かつて高級とは「足し算」だった

歴史的に見れば、高級とはしばしば足し算で示されてきた。

高価な素材を使う。大量の布を使う。複雑な刺繍を施す。宝石を縫い込む。強い色をまとう。身体のシルエットを人工的に作り上げる。人の手間と時間と資源を、どれだけ投入できるか。それが権力や富の可視化だった。

王侯貴族の衣装、宮廷服、儀礼服を思い浮かべればわかりやすい。そこでは服は、個人の好み以前に、身分や階級や権威を示す装置だった。豪華な布地、レース、刺繍、毛皮、宝飾。服の情報量が、そのまま社会的な情報量でもあった。

ベル・エポック期の女性服にも、同じような構造がある。コルセットで身体を整え、レースやフリルや装飾で身体を覆う。帽子も大きく、ドレスも複雑で、装いは生活の実用性よりも、社会的な演出と結びついていた。

そこでは、足せることが強さだった。

布を増やせる。装飾を増やせる。手間を増やせる。自分では動きにくい服を着られる。手入れに時間がかかるものを所有できる。つまり、身体の自由を犠牲にしてでも装飾を維持できること自体が、階級の証明になった。

高級とは、しばしば「過剰を維持できる力」だったのである。

もちろん、すべての歴史的な高級が過剰装飾だったわけではない。地域や時代によって美意識は異なる。ただ、少なくとも近代以前の多くの宮廷文化において、装飾量、素材量、工芸量は高級性を示す重要な要素だった。

つまり、高級はもともと静かだったわけではない。むしろ長いあいだ、高級はよく見えるものだった。遠くから見てもわかるものだった。誰が見ても「普通ではない」と理解できるものだった。

Chanel と近代的な引き算

そこに、近代的な引き算の感覚が入ってくる。

Coco Chanel は、しばしば引き算の象徴として語られる。「外出前に鏡を見て、アクセサリーを一つ外しなさい」という言葉は Chanel によく帰される。厳密に本人の発言かどうかは不確実だが、Chanel 的な態度を象徴する言葉として広く流通している。

ただし、Chanel を「引き算そのものの発明者」として扱うのは少し単純である。削る美学は、彼女以前にもさまざまな文化や領域に存在していた。

Chanel の重要性は、引き算を近代女性服の文脈で強く機能させた点にある。

コルセットで締めつけられた身体。過剰な装飾。動きにくい服。女性を美しく見せるための服が、同時に女性の身体を制限するものでもあった時代に、Chanel は別の身体感覚を持ち込んだ。

ジャージー素材、直線的なシルエット、男性服的な要素、動きやすさ。そこでは、装飾を削ることが身体の自由と結びついていた。

つまり Chanel における引き算は、単なる見た目のシンプル化ではない。服から不要なものを取り除くことで、女性の動き、生活、社会的な存在の仕方を変える試みだった。

ここから、「引き算=洗練」という近代的な感覚が強まっていく。

装飾を減らすこと。
機能を前に出すこと。
身体を自由にすること。
余計な意味を削ること。

それらは、近代的で合理的で知的な態度として見られるようになった。

高級性は、単なる物量から少しずつ離れ始める。高級とは何かを多く持っていることではなく、何を持たないかを選べることでもある。ここに、近代的な贅沢の形が見えてくる。

引き算の思想はもっと古い

削ることで何かを浮かび上がらせる感覚は、Chanel だけに属するものではない。

日本の侘び寂びや禅には、余白や静けさを重んじる態度がある。ただし、それは単に「少ないほどよい」という話ではない。侘び寂びは、欠け、古び、移ろい、不完全さの中に価値を見出す感覚に近い。禅もまた、装飾を減らすこと自体より、執着や過剰な意味づけを離れる態度として考えた方が自然である。

モダニズム建築にも、削る構造がある。装飾を取り払い、構造や機能を前面に出す。ここでの引き算は、精神性というより、産業化、合理性、新しい生活様式と結びついていた。

ファッションにおいては、Yohji Yamamoto の黒と余白がある。黒は単なる色ではなく、身体と布の関係を曖昧にし、輪郭を揺らすための空間として機能する。服が身体を説明しすぎない。むしろ隠すことで、身体の存在を別の仕方で立ち上げる。

Martin Margiela の匿名性も、引き算の一種である。作者性やブランドの記号を後退させることで、服の構造やファッションシステムそのものを浮かび上がらせた。ラベルの白さ、顔を隠すショー、既製服の解体と再構成。そこでは「誰が作ったか」よりも、「服とは何か」が前に出てくる。

これらはすべて、「削ることで本質を浮かび上がらせる」という構造に近い。

ただし、その本質が何を指すのかは、それぞれ異なる。時間なのか。精神性なのか。機能なのか。身体なのか。制度なのか。

引き算とは、単に少なくすることではない。何を見せるために、何を消すのかを選ぶことなのである。

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この先の有料部分では、現代において「引き算」がなぜ高級性や知性として認識されるのかを、歴史、情報環境、SNS、ブランド構造の観点からもう少し深く掘っていく。

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